ふたりごはん 01

※本編より数年後


- 1st week/Monday -

「あれ?渋谷のお兄さん?」

背後から掛けられた明るい声に思わず動きを止める。弁当の容器を掴もうとした手もそのままに、勝利は背後を振り返った。レジの前で眼鏡越しに目を丸くして手を振っているそいつは、間違いなく弟のお友達だった。

「なんでお前がここに……」
「それはこっちの台詞ですよ。あ、それ晩ご飯ですか?ハンバーグ美味しそうですね」

呆然とした様子の勝利にお構いなしで近付いてきた村田は勝利が手を伸ばしかけていた弁当を覗き込んだ。慌てて手を引っ込めるが、村田は既に別の弁当を吟味していた。シーフードドリアを手にして、にっこりと笑みを向けてくる村田に勝利は声を詰まらせる。咳払いをして誤魔化すと、ハンバーグ弁当を避けて隣にあったカツ丼を手に取る。

「あれ?そっちにするんですか」
「どうでもいいだろう。人の弁当を見るな」

カツ丼を隠すようにレジに持っていき、ついでに真横にあった陳列棚から緑茶のペットボトルも手に取る。会計を済ませると、既にシーフードドリアを買い終わった村田がコンビニ袋をぶら下げて勝利を待っていた。踏み出した一歩を引っ込ませたくなるが、後ろに並んでいる主婦の視線を感じて勝利は溜息を吐いた。

「ねぇお兄さん、もしかしてこの辺りに住んでるんですか?」
「お前にお兄さんと呼ばれる筋合いはない。弟のお友達」
「あ、それ久しぶりに聞いたなー。懐かしいや。僕もこの辺に住んでるんですよ。大学が近いので」
「人の話を聞け」

相変わらず掴みにくい空気を持った男だ。有利と同い年には思えないほど落ち着き払った態度は、1年ぶりに会うというのに変わった様子がない。コンビニを出ると空は夕闇に染まっている。勝利は溜息を吐くと、自宅マンションへ向かって歩き出した。

「お兄さんは銀行に就職したんですよね。ボブとは連絡取ってます?僕は先週彼に会ったばかりなんですけど、ジョゼも一緒で相変わらずでしたよ。またガンダム学会がどうのとか言ってて」
「勝手に話し始めるな。というかどうして俺について来てるんだ!?」
「え?積もる話もあるのでお邪魔しようかと…」
「はぁ!?俺にはないしお前なんかを家に上げるつもりもないぞ!」

勝利はばっさり切り捨てるが、村田は意に介した様子もなく笑みを浮かべた。

「そんなー。お兄さんと僕の仲じゃないですか。ね、仲良くしましょうよ」
「ゆーちゃんがいないんだからお前と仲良くする必要は微塵もない」
「うわ、離れても相変わらずブラコンですね」
「うるさいっ」

しつこく絡んでくる村田をあしらっていると自宅マンションが見えてきた。しかしこのまま住居を知られると面倒なことになりそうだ。勝利はその場に立ち止まると、きょとんと首を傾げた村田の背中を押しやる。

「俺はもう帰る。お前もさっさと帰れ」
「えっ……も、もしかして、お兄さん……」
「な、なんだ。なんで頬を赤らめてるんだお前」
「僕のこと心配してくれてるんですか?」
「は?」
「お兄さんたら優しいー!ぶっきらぼうに見えて実は…なんて、ギャップあって僕ドキドキしちゃいますよぅ」

身体をくねらせて勝手に盛り上がる村田を見て勝利は後退った。おかしい、おかしいぞ。確かに元から変な奴だとは思っていたが、ここまでだったか?

「お兄さん?どうしたんですかー?」

ドン引きしている勝利にお構いなしで村田は尚もついてこようとする。勝利はじりじりと後退すると、引き留めようとする村田を振り払って全速力で走り出した。弟と真逆で運動とは縁遠い身体が悲鳴を上げるが、もう必死だった。腕と足を全力で動かし、マンションの方向へ向かって走る。手にぶら下げているビニール袋がめちゃくちゃに揺れるが、構っている余裕もなかった。這う這うの体で帰宅し、息せき切ってエレベーターに飛び乗る。秋だというのに汗がじっとりと全身を濡らしていた。不快感を覚えながらも必死に呼吸を整えてエレベーターを降り、自分の部屋へと駆け込む。扉に背中を預け、靴を脱ぐ暇もなくその場に崩れ落ちた。べしゃりと床に落ちたビニール袋を見るとカツ丼はぐちゃぐちゃになっている。あまつさえ汁まで零れかけているのを見て、重い息を吐き出した。

「なんなんだ、あいつは……」


×


- 1st week/Tuesday -

翌日。勝利は行きつけのコンビニを避けてスーパーへと言った。あいにく弁当類は夕方の値引きシールの影響か売り切れで、勝利は仕方なく自炊へと切り替えることにした。とはいえ、勝利の料理レパートリーは簡単な麺類やチャーハン程度しかない。最低限の野菜や肉類を購入すると、慣れないセルフレジを終えて店の外へ出た。

「あっ!!」

嫌な予感がする。昨日聞いたばかりの声に恐る恐る振り返ると、そこには村田が立っていた。偶然ですねーと笑いながら勝利の方へ駆け寄ってくる。

「渋谷のお兄さん!昨日はどうしたんですか?急に帰っちゃうから僕泣いちゃいましたよ」
「嘘をつけ嘘をっ!」
「あれ、今日はコンビニじゃないんですか?」
「お、お、おっ、お前こそ」

あまりのことにひっくり返った声で言い返すと、村田は不思議そうに目を丸くした。

「え?あぁ、僕はあのコンビニ滅多に行きませんよ。基本的に自炊なので、普段はここ使ってます」
「えっ」
「昨日はあんまんでも買おうかなって寄ったんですけど、久しぶりにコンビニ弁当もいいかなーって買っちゃったんですよね。いやー美味しかったんですけど、やっぱりあれ毎日だと身体に悪そうで……」
「お前、自炊してるのか?それも、毎日?」
「えぇ、そうですよ。料理は慣れてるので」

さらりと零された言葉に勝利はショックを受ける。有利も勝利も父の勝馬もだが、渋谷家の男どもの料理スキルは0に近い。器用さは微塵もないし、がさつすぎて母の美子は呆れてばかりだった。一人暮らしを始めてすぐに1週間はきちんと作ろうと奮闘したものだったが、どれも美味しいとは言い難い仕上がりだった。

「お兄さんも……あれ、これだけですか?もしかして、普段からコンビニ弁当ばっかり食べてるんじゃ…」

勝利のビニール袋を覗き込んだ村田は首を傾げていたが、勝利の反応から理解したらしい。目を逸らした勝利を見て苦笑いを浮かべた。

「身体に良くないですよ」
「お、お前には関係ないだろ」
「そりゃそうですけど、昨日美子さんに連絡したんですよ。お兄さんと会いましたって」

突然の爆弾発言に勝利は思わず声を上げた。手にしているビニール袋を危うく落としかける。

「そしたら『しょーちゃん料理苦手だから心配なのよねぇ。様子を見に行きたいんだけど来なくていいって突っぱねられちゃって心配なの。健ちゃん、様子見てきてくれないかしら』って言われちゃって。だから他人事ってわけでもなくてですね」
「ちょ、ちょっと待て、お前ひとんちの母親を名前で呼ぶな。ていうか連絡ってなんだ、お前まさかお袋のLINE知ってるんじゃ」
「知ってますよ」

なんでだよ!勝利はその場に崩れ落ちそうになった。村田は相変わらずにこにこと微笑んでいて、証拠とばかりにスマホを勝利の眼前に突き付けてきた。見覚えのある愛犬のアイコンを目にしてがっくりと落胆する。

「おかしいだろ……」
「あぁお兄さん、僕ちょっと買い物してくるので待っててください」
「なんで」
「なんでって、僕にはお兄さんの監督義務があるので。今日こそお邪魔させてもらいますよ」
「嫌に決まってるだろ!?お、俺は帰るからなっ」
「美子さんに言っちゃいますけど、いいんですか?なんなら渋谷にも」

それは脅しか?と尋ねると村田はにっこり笑って嫌だなぁそんな物騒なことするわけないじゃないですかーと微笑んだ。目の奥はまったく笑っていない。結局勝利は備え付けのベンチで10分ほど村田が買い物を終えるまで待ち、マンションへ連れ帰る羽目になってしまった。


×


「なんでこんなことに……」
「溜息ばっかり吐いてると幸せが逃げちゃいますよ」
「お前を連れて家に帰っている時点でもう逃げてるだろうよ」
「えー?僕は幸福の印みたいなもんですよ」
「胡散臭い宗教みたいなことを言うな」

駅から徒歩10分。スーパーやコンビニから少し離れた公園の横に勝利の住むマンションはあった。15階建てで築10年程度の新しくはないが小綺麗なマンションだ。鍵を開けてエントランスを抜けるとエレベーターに乗り込む。勝利の住居は10階だった。このマンションに一つだけ難点があるとすればエレベーターの速度が遅いことだろう。

「…………」
「お兄さん?元気ないですね」
「当たり前だろ。あぁ、せめてお前が可愛い女の子だったらなぁ」
「えー?僕可愛いじゃないですか。美子さんからもよく言われてましたよ?『健ちゃんは可愛いし色んな服を着てくれるから嬉しいわー』って」
「俺たち兄弟が嫌がるフリフリエプロンやら女物の服を着てたらお袋はそう言うだろうよ!というか、いい加減にそのお兄さん呼びをやめろ」
「でも渋谷のお兄さんはお兄さんなわけだし」
「お前の兄になったつもりはないんだから気持ち悪いんだよ」

そう言い合っているうちにエレベーターは10階へと到着する。ポーンという気の抜ける電子音とともに扉が開いた。

「じゃあ、勝利さんって呼べばいいんですか?」

呼ばれ慣れない呼称に背中がむず痒くなるが、"お兄さん"呼ばわりよりはマシだと勝利は自分自身に言い聞かせた。頷きながらエレベーターを降り、ポケットから鍵を取り出す。廊下の突き当りを曲がった1005号室が勝利の部屋だ。

「まぁ、そうだな」
「分かりました、勝利さん。でも、それなら僕のことも"弟のお友達"呼びから変えてほしいなぁ」
「は?弟のお友達は弟のお友達だろう」
「でも今は渋谷が近くにいるわけでもないので」
「……それはそうだが」

と言われてもどう呼べばいいのか。部屋の扉を開錠する手が妙に汗ばんできた。自分が下の名前で呼ばれたせいで一瞬下の名前を口にしかけるが、いやそれはおかしいと慌てて口を噤む。こちらは有利という弟がいるから向こうが名前で呼ぶのはおかしくないが、有利でさえ村田のことは苗字で呼んでいるはずだ。それならばそちらに合わせた方が違和感はないだろう。

「村田、でいいか」

ガチャリ、という音とともに扉が開錠される。扉を開けた勝利は背後にいる村田の表情を伺うことはできなかった。

「えぇ、大丈夫ですよ。あ、お邪魔しますー」

手探りで壁のスイッチを探して灯りをつける。勝利が振り返った時には、村田はいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。買い物袋を玄関に置き、靴を脱ぐ。丁寧に靴を揃えた村田は、洗面所の場所を聞いて手を洗いに行った。初めて来るはずなのに戸惑った様子もなく順応している村田に呆れつつ、勝利は自分と村田のビニール袋をキッチンへと運ぶ。手を洗い終わった村田にリビングへ行くように伝え、勝利も手を洗うべく洗面所へ入る。手を洗い終わって戻ると、村田はリビングのテーブル脇に紺のショルダーバッグと薄手のコートを置いて既にキッチンに立っていた。

「勝利さん、もう作っちゃって大丈夫ですか」
「あぁ……何かすることはあるか?」
「お米だけ炊いてもらえれば。あとは僕が適当に作るので」

手慣れた様子でビニール袋から野菜を取り出して洗っていく。村田の様子に少々気圧されながらも炊飯器から炊飯釜を取り出し、米びつから2合分の米を投入する。村田が野菜を洗い終わったところで水を入れ、邪魔にならないよう端で3回ほど研いでは流した。水が乳白色にならないことを確認すると、水の量を確認して炊飯器にセットする。1時間ほどで炊けるだろう。ついでに調味料や調理器具、食器の場所を説明すると、村田は助かりますと微笑んだ。

「ありがとうございます」

これぐらいでお礼を言われても、と思ったが適当におうと返しておく。村田は手際よく野菜を切り、フライパンに油を引いて炒めはじめていた。野菜炒めか何かだろうか?それにしては醤油や塩胡椒とは違う匂いがした。気になったがキッチンを覗くのは憚られてリビングに戻ると、買ったばかりでテーブルの上に放置していた自己啓発本の存在を思い出した。ソファーに腰を下ろして適当に読み進めていると、気付いた村田がキッチンから声をかけてきた。キッチンから漂う香りは先ほどとは変わり、肉を焼く香ばしい香りに変わっていた。生理現象で勝利の腹がぐうっと音を立てる。

「それ、買ったんですか?」
「あ?あぁ……ベストセラーだったし同僚にも勧められてな」
「へぇ、勝利さんそういう本も読むんですね」
「まぁな」

"勝利さん"呼びに違和感を拭えないまま返事をする。村田はグリルの様子を確認しながらまた別の料理に取り掛かっているようだった。慣れているというのは本当だったようで、涼しい顔で動き回る様子に思わず見入ってしまう。ふと勝利の視線に気付いた村田がこちらに視線を投げる。ばちりと視線が重なり、気まずさに勝利は本へと視線を戻す。村田はそんな勝利に小首を傾げ、それから合点が行ったように笑みを浮かべた。

「お腹空いてきました?もうすぐなので待ってくださいね」

グリルのタイマー音に身を屈めた村田の頭を本越しに眺めながら、勝利は軽く息を吐き出した。落ち着かない、非常に落ち着かない。自分の家だというのに、こうしてソファーに座っていてもそわそわとしてしまう。本の内容も半分ぐらいは頭に入っていなかったし、それが空腹だけの原因でないことも分かっていた。自分自身の抱く感情がどうにも理解できず、勝利は村田に聴こえないようにもう一度息を吐き出した。


×


「お待たせしましたー」

村田の明るい声に勝利は読んでいた本を閉じた。ソファーから立ち上がると、ちょうど米も炊けたようで炊飯器がピーッと音を鳴らす。台ふきを水で濡らし、テーブルを拭くと勝利は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出した。来客用のグラスに注いでいると、村田に名を呼ばれる。

「勝利さん、もう持って行っていいですか?」
「あぁ。茶碗とか箸は俺が持っていく」
「はーい」

麦茶と箸、取り皿と茶碗を大きめの盆に載せてリビングへ運ぶと、村田はちょこんと座布団に座って待っていた。妙に落ち着かない気持ちのまま、勝利は茶碗を片手に炊飯器を開けた。どうやら水加減は間違わなかったようで安堵する。適当な量をよそって渡すと、村田は笑顔で受け取った。

「とりあえず、今ある材料で作れる範囲で作りました」
「これ、1時間で作ったんだろ?本当に慣れてるんだな、お前……」
「いやだなぁ、照れちゃいますよー」

勝利が素直に褒めると、村田は珍しく頬を染めて手を振った。テーブルの上を改めて見ると、野菜炒め、グリルで焼いたチキン、味噌汁と和え物が並んでいる。どれも見た目や盛り付けもしっかりしていて、料理上手なお袋にも引けを取らないだろう。そういえば何度もお袋を手伝っていたが、その時も上手くサポートをしていたような気がする。

「お口に合うといいんですけど」

じっと料理を見ている勝利に何を思ったのか、村田は心配そうに眉根を下げてそう言った。勝利は慌てて手を合わせると、早口でいただきますと口にした。箸を取ると、まずは最初に和え物に手を伸ばした。ほうれん草と人参、胡麻の和え物は控えめな味付けが上品でとても男子大学生が作ったとは思えない。野菜もしっかり茹でてあって変な硬さも感じられなかった。次に味噌汁に手を伸ばすが、これも塩加減がしっかりしていて口にすると気持ちが落ち着く。具材は葱、豆腐、わかめと小松菜だ。インスタント味噌汁の少し尖った味噌の味や具材のないものに慣れていた勝利は、久々に味わう具沢山な味噌汁に感動してしまう。

「どうですか?」
「あ、あぁ。思ってたより数倍、美味い……」
「あっ良かったー。勝利さん黙って食べるから心配しちゃいましたよ」
「……すまん」

数か月ぶりの人に作ってもらった食事に感動しているなどとは言い出せず、しかしいつもの調子で邪険にする気にもなれず勝利は言葉少なにそう返す。村田は安心したように笑って味噌汁を啜り、満足げに頷いた。

「味噌はあったやつ使ったので、渋谷家の味とは違うと思うんですけど」
「あぁ、でもこれも美味いぞ」
「よかった」
「しかしお前、家でも料理を手伝ってるってことか?それにしても、ここまで作れるとは思えないんだが」
「あぁ、僕んちって完全に放任家庭なんですよね」

さらりと事もなげに告げられた言葉に勝利の思考は一瞬フリーズする。村田は気にした様子もなく味噌汁をもう一口飲むと、野菜炒めを自分の取り皿によそう。

「渋谷は知ってると思うんですけど、両親が仕事一辺倒な人たちで。ずっと鍵っ子だったんです」

まるで他人事のように淡々と語る様子に勝利は言葉を失う。有利や自分と同じ色のはずの漆黒の瞳が僅かに違う色を孕んでいた。

「だから小学生……低学年の頃からかな?簡単な家事とか料理は自然とやるようになって、中学生になった頃にはほとんど自分一人でやってましたよ。両親が帰ってきた時も僕が料理したりして」

だから得意なんです、と村田は微笑んだ。いつもと同じはずの表情が翳っているように映る。勝利が呆気に取られていることに気付くと、村田は頭を掻きながら苦笑する。すみません、と責めてもいないのに謝る様子に勝利の胸がずきりと痛む。

「引いちゃいました?」
「……いや、そうじゃないが……」
「無理しないでいいですよ。僕としては結構、両親には感謝してるんですけどね。早くから自立できたし、一人で好きなことをできる楽しみを知れたので。ま、大した話でもないし、忘れてもらっていいですよ」

あっけらかんと言うと、村田は野菜炒めを口にした。何を言うのも憚られて勝利もチキンを口にするが、パリッとした皮の触感もジューシーな身の味さえもあまり感じられなかった。普段から明るく振舞っていたせいで予想もしなかった村田の家庭環境に、まだ驚いている。しかも本人が明るく話したので分かりにくかったが、かなりの放任っぷりだろう。渋谷家とは真逆すぎる家庭環境だ。それなのに村田は渋谷家に入り浸り、有利だけでなく勝利や美子にも甘えていた。愛情が乏しかった反動、だったりするのだろうか。味噌汁を啜る村田は何事もなさそうな表情を浮かべている。

「でも、楽しかったです」
「え?」
「今日、久しぶりにこうやって誰かに料理を作ったんですよ。勝利さんも気に入ってくれたみたいだし、やっぱり楽しくて」
「……ゆーちゃ…有利とは、最近会っていないのか」
「あー、そうですね。連絡は取ってはいるんですけど、高校の頃ほど遊ぶこともなくなっちゃいましたし。眞魔国の方も落ち着いてて、僕が行くこともかなり減ったので」
「そうか」

村田に続いて勝利も食べ終わり、両手を合わせてご馳走様でしたと口にする。村田はお粗末様でしたとにっこり微笑む。その笑顔が屈託もなく嬉しそうで、先ほどの話を脳内で反芻しながら勝利は胸の中の蟠りを強く自覚していた。

「美子さんに連絡しておきますね!」
「馬鹿、言わなくていい」
「えー?でも勝利さんも料理できた方がいいですよ。これからの時代、男も料理できなきゃ女の子にはモテないと思いますし」
「それは……そうだな」

とはいえ、会社の女性陣といえば勝利よりも歳上ばかりだし、既婚者も少なくない。会社以外での出会いは無いに等しいし、料理ができても出会いの場を求めなければ意味がないように思う。それよりも村田のことが気になって仕方ないのが正直なところだった。相手は男だぞ、と頭のどこかでは理解しているのに気付けば口が動いている。あぁ、俺も有利のことを馬鹿にできないのかもしれない。

「村田」
「あ、はい。なんですか」
「材料費とバイト代は出す。これからも頼めないか」
「―――え?」

麦茶を飲もうとグラスを持ち上げた状態で村田は動きを止めた。想定外の言葉だったのか、その状態で黙り込んで村田はグラスをテーブルに戻した。

「勝利さん、そんなに僕の料理気に入ったんですか?」

それだけじゃない、と言いそうになったのをぐっと堪える。理由をそのまま口にするとただの同情だと受け取られてしまいそうだったからだ。勝利が黙って頷くと、村田は顎に手を当ててうーんと数秒悩んだのちに元気よく頷いた。いいですよ!という声に勝利は目を見開いた。

「いいのか?」
「バイト探そうかなと思ってたんですけど、正直めんどくさくて。気楽にやれそうだしやりますよ」

グラスを持ち直し、一口飲んで村田は微笑んだ。断られなかったことに安堵し、勝利も自然と表情が緩む。しかし次に村田が口にした言葉で飲んだばかりの麦茶を噴き出しかける。

「でも、なんかこれってプロポーズみたいですね」
「は、はぁ!?」
「"俺のために毎日味噌汁を作ってくれ"ってことでしょ?」
「そんなこと一言も言ってないだろ!」
「え?じゃあ味噌汁なしでいいんですか?」
「……味噌汁は、いる」
「じゃあやっぱりプロポーズだ」

困惑する勝利をよそに村田は楽しげに話を進めていく。呆れていたが、楽しそうに笑う村田を眺めていればどうでもよくなってしまった。読みかけの本に手を伸ばす気にもなれず、勝利は額に手を当てる。

「勝手に言ってろ」


×


バイトの契約内容はこうだ。毎週月〜金曜日で、バイト代は1食1,000円。月2万程度になるだろう。食事は村田も一緒だが、材料費はレシート提示で勝利が全額支払う。村田はサークル活動がなければ通常17〜18時頃に大学が終わり、勝利は残業がなければ19時退社だ。基本的には村田の方が早いため、早い日にスーパーで買い物をしておき、レシートを取っておく。場所は勝利の家になるため、諸々を考慮して合鍵を渡すことになった。食後の洗いものに関しては基本的に勝利が行う。

「こんなところか」
「いいんじゃないですか?でも、僕も一緒に食べちゃっていいんですかね」
「でもお前、食べないで帰宅したら21時過ぎるだろ」
「ま、そうですね。僕としてもその方が楽ですし、勝利さんがいいならそれで」

本音を言えば一人での食事が味気なくて、家を出てから今まで好きじゃなかったことが大きい。職場では同僚と一緒だったり食堂に行くため気にならないが、一人で食べる夜の食事だけはテレビや動画を見ていても退屈でたまらなかったのだ。村田は少々騒がしいが、一緒に食事をする相手としては十分だ。からかってくることはあれど、踏み込んでいいラインをきちんと理解している。有利が好んで村田と付き合っていた理由も、多少は気に入らないが少し分かったような気がした。

「でもいいんですか?大事な合鍵を僕に渡しちゃって」
「微妙に語弊のある言い方をするな。それに、有利は2回来たぐらいだぞ」
「そうなんですか?もっと来いって呼びつけてそうなのに」
「呼びつけても大抵は無視されるからな。それに、あいつは勉強第一にしてもらわないと困る。俺が実家に帰ることの方が多いから、まったく会えていないというわけでもない」
「なるほど。じゃあ美子さんと僕だけが合鍵を持ってるということに…」

わざと変な言い回しをするな、と勝利は眉を顰める。勝利が皿洗いを終え、契約内容を確認して村田はちょうど帰るところだった。薄手のコートを羽織り、ショルダーバッグを肩にかけながら村田はへらりと笑う。

「えー?」
「お前、このバイトのことも合鍵のことも絶対に言うなよ」
「―――美子さんにですか?それとも渋谷に?」
「どっちもだ」

どちらに知れても勝利が笑われることは想像に難くない。癖の強い髪を指先で弄んでいる村田をじっと睨むが、効果があるのかは分からなかった。村田は大丈夫ですよーと信用できない笑みを浮かべながら靴を履き、ドアノブを捻った。秋の夜の少し冷たい風が室内に滑り込んでくる。

「じゃあまた明日。おやすみなさい」
「あぁ……おやすみ」

気をつけろよ、という言葉が喉元まで出かかったが気恥ずかしさで飲み込んでしまった。ちらりと振り返った村田が少し意外そうに目を丸くしていたせいだろう。ばたんと扉が閉まり、村田の靴音が遠ざかっていく。やがてエレベーターの稼働音と扉が開く音が聴こえ、数秒で静寂に満たされる。勝利は玄関の鍵をかけると壁に凭れ掛かって溜息を吐く。自分らしくないことをしている自覚は、往々にしてある。

「何を、しているんだろうな」

この妙な感情に名前があるのなら知りたいと思う反面、知りたくもないと思った。


continue...




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