貴方が気付く前に



「綺麗だ」

そう言った彼の指先をよく憶えている。


×


僕とまったく異なる、太くて長い指先が僕の髪を撫でた。最初は畏れ多いなんて言って触れることさえ躊躇っていた彼だが、最近は迷うことなく黒髪に触れるようになった。その嬉しさに表情が緩むのを抑えられそうになくて、僕は彼の胸に顔を埋めた。鍛えられた筋肉の感触と高い体温を感じる。僕の仕草をどう受け取ったのか、彼は甘えてるんですかと揶揄を含んだ笑みを零す。

「そう見える?」

僕の返事に頷きながら笑い、彼はまた髪を梳きはじめた。漆黒の髪と瞳はこの世界では珍しく、土地によっては崇められたり忌み嫌われたりと曰くつきだ。双黒だなんだと騒がれることが多すぎて、僕も有利も命の危機に瀕すことは多かれど恩恵を受けた覚えはほぼない。脳裏に一瞬よぎった金の髪の男を恨めしく思うが、彼に執着していたのは僕ではない。持て余すほどの長さの黒髪を持ち、大賢者と呼ばれた軍師の男だ。

「猊下、なに考えてるんです」

獣並みの嗅覚は僕の思考までお見通しらしい。視線も合わせていないのに、その鋭さには恐れ入る。ゆっくりと上体を起こし、僕は彼の瞳を覗き込んだ。晴れた日の空によく似たシアンブルーが真っ直ぐに僕を射抜く。その瞳の奥に焦れた色を感じ取って、僕は思わず苦笑した。

「ヨザックは本当に賢いね」
「……お褒めに預かり光栄ですが、猊下。質問に答えていただけますか」
「やだなぁ、そんな怖い顔しないでよ」
「猊下」
「きみが気にすることじゃないよ」

眞王のことを考えていた、なんて言えば彼はきっと絶句するだろう。ただでさえヨザックは眞王廟に近寄りたがらない。自らのことを世俗に塗れた人間だと言って、疎んじようとする。だから正直に言って、今ようやく得ることのできた距離を反故にしたくはなかった。僕は不服そうなヨザックの太い首に腕を回し、指を組んでぐっと引き寄せる。至近距離でばちりと重ね合わさり、体温が上がる錯覚に襲われた。彼の熱い吐息が首筋に触れるだけで心臓の鼓動が早まる。賢いヨザックは僕の意向を汲み、ゆっくりと僕の身体を押し倒した。寝台がぎしりと音を立て、彼の頭越しに自室の高すぎる天井が目に入る。

「猊下は本当にオレを煽るのがお上手ですね」
「あはは、褒めないでよー」
「褒めてないです」

僕の言葉に呆れ混じりの溜息を吐き、ヨザックは上体を屈めた。伸びすぎたオレンジ色の髪は熟れすぎた異国の果実によく似ている。そんな髪を乱雑に掻き上げて、彼は僕の首に唇を寄せた。柔らかな唇が首筋に触れた、と思えば熱く濡れた感触が這わされる。反射的に肌が粟立ち、腰から痺れに似た感覚が湧き上がった。僅かに腰を浮かせた僕に気付いて、ヨザックはふっと笑みを零した。大きな手に宥めるように腰を撫でられると、それだけではしたない声が漏れ出そうになった。いつからこんなに堪え性がなくなったのだろう。

「我慢しないでいいですよ」
「っ、でも」
「恥じらう必要なんてないです。オレ相手なんですから」

その言葉が、姿の見えない相手を指して言っているのは確かだった。なんでもないような声色で零されたそれに、僕は俯いて唇を噛む。そっとヨザックの頬に触れ、彼の唇を奪った。虚を突かれて見開かれた青い瞳から視線を逸らさず、かさついた唇を舐め上げる。ヨザックは僅かに肩を跳ねさせる。僕は隙間から抉じ開けるように彼の口腔内に舌先を侵入させた。肉厚で熱い舌に自らの舌を絡め、誘うように吸い、甘く歯を立てる。口の端からだらしなく唾液が零れ落ちても、気にする余裕などなかった。青い瞳が観念したように一瞬閉じられたと思うと、ヨザックは僕の両手首を掴み、シーツに縫うように押し付けた。酩酊が深くなったことで酸素が薄くなり、頭の芯がぼうっと痺れた。唇が離れたころにはお互い息も絶え絶えで、思わず笑みが零れる。

「……って、手加減、してよ、ヨザック」
「猊下が…お先に、仕掛けてきたんでしょう」
「きみが、当てつけみたいに言うからだ」

笑みを絶やさぬまま僕はヨザックの頬に触れる。最近できたばかりの新しい切り傷は耳の下から顎近くまで伸びていた。山賊に数人がかりで強襲された時にできたというその傷は、ギーゼラの治療の甲斐あって痕が残ることはないそうだ。しかしまだ薄皮ができただけで、指で辿り触れれば凹凸が感じ取れた。国外任務に危険がつきものなことは重々承知している。しかしこうして傷を目にすると、正直肝が冷える。あと少し上を斬られていれば、もう少し深く斬られていれば、どうなっていたのか。

「猊下」
「…………」
「オレの言葉がお気に障りましたか」
「そうじゃない」

そうじゃないよ、ともう一度繰り返しながら僕はヨザックの瘡蓋を指先でなぞった。彼は大人しく触られるままになっていたが、やがて僕の指を掴んでぐっと顔を近づけた。至近距離で重なった視線に焼け焦がされそうな錯覚を覚える。彼の瞳は炎とは程遠い青色をしているのに。

「多くを語らない貴方の姿勢はとてもご聡明だ。それが不可思議で、魅力的でもある。だけど、俺のことを畏れ多くも恋人だと仰ってくださるなら……」

箍が外れたように一気にそこまで捲し立てて、ヨザックは不意に視線を落とした。乱れた敷布の波間に目を泳がせて、嘆息する。言外に彼がなにかを諦めようとしているのを感じ取り、僕は唇を開く。

「ごめん、ヨザック」
「……いえ、俺の方こそ不遜な物言いをしました。忘れてください」
「ヨザックが気に病む必要はないよ。きみの言う通りだ」

ヨザックはようやく顔を上げた。意外そうな顔をしている彼に微笑みかけ、僕は傷を指し示しながら言う。

「この傷、まだ良くならないね」
「…え?あぁ、まだ新しい傷ですからね」
「僕にも渋谷のように一人で魔力が使えればよかった。そうすればきみを治療することなんて容易いだろうに」
「そんな、猊下の魔力をオレ一個人のために行使させるなんて」
「でもきみは僕の恋人だ。……こうやって僕の知らない場所で傷をつけられると、無性に腹が立つよ」

僕の言葉にヨザックは大きく瞳を見開く。僅かに口角を上げ、笑ってみせるが僅かに表情は引き攣っていた。なに?と首を傾げるとヨザックは苦々しそうに口を開く。

「貴方がそんなことを言うなんて」
「そんなに意外だった?もしかして嫌だったとか」
「いいえ!とんでもありません、むしろその逆で……身に余る光栄です。貴人である貴方の恋人になれたばかりか、妬いていただけるなんて」

じゃあその大仰な口調をどうにかしてほしい、とは流石に言えなかった。この今でさえ、僕たちの距離は近づいてきたばかりだ。嬉しさと畏れ多さからなのか、複雑そうな顔をしているヨザックの太い腕に触れる。僕は誘うように日に焼けた肌を撫で上げて、彼の腕を引いた。そのまま後ろ向きに寝台へ倒れ込めば、ヨザックは僕を腕で囲うように押し倒す。

「ねぇ、ヨザック。早く触ってよ」
「―――お望みのままに」

節くれだった指が僕の手首を恭しく取り、触れるだけの口づけを落とす。それが夜伽の合図だった。


×


闇夜の中、僕がゆっくりと起き上がると隣にヨザックの姿はなかった。彼がいたはずの場所を撫でても滑らかな敷布の感触があるだけだ。僕は子どものように身体を丸め、膝を抱えた。大きすぎる窓の外を見上げれば、強い風にざわめき揺れる木々の向こうに煌々と輝く月が見える。

「……もう少し滞在するって言った癖に」

低い声で呟きを零すが、嘘を吐かれたことに憤っているわけではなかった。諜報員である彼が果たすべき職務を果たしているだけだ。いくら僕がかつて大賢者と呼ばれた人物の魂を持つ貴人であろうと、ヨザックを引き留める手立ては持ち合わせていない。喩え、僕たちが恋人という関係にあろうとも。そのことはきちんと現実として理解している。―――頭の中では。

(きみは"彼"に嫉妬していたけれど、そんな必要はないんだよ)

ヨザックに、直接そう言ってやるべきだっただろうか。情事の熱に紛れさせ、吐露してしまえばよかっただろうか。寸刻だけ考え込み、僕はゆるく頭を振った。おそらく、この先もずっと言うことなどできそうにない。自分は羞恥心も何も持ち合わせていないと思っていた。だけど彼の前で顔を覗かせる含羞という感情は、紛れもなく恋慕に起因されるものだと理解している。なんでもない言葉に一喜一憂している僕のことを知れば、ヨザックはどんな顔をするだろうか。綺麗だ、なんて陳腐すぎる世辞だと思っていた。彼の唇が形を紡ぎ、声に出されるだけでどうしようもなく胸が高鳴ってしまう。


静謐な陰翳に幕を引くように、僕はゆっくりと目を閉じた。こんなみっともない感傷には蓋をしよう。目蓋の裏に映る、橙色の髪をした貴方が気付く前に。


end.



title by サボタージュ




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