実らぬ果実



ダークブラウンの木目調のテーブル上には多くの書類が広げられていた。男はその紙の束を纏め、ノートPCをバッグに収納しながら取引相手の社員に笑みを浮かべる。年齢は20代後半〜30代半ばだろうか。少々浮世離れした髪と瞳の色、端正な顔立ちは正確な年齢を測ることを困難にしていた。社員に向かって頭を軽く下げ、書類とノートPCを入れたビジネスバッグを右手に持った男は立ち上がった。出口まで案内しようと社員が立ち上がると、男は柔和な笑みを浮かべて丁重に断る。軽く頭を下げた社員がそのまま見送ると、男は部屋を出る前に振り返った。

「それではまた、機会がありましたら」

重厚な扉がゆっくりと閉じられ、男の靴音が扉越しに遠ざかっていく。男の靴音が完全に聞こえなくなってから、社員は深い溜息を吐き出した。不思議な雰囲気を身に纏った男に、妙な緊張感を覚えていたのだ。年齢不詳の男はライターをしていると名乗っていた。しかし、それはあくまでも表の顔だ。実情は池袋という街に異様なほど詳しい情報屋である。池袋のあらゆる情報に精通していて、裏社会のどんな複雑な情報にも長けていた。表に名前が出るのはライターの仕事のみだが、機密情報を要する場合にはとても重宝できる男だった。それにしても煙のように掴みどころのない男だ、と思う。取引中の物腰は非常に柔らかく、物言いも穏やかではあるものの、主導権をこちらに握らせることは一度もなかった。男が浮かべる優しげな表情も、中には僅かな無機質さが感じられるような違和感があった。あの男―――九十九屋真一は、有益な情報をもたらしてくれる取引相手である。しかし得意になれる気がしない、と社員は知らず知らずのうちに浮いていた額の汗を拭った。


×


建物を出た九十九屋はトレンチコートの裾を翻して歩き出した。オフィス街にはビルが多く、秋も深まった11月ということもあり吹きつける風は冷たい。今日の予定だった2件の取引は無事に終了したが、1時間後に別の用事が入っている。それまで時間を潰そうかと周囲を見渡すと、向かいの通りにカフェを見つけた。外観だけではあるが、雰囲気からするに落ち着いて過ごせそうだ。横断歩道へ向かうと、ちょうど歩行者信号が青から赤に変わる。少々もどかしく思いながら九十九屋は立ち止まった。その瞬間、遠くから何かが爆発するような轟音が響き渡る。周囲のざわめきが大きくなり、九十九屋が音のした方向を振り返ると、ビルの合間から垂直に飛ぶ自動販売機が見えた。そのまま真下に落下し、耳をつんざくような金属が破壊される音が轟く。

「あれは―――」

九十九屋は顎に手を当て、暫しの間思考を巡らせた。しかし歩行者信号が青に変わり、背を向けて横断歩道を歩き出す。こうやって直接目にしたのは初めてだが、あのような非常識な怪力を持つ人物は九十九屋の知り得る限り一人だけだ。池袋の自動喧嘩人形、平和島静雄。思わず口元が笑みの形に歪むのを堪えきれず、九十九屋は首に巻いていたマフラーを口元まで引き上げた。横断歩道を渡り切って振り返ると、今度は何も空に舞ってはいない。しかし小規模な爆発に似た破裂音は遠くから響いており、誰かを相手に一過性ではない喧嘩を繰り広げていることが察せられた。九十九屋は暫時立ち止まったあと、ゆっくりとカフェの扉を開く。限られた僅かな時間を、平和島静雄が奏でる破壊のメロディとともに愉しむために。


×


店内に入っても、くぐもった破壊音は遠くから聞こえていた。一部の客は事故か事件かとざわついていたが、店員や常連客にとっては日常茶飯事らしい。店内の雰囲気は比較的落ち着いており、時間までゆったりと過ごせそうだった。九十九屋はカウンターで軽食のセットを注文すると、窓際の席に腰かけた。まずは空腹を満たすためにサンドイッチに手を伸ばす。スパイシーなパストラミビーフと新鮮なレタス、マッシュポテトが挟まったサンドイッチはボリュームもあり、九十九屋の腹を満たしていった。味もカフェにしては上々で、レストランで出てきても遜色ないだろう。喉を潤すために珈琲に口をつけると、芳醇な薫香が鼻孔を擽った。店内で挽いてある珈琲は珍しいマンデリン産らしい。インドネシア原産のそれは、酸味で控えめで濃い苦味とコクがある。独特なのはハーブやシナモンに似通った上品な風味だ。九十九屋が普段飲む銘柄ではなかったが、好みにはとても合っている。香りを楽しみながらカップを唇から離し、九十九屋は舌先で行儀悪くパン屑を舐め取った。

珈琲のカップだけを残して皿の乗ったトレイを返却し、時間を潰すために九十九屋がノートPCを開いた時だ。それまでは遠くで鳴り響いていた闘争の音が、不意に近くで鳴り響いた。動揺したのか隣に座る女性が立ち上がり、困惑したように視線を彷徨わせる。事情が分からなければ恐怖でしかないのは当たり前だろう。見ず知らずの女性を気の毒に思いながら、九十九屋は開いたばかりのノートPCを閉じる。遠くであれば野次馬精神で見に行くことはなかったが、向こうからこちらに近付いているのであれば話は別だ。長らく感じることのなかった高揚感が自らの中に湧き上がってくるのを感じる。九十九屋はうっそりと人知れず笑みを浮かべた。飲みかけの珈琲を飲み干し、ノートPCをビジネスバッグに収納する。カップをカウンターに返却して、九十九屋は店の扉を押し開く。チリンとベルの音が鳴り響くのと同時に、街の喧騒が大きくなっていった。


×


カフェの外に出ると、それまでは落ち着いていた人々が近くなってきた破壊音に困惑していた。賢く状況を理解している者はそそくさとその場を離れ、何も飲み込めていない者も巡回の警察官に促され離れていく。九十九屋は人々が逃げてきている方向へと一人、足を向ける。凄まじい金属音が轟き、共に何が大きなものが地面に落下したようだった。恐らく本日二台目の自動販売機だろうと推察しながら、九十九屋は細い路地へと入っていく。静雄が相対している相手が普通のチンピラであればここまで長引くことはないはずだ。30分近くも戦い続けているということは、その相手が尋常一様な相手ではない証拠だ。暴走族か暴力団か海外マフィアか―――若しくは、新宿を主体とする"あの"因縁の情報屋か。

「折原……」

九十九屋の薄い唇から自然と呟きが零れる。これまでにも何度か連絡を取り合っている情報屋、折原臨也は平たく言えば九十九屋の常連とも呼べる顧客の一人だった。まだ20代前半でありながら情報屋の手腕は確かで、加えて眉目秀麗である。学生時代からも会社経営や情報操作に長けており、情報屋の狭い界隈でも噂は名高い。そんな臨也から初めてコンタクトがあったのは彼がまだ学生の頃だった。九十九屋は表向きにはライターを名乗っており、情報屋をしていることを知るのはごく一部の人間に限られている。臨也はそれを独自の情報網で掴み、自分が持たざる街の情報が欲しいと言った。九十九屋の情報料は相場を軽く超える高額なものだったが、臨也はそれを容易に払ってのけた。金を用意できるだけの人間であればそう珍しくはない。しかし成人していない男子学生が親や家の後ろ盾もなく行うのは、九十九屋にとっても初めてのことだった。臨也は情報のやり取りだけではなく、九十九屋との会話を多く望んだ。人間を愛してやまないという臨也の偏愛を吐露された時には少々面食らったものだが、池袋という街を愛してやまない九十九屋としては愛情を向ける先が異なるとはいえ深い感興を覚えた。探求心にも似たその感情を覚えたのは九十九屋だけではなかったらしい。臨也もまた、積極的に九十九屋の情報を求めるようになった。臨也としては九十九屋の正体が人間ではないのではないかと疑っているようでもあったが、そんな臨也の猜疑心に気付いていながらも九十九屋は臨也の介入を許した。機嫌が下降するとすぐに居所を突き止めてやると豪語されることが最近は多くあったが、九十九屋はそれも構わないと思っていた。勿論、情報屋としての手腕が臨也より遥かに長けているという自負があったからに過ぎないが。九十九屋は映像や写真で何度も見た臨也の顔を脳裏に思い浮かべ、笑みを深めた。胸を満たす高揚感を噛み締めながら、細い路地を抜ける。

九十九屋が少し大きな通りに出た時、何かが倒れる重い音とともに地面がぐらりと揺れた。金属ではない低い音は恐らく電柱が倒された音だろうか。特殊な体術を心得ているわけでもない九十九屋は、静雄の巻き起こす暴力に巻き込まれれば無事では済まない。どうするかと逡巡したそのタイミングで、九十九屋が通ろうとした細い路地の奥で轟音と同時に砂煙が舞い上がる。九十九屋が僅かに瞠目していると、砂煙の中から細い人影が現れた。身軽にビルのベランダから地面へ着地し、無駄のないフォームで真っ直ぐにこちらへ走ってくる。九十九屋が一歩後ろへ下がった瞬間、砂煙を振り払ってその人物は姿を見せた。真っ黒な髪は陽の光を受けて輝いている。髪の一本一本が柔らかそうな猫毛で、風にサラサラと揺れていた。砂埃で僅かに汚れてはいるが、上から下まで黒衣を身に纏っている。透けるように白い肌は不健康なほどで、覗いた手首も成人男性にしては細く映る。舞い上がる砂煙を避けるために閉じられていた瞳がゆっくりと開かれた。周囲を確認するために視線が動き、やがて九十九屋へと定められる。まるでルビーのような深紅の虹彩がぎらりと鋭く煌めく。

「―――ッ、……」

視線が交わったのは刹那に過ぎなかっただろう。しかし、大きく見開かれた瞳を揺らがせた臨也は動揺を露わにしている。臨也の唇が僅かに開かれ、しかし瞬時に堅く引き結ばれた。背後から大きな跫音が聞こえてきたからだ。臨也は九十九屋から視線を逸らすと細い路地へと入り、ビルの壁面を軽々と駆け上がった。僅かな凹凸を利用して違うビルや建物の屋根に移動しながら、細い背中は遠くへと消えていく。そして臨也の姿が消えた直後、砂煙の中から静雄が弾丸のような勢いで躍り出た。静雄は九十九屋には目もくれることもなく、臨也の逃げた方へ一直線で向かう。砂煙を堪えるためマフラーで鼻まで覆いながら、九十九屋は去っていく静雄の背中を見送った。

上背が高いこともあるだろうが、がっしりとした体格の良さは筋肉の成長の顕れだろう。それに相対する臨也の身体の細さには驚かされた。映像や写真で見た姿よりも随分と細く感じられる。傍目には、あの平和島静雄とやり合えるような体躯ではない。学生時代に取得したパルクールや体術を有効に使っているとはいえ、実際にその身のこなしを眼前にすると感慨深いものがあった。瓦礫が崩れ落ちる路地を眺めていると、不意に九十九屋の携帯が震える。開いて時刻を確認すると、カフェを出て20分近くが経過していた。電話の主は得意先の人間の一人だったが、用事の時間が近いので後ほど掛け直すと短く伝えて通話を終わらせる。幸いなことに用事で訪れる予定だったとある会社は此処から歩いて5分もかからない距離にあった。用事を不意にすることもなく、さらに珍しいものを目にすることが出来た充足感を感じながら、九十九屋は瓦礫の落下する音を背に歩き出した。


×


その夜、チャットルームに現れた臨也は普段通り九十九屋に情報を要求した。報酬の話がつくと九十九屋が情報を提供し、それに対して臨也はいくつかの質問を投げかける。九十九屋がそれにすべて答え終わると、臨也は用事があるからとチャットルームを抜けようとした。それを察した九十九屋は素早くキーボードを叩き、臨也にある質問を投げかけた。

『そういえば折原、今日は池袋にいたのか?』
『何故そんなことを尋ねる?』

つれない返事に苦笑しつつ、九十九屋はタイピングを続けた。

『池袋で平和島静雄が大暴れしていたらしいからな。お前が絡んでいるんじゃないかと思っただけだ』
『……取引で池袋に居た。午前から午後までの2時間程度だが』
『へぇ、そうか。じゃあ静雄とやり合ったのはお前か?』

不意に臨也の返信が止まる。何を考えているのだと九十九屋が考えを巡らせていると、歯切れの悪い返事が打ち込まれた。

『だったら何だ?』

不機嫌さを隠そうともしない無愛想な物言いだ。九十九屋は唇を歪めながらキーボードを軽やかに叩く。

『実は今日の午後、俺も池袋に居たんだよ』

九十九屋が打ち込んだ文章を目にして、臨也はどんな表情を浮かべているだろうか。綺麗な面貌を歪ませ、口汚く罵る言葉をあの薄紅色の唇から紡いでいるかもしれない。返事が打ち込まれるまでの時間は数分間にも感じられたが、画面の右下に表示される時計によると約20秒しか経過していなかった。やがてぱっと表示された文字列に、九十九屋は意表を突かれることになる。

折原臨也、死亡確認!


×


不愉快だ。今の感情を形容するのであれば、相応しい言葉はその一言に尽きるだろう。臨也はオフィスチェアに大きく凭れ掛かると、キィと軋む音を無視して大きな溜息を吐いた。画面に打ち込まれた文字列を見ることさえも腹立たしくて、乱暴にモニターの電源を半ば叩くように落とす。臨也は真っ黒になった画面を睨みつけて立ち上がると、大きな窓から新宿の夜景を見下ろした。無数の灯りの中に愛すべき人間がこんなにも存在する。そう考えると僅かに気分は向上したが、先程の九十九屋の言葉によって昼間の苦い記憶が呼び起され、再び不快感を覚える羽目になった。

「クソ……」

苦々しく吐き出しながら臨也は俯き、窓の硝子に額を押し付けた。ひやりした硝子の冷たさに少しだけ熱くなった思考が冷却されていく気がする。昼間、池袋に居たのは他でもなく九十九屋真一に関する情報を求めてのことだった。雑誌のライターをしていることから、情報誌の出版社であれば何か情報を掴めるのではないかと踏んでのことだ。しかし九十九屋と直接面識のある人物に会えることはなく、小さな情報の一つも掴むことができなかった。結局、臨也はフィナンシャルプランナーを装って入り込んだというのに収穫はゼロだった。そうして池袋を後にしようと駅近くまで来た時だった。雑踏の中に静雄が居ないか警戒はしていたが、バーガーショップの窓際席で食事中の静雄に気付くことが出来なかったのだ。数メートル先の距離を歩いている臨也の姿を目にした静雄は、店の硝子を薄氷を割るように拳一発で破壊する。臨也目がけて突っ込んできた静雄と、それから数十分に及ぶ死闘を繰り広げることになった。静雄の動きは大振りなので、広場から細い路地へ入り込めば臨也の方が優勢だ。しかし、その頃には臨也も体力を消耗して疲弊していた。静雄に対抗するために身につけたパルクールや体術の技術は高くとも、基本的にインドアな臨也は持久力が不足している。いくつもの細い路地を抜け、もうすぐで静雄の目を眩ませられる―――そんな時に出逢った男の姿が、臨也の網膜に焼き付いて離れない。地毛にしては異彩を放つ髪と瞳の色も、見かけでは年齢を判断できない風貌も、初めて見る人間のはずなのに強い既視感を覚えた。まるで昔から知っているような―――そんなデジャヴと同時に脳内に浮かび上がった人物は九十九屋だった。ほんの少しの動揺を浮かべた臨也に、男は薄い唇をゆがめて笑ったように見えた。ぐらついた感情に起因する錯覚だったのかもしれない。しかし、それを目にして臨也は確信したのだ。あの状況の自分を見てあんなにも優越に浸った表情を浮かべる人間は、九十九屋真一以外に思い至らないと。

「…………」

正直なところ、九十九屋真一は人間ならざる存在なのだと思っていた。臨也が愛する人間という括りに入れるにはあまりにも例外的だったからだ。臨也が知り得ない情報を独自の情報で簡単に収集している。しかも、その情報を手に入れる速度も人並み外れていた。そんな九十九屋が人間だという。実在していて、臨也はそれを目の当たりにした。九十九屋も愛すべき人間の一人だった―――正直、臨也の中でまだ咀嚼できる段階には至っていない。乱れた気持ちを誤魔化すように臨也は硝子に強く額を押し付けた。体温が移って冷たさを失った硝子は、もう臨也の頭を冷ましてくれそうにはない。振り返ると真っ暗になったパソコンのディスプレイが目に入る。再び電源を入れる気にはなれず、床のフローリングに視線を落とした時だった。デスクの上に置いていた携帯が着信音とともに震える。なんとなく嫌な予感を覚えつつ、手に取って画面を開く。表示された非通知の無機質な文字に肌が粟立つのを感じた。細い指先が自然と電源ボタンに伸びるが、力を込めることは敵わない。見えざる力に阻まれているような奇妙な感覚が癪に障る。重い息を吐き出しながら、臨也はゆっくりと通話ボタンを押下した。

「―――…はい」

臨也の声を聞いても相手は返事をしない。何かが聞こえないかと耳を澄ませてみるが、携帯越しに聞こえるのは静寂のみ。数秒が経過しても返事がないことに苛立ち、臨也は思わず声を荒げる。自分らしくないという自覚は十二分にあった。

「おい、返事をしろ!わざわざ非通知でかけてくるなんて悪趣味だな」

なおも言葉を重ねようとした瞬間、静寂を切り裂いて発せられたのは笑い声だった。くつくつという喉を震わせているであろう低い声色に、臨也は面食らって閉口する。何を口にしようとしたのか忘れてしまい、臨也が黙り込んでいると不思議そうな声が続けられた。

「おや、どうしたんだい折原。急に黙り込んでしまうなんて」
「……九十九屋……」

低く、耳障りの良い甘い声だった。臨也がやっとのことで名前を呟くと、男は再び喉を震わせて笑う。愉悦を隠しもしないその態度は、まさに九十九屋そのものだ。

「ご機嫌麗しく……はないようだね。なぁ折原、黙ってしまわずにその綺麗な声をもっと聴かせておくれよ」
「どうして、突然電話なんか」
「お前が話の途中で逃げ出したからに決まっているだろう」
「逃げ出したわけじゃ…!」
「俺はお前に話したいことがあったのに」

責めるような、それでいて縋るような九十九屋の口調に言葉を失った。立ち尽くしたままの臨也は、真っ暗なパソコンのディスプレイを見つめたまま黙り込む。九十九屋が人間なら、居所を突き止めて今までの仕返しをしてやろうと考えていた。はずだった。それなのに、こうして生身の九十九屋を目にして直接話していると心がざわめいて仕方がない。愛すべき人間の一人、そのはずなのに今はその事実を受け入れることができずにいる。

「……何を考えている?」
「な、にも」
「おや、随分と稚拙な嘘を言うようになったもんだ」

見透かすような言葉にも、言い返す気になれなかった。九十九屋は呆れたように小さな溜息を吐く。黙り込んだ臨也を宥めるような声が携帯越しに聞こえてきた。

「やけに混乱しているようだな。そんな殊勝な反応をされるとは思わなかったよ。……あぁ、俺のせいだな」
「…………」
「別に意地悪をしたくて訊いたわけじゃないよ。それに、池袋にいたのは本当に偶々だ。何もお前の行動を把握した上で顔を見ようとしたわけじゃあない。……まぁ、多少の好奇心があったのは事実だが」
「好奇心…?」
「静雄とやり合っている相手が折原である可能性はあると思った」
「、ッ…!一緒じゃないか、俺の顔を見ようとして」
「待てよ、折原。そもそも俺はお前の顔は前から知っていた。お前もそれは承知しているだろう。知っている顔を見るためだけに、今まで声も聞かせたことのない相手に、自分の顔を晒してまで会いに行ったりはしない」

お前をからかっているわけではない。言外に真摯な声で言われてしまい、臨也は再び言葉を失う。嫌がらせの類ではないことは理解した。しかし、臨也が引っ掛かりを覚えているのは九十九屋真一が実在する人間であるという揺らぎようのない現実だ。

「……多分、お前が一番言いたいことは別にあるな」
「何だと思う」
「九十九屋真一は本当に実在する人間だったのか、ということだろう」

判っているじゃないか。臨也は溜息を吐き出して瞳を手で覆った。軽く天を仰ぎながら、鬱屈とした気分で口を開く。意識しない内に声が震えていた。

「……なるほどね」
「俺のことを人外だと踏んでいたかい?」
「当たり前だ。お前のような規格外に情報を自由に操れる人間がいるわけがないと思っていたんだ。お前は化け物じみている」
「化け物じみている、か。褒め言葉として受け取っておくさ。しかし残念だったなぁ折原。俺は紛れもない人間だった。情報屋として、俺の方が上手だとこれではっきりしたんだ」
「黙れ」
「ようやくいつもの調子に戻ってきたか?まぁいい。なぁ折原、一つ訊きたいことがあるんだ」
「なに……」
「俺は人間だった。そしてお前は人間を愛しているな」

確認するようにそう告げられ、九十九屋に悟られないよう臨也は唇を噛んだ。一番触れられたくなかった核心部分に容赦なく踏み込んでくる、この男の影のような遠慮のなさが昔から苦手だった。隠している本心も躊躇なく暴かれ、晒されてしまう。

「お前は俺を愛せるかい?」

最後通牒に似た言葉が、臨也に重く圧し掛かる。この問いにどう答えても、事態が好転するとは思えなかった。答えに窮する臨也に、九十九屋は何も喋ろうとはしない。嫌味な笑みの一つでも零してくれればどれほど楽だっただろう。暫定的な誤魔化しが通用しないと理解しているからこそ、答えることがひどく億劫だった。携帯を握る指にはいつの間にか力が籠りすぎている。もはや感覚のない痺れた指先に力を込め直す。そして臨也はゆっくりと開いた唇から紡いだ。吐き出した言葉の先には、きっと何も実ることはないと知りながら。


end.




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