egoistischer liebhaber



繁華街は賑わっていた。おれは頭に被ったフードをさらに深く被り直し、酔っ払いでごった返す人波を掻き分けながら石造りの道を歩く。この近辺の店には兵士が多く、おれよりも遥かに立派な筋肉を持った男ばかりだ。身長で負けていることもあり、気を抜くと押し流されてしまいそうになる。おれは歩む足に力を込めると、目的の場所を目指して歩を進めた。しばらくすると煌びやかな装飾だらけの店が減り、バーや落ち着いた雰囲気の店が増えてくる。その店の周囲に来ると人も減り、ようやく普通に歩けるようになっていた。注意深く周囲を見渡すと、目当ての店の看板が見えた。おれは小さく声を上げ、その看板へと駆け寄る。店名を確認して頭上を見上げると、その店はダークブラウンの木造りで3階建てになっていた。確か1階が店で2階と3階は宿になっていたはずだ。おれは扉に手を掛ける前にもう一度辺りを見渡し、近くに誰もいないことを確認した。ゆっくりと扉を押し開くと、一気に音の洪水が流れ込んでくる。少し肌寒い外の空気に比べ、店内はむわりとした熱気に満ちていた。客は男ばかりだが、酒を運んでいる店員はレースがふんだんにあしらわれたエプロンドレスを着用していた。スカートは短く、太ももが露わなその制服は実のセクシーだ。そのエプロンドレスを着用している店員の誰もがおれの憧れてやまない立派な筋肉を持ち、がっしりとした体型をしていなければ。同性とはいえ、目のやり場に困る扇情的な格好のおねにーさんたちを前におれは最初の一歩を踏み出せずに立ち尽くす。やはりアポなしで勝手に来たのが悪かったのだと思い直し、踵を返そうとした瞬間だった。

「……坊ちゃん?」

少し嗄れたジャジーな声が入口に近いカウンターから投げられ、おれは呼ばれ慣れた名前に顔を上げた。明るいオレンジの髪に青い瞳の見事な外野手体型をした男は、驚きに目を見開いてこちらを見ている。

「ヨザック!」
「な、なんで坊ちゃんがここに……」

知り合いの姿を見つけて安心したおれに対し、ヨザックは動揺を隠せない様子だった。慌てておれに手招きをすると、退店する酔っ払いたちに流されないよう空いたばかりのカウンター席へ座らせる。

「あー良かった。グリ江ちゃんお休みの日かと思ったよ。流石に一人じゃ無理だし帰ろうかと」
「どうしてまた急に来られたんです?それにお一人って坊ちゃん、もしかして…」

カウンターの椅子に座り、呑気に話すおれの顔を焦ったように覗き込みながら、ヨザックは声を潜めた。周囲の客に気付かれないよう、慎重に唇を開く。

「ウェラー卿にお忍びで来たんですか?」

おれは曖昧な笑みを浮かべてみたが、隠しきれないと判断してゆっくりと頷いた。非常にばつが悪い気持ちだ。

「ご明察、デス」
「なんでまた、そんなことを…」
「この店のこと、前からヨザックが言ってただろ?それで気になって、ちょっと好奇心がさ」
「……それで、ヴォルテール城を抜け出して?」

まったく悪びれた様子のないおれにがっくりと肩を落としながら、ヨザックは尋ねた。言葉の響きから責められたのかと思い、おれは顔の前で大きく手を振る。

「いや、今日言おうと思ってたんだよ!でも休憩時間にあんたを探そうと思ってたら、書類に不備があったとかでギュンターに捕まってさ。夕方に気付いたらもう居なくて」
「だからって、誰にも言わずに来るこたぁないでしょうに」
「コンラッドに言ったら絶対に駄目だって言われるしさ。明日にしようとも思ったんだけど、明日はヴォルフもこっちに来るだろ?だから…」
「なるほど。口うるさい婚約者がいると、おちおち夜遊びも出来ないですもんね」
「うわ、人聞き悪いなー。夜遊びじゃないってェ」

揶揄するお庭番の口調におれもニヤリとしながら言い返す。おれの背後でふらついていたらしい酔っ払いを鋭い声で窘めてから、ヨザックは再び声を潜める。

「でも坊ちゃん、あんまり長居されちゃ困りますよ。こんなところウェラー卿に見つかったら、オレぁ叱られるだけじゃ済まない」
「え、コンラッドもここに来るの?」
「そうですよ。なんでもうちの閣下と話があるとかで、遅れるって言ってましたけど…」

その時、入口の扉がゆっくりと押し開けられた。反射的に振り返りそうになったおれの頭をフードごと慌ててヨザックが掴む。勢いと力が強すぎたせいでおれは危うく顔面からカウンターにぶつかりそうになるが、ヨザックの焦った表情に事態を察して酔い潰れた振りをした。ヨザックの手が離れ、おれはカウンターに伏せるような体勢になる。

「ヨザ」

聞き慣れた低い声がヨザックを呼ぶ。お庭番は先ほどまでの慌てた様子を見せることなく、来客へ軽やかな返事を投げる。

「遅かったじゃないの、ウェラー卿」
「すまない。グウェンとの話が長引いてしまって」

コンラッドは店内の熱気を振り払うように首を振った、ようだった。声が揺れていたからだ。

「やーねぇ、うちの閣下とそんなに深い話をしてきたの?」
「まぁな。……しかし、何度来ても此処には慣れないな」

扇情的な姿の店員を眺めているのだろうか、珍しく彼の声に胡乱げな響きがある。

「あら、好みに合わないかしら?」
「残念ながら、俺の趣味嗜好ではないな」
「うふふ、残念。席に案内するわねェ」

両手を胸の前で合わせ、わざとらしく科を作った幼馴染にコンラッドは苦笑した。カウンターの奥から出てきたヨザックに声を掛けようとして、薄茶に銀の虹彩を散らした瞳がカウンターに伏せているおれの背中へ向けられた。背中に痛いほどの視線を感じた。彼の視線の先を追ってヨザックが助け舟を出すよりも早く、彼の腕がおれの肩へ伸びた。

「こんな場所で、何をしていらっしゃるんですか」

おれの肩を掴み、腰を屈めて低い声でコンラッドは囁く。その声におれはびくりと身体を跳ねさせ、ギギ…と軋む音が聴こえそうなほどぎこちなく振り返った。にっこりと微笑んでいるコンラッドの表情を目にした瞬間、おれは完全に硬直する。ずり落ちそうになっているおれのフードを引き上げたコンラッドは、あくまで柔和な表情を崩さない。

「コン、ラッド」

引き攣る声で彼の名前を口にする。おれの頭をフード越しに撫で、コンラッドは僅かに瞳を細めた。

「姿が見えないと思ったらこんな所まで来ているなんて思いませんでした。城は大騒ぎでしたよ」
「ご、ごめんなさい…」
「あなたがいないと気付いた瞬間に肝が冷えました。ギュンターなんか半狂乱でしたよ」
「……ごめんなさい」

すっかり委縮して項垂れるおれの姿にヨザックは天を仰ぐ。それから、厳しい瞳で主を見下ろす幼馴染の腕を掴んだ。

「そこまでにしましょうよ、ウェラー卿」
「ヨザック、お前もだ。なぜすぐに城へお連れしない?まさか、坊ちゃんがここに来られることを知っていたんじゃないだろうな?」

風向きが変わったことでヨザックは苦虫を噛み潰したような表情になるが、そこに割って入ったのはおれだった。フードを抑えたままカウンターの高い椅子から降り、俯きながら細い声を絞り出す。

「ヨザックは悪くないよ。悪いのは全部おれだ。何も言わずに勝手に来たんだ」

おれの声のトーンが明らかに落ちていることに気付き、コンラッドは嘆息を吐きつつ眉根を寄せた。

「……どうしてこんなことを。ヴォルテール領内でも王都でも夜の街は危険です。昼でも警護をつけるように言っているでしょう。何かあってからでは遅いんです」

窘めるコンラッドの声におれは唇を噛みながら頷いた。それに気付いたらしく、ヨザックがおれの手首をぐいと掴む。おれは弾かれたように顔を上げ、コンラッドはじとりと瞳を眇める。

「ヨザック、何をしている。その手を離すんだ」
「なぁウェラー卿、坊ちゃんが最近町にお出かけになられたのはいつだ?」
「急に何を―――5日前だ。製糸工場の視察で…」
「視察やご公務以外で、だ」

コンラッドの声を遮ったヨザックの言葉を聞いて、おれは僅かに肩を揺らしてしまう。それを目にしてコンラッドはきまりが悪そうに言葉を濁した。

「それは……」
「このヴォルテール領に来られたのもつい2日前だ。昨日も今日も朝から夕方までずっと部屋にお籠りになられて、書類仕事だなんだと忙しそうにされてた。息抜きのお茶や休憩時間だってあんたらがずっと傍に常駐してる。夜しか空いた時間がないってのに、ちょっと外に出たいと言うとあんたは頭ごなしに駄目だと言う。王都にいた時も、あんたの弟が坊ちゃんを連れ出そうとすると何かと理由をつけては阻止してなかったか?三男閣下のことまで子ども扱いしてなァ」

おれは大きく瞳を見開いた。ヨザックは青い瞳を獣のように眇め、コンラッドを睨みつけた。僅かに顎を上げ、上司相手に挑発するように嘲笑さえをも浮かべながら。

「過保護すぎる、って何回言えば分かるんだ?そりゃ聞き分けのよろしい坊ちゃんでも城を抜け出したくなるだろうさ」
「ヨザック、」

おれの手首を握っていたヨザックの手に力が籠る。痛いほどの力で掴まれ、おれは制止するタイミングを失ってしまった。黙り込んだままのコンラッドを睨みながら、ヨザックはなおも続ける。

「大事に大事に箱に閉じ込めてばっかりだよなぁ。今日だって、坊ちゃんは邪な好奇心だけで来たんじゃないはずだ。ここは一般市民が来るようなただの酒場とは違う。ヴォルテール軍の兵士ばかりが来る場所だ。坊ちゃんは見分を広げたいからここに来たんだ。兵士たちと直接お言葉を交わしたいと、畏れ多くもそう思われてな」
「ヨザック、いいんだ。いいんだよ。今日のおれは遊びに来ただけだから……全然、そんなんじゃ」
「坊ちゃんも、」

ヨザックの言葉に羞恥が込み上げ、おれは頬が熱くなるのを感じながら彼の言葉を遮ろうとした。しかし強い口調で呼ばれ、続く言葉をぐっと飲み込む。

「……坊ちゃんも、無理しすぎです。あなたのことだから、きっと早く良き王にならねばと頑張っていらっしゃるんでしょうが、我慢ばかりをしていては心が疲れてしまう。つらいならつらいと、きちんと声に出していいんです」
「―――ヨザ、ック…」
「この過保護なあなたの名付け親は、時々恐ろしいほどに鈍感だ。オレはそれを嫌になるほどよーく知ってますがね。だから、きちんと言葉にしなきゃ伝わらないこともあります」

コンラッドに対して詰問するような口調だったのが一転し、ヨザックは諭すようにおれへ語りかけた。それから、おれの手を離して両腕を組むと冷たい石の壁に凭れ掛かる。呆れたと言わんばかりに口角だけを器用に引き上げて、賢い獣の笑みを浮かべた。

「ま、これ以上は止めておきます。お節介なのは重々承知してますんでね。……坊ちゃん、無礼をお許しください」
「そんな、気にするなよ。逆にお礼を言いたいぐらいだ、ヨザック」
「よしてください。……あぁ、オレは仕事に戻りますよ。ウェラー卿、話はまた今度にしましょうや。急ぎの話でもないでしょう」
「―――あぁ、そうだな」

グリ江ちゃーん!と遠くから常連の客に呼ばれ、ヨザックはエプロンドレスを翻して去っていく。彼は人好きのする笑みを浮かべ、慣れた様子で注文を確認する。それをぼんやりと眺めていると、不意にコンラッドの指先がおれの手の甲に触れた。

「すみませんでした」

短く告げられた謝罪の言葉におれは目を見開く。ゆっくりと顔を上げると、コンラッドは薄茶の瞳を沈痛そうに伏せていた。彼らしくない表情におれの心臓は大きく跳ね、慌てて彼の手をぎゅっと掴む。

「コンラッド、」
「悔しいけど、あいつの言う通りだ。あなたが頑張っているのをいいことに閉じ込めたりして……あなたの気持ちを考えていなかった」

コンラッドの大きな手がおれの手を握り返す。項垂れるような様子に落ち着かなくなって、おれは彼の手を強く引っぱった。

「もういいよ、大丈夫。おれも勝手なことして心配かけて、悪かったし……だからさ、あんたもそんな顔しないでくれよ」

虚を突かれたように目を瞠るコンラッドに微笑みかけ、おれはカウンターの椅子に座る。隣の席に座るようにコンラッドを促しながら、カウンターの向こうにいる顔見知りの店員へ声を掛けた。眞魔国の法律上では成人しているが、日本の法律では未成年なおれは相変わらず律義に禁酒を守っている。ノンアルコールのジュースを注文すると、コンラッドに注文を尋ねる。椅子に腰かけたコンラッドが酒を注文しようとした時だった。

「ウェラー卿…?」

掠れかかった弱々しい声に呼ばれ、コンラッドは店の奥を振り返る。地味な顔をした中背中肉の男が、店員のおねにーさんに腕を絡められたままこちらを見つめていた。呆然とした表情は、コンラッドの姿に動揺しているようだった。誰?とおれが首を傾げている間に男はこちらへ縋るように駆け寄ってくる。コンラッドは黙って彼を見つめていたが、男が手を伸ばしてきたのを見てはっとしたように椅子から降りた。男の太い手が無遠慮に肩に触れても構うことなく、コンラッドは穏やかな笑みを浮かべる。

「お前―――エッボか?」
「あぁ、やっぱり閣下……コンラート閣下だ…!お元気そうで何よりです」
「お前もだよ。俺が除隊した後にお前も離れたと聞いていたが、戻ってきていたのか?」
「えぇ!戦争が終わって実家の店を手伝ったり商船に乗ったりしていたんですが、やっぱりこの国が恋しくなって」
「そうか」

興奮気味にコンラッドに語りかける男の目は輝いていた。コンラッドの肩から手を離し、エッボは片手に持っていた大きなジョッキを揺らす。

「またみんなと酒を酌み交わせる日が来るなんて思いませんでした。閣下も、良かったら奥で呑みましょうや」
「いや、俺は……」
「そういや、そちらの方は誰です?」

コンラッドの隣にいるおれにやっと気付いたらしく、エッボはこちらに視線を映す。高い椅子に座っているせいでエッボがおれの顔を下から見上げる形になった。フードはしっかりと被っていたが、その髪と瞳の色に気付いたらしいエッボは言葉を失う。おれは曖昧な笑みを浮かべながら唇に人差し指を押し当てた。幸いエッボは叫んだりすることはなかったが、すっかり恐縮して小さくなってしまった。手にしたジョッキが大きく震えて、中の貴重なビールがびちゃびちゃと零れまくっている。

「えーと、エッボ?そんなに緊張しないで大丈夫だから……あ、あ、ビールが流れていく」
「し、ししししかしッ!」

エッボは緊張のあまり赤くなったり青くなったりと忙しい。おれは苦笑しながらコンラッドの背を叩いた。

「エッボはコンラッドの元部下なんだよな?ほら、あんたもたまにはおれ以外との親交を深めてきなってば」
「しかし陛―――坊ちゃん、」
「おれはちゃんとここにいるからさ。大丈夫だって」

もう勝手にどっか行ったりしないよ。おれは笑ってコンラッドの背中を押した。カウンターの奥にいる店員はコンラッドも顔見知りのヴォルテール軍籍の男だ。信頼できる相手だと判断し、コンラッドは店員に目配せをするとエッボに連れられて奥のテーブルへと向かっていく。それを見送ったおれがジュースを飲んでいると、ヨザックが給仕から戻ってきた。エッボに絡まれているコンラッドを眺めながら苦笑している。

「隊長、すっかり捕まってますねぇ」
「おれが言ったんだよ。たまにはおれ以外とも親交を深めてこいって」

そりゃ傑作だと言いながらヨザックはカウンターの中にいた店員に声をかける。どうやら顔見知りの彼は定時らしかった。頭を下げながら消えていく彼を見送り、ユーリは手を振る。愛想のいいおれにヨザックは苦笑した。

「相変わらず坊ちゃんは愛嬌がおありになる。ウェラー卿は確かに過保護ですが、心配するのも無理ないですね」
「でも愛嬌はあったほうがいいだろ?むすっとして偉そうな王様なんておれ嫌だもん」
「そりゃそうですがねェ」

ヨザックは戸棚から豆を取り出して小皿に盛る。おれが手持ち無沙汰なのを見かねてのサービスだろう。

「他のお客には内緒よ?」

ばちんとウインクを決めるヨザックにおれはありがとうと笑う。塩気のきいた乾燥豆は酒によく合いそうだった。未成年なことを少々恨めしく思いながら、おれは豆を摘む。会話の間にこちらに視線を投げたコンラッドはヨザックの姿を見て安堵した様子だった。こっちのことは気にすんなよ、とヨザックはジェスチャーを送る。その時、おれの2つ隣の席に座っていた新人兵士ががたんとカウンターに伏せた。倒れたという表現の方が正しいかもしれない。そういえば、少し前からメトロノームのように頭を揺らしていた気がする。心配になったおれが思わず手を伸ばすと、ヨザックが素早くそれを遮った。

「坊ちゃんはじっとしていてください。介抱もオレの仕事なんで」

柔らかい口調で、しかし有無を言わせない響きでそう言われては引き下がるほかなかった。おれは大人しく手を引っ込め、豆の塩分で渇いた喉をジュースで潤す。ヨザックはカウンターに伏せた新人兵士の肩を何度か叩き、大丈夫かと声をかける。彼はしばらくあぁとかうぅとか呻いていたが、ヨザックが水を差し出すと起き上がって少しだけ口に含んだ。背中を何度も擦ってやりながら、ヨザックは呆れた顔をしている。おそらく酒に弱い新人には慣れっこなのだろう。

「その人、大丈夫そう?」
「んー、まぁ吐いたりしそうにはないので大丈夫ですかね」
「薬とか無いの?」
「あるっちゃあるんですが……」
「どこ?おれ取ってくるよ」

介抱は駄目だと言われたが、薬を取ってくるぐらいなら構わないだろう。おれが椅子から飛び降りると、ヨザックは逡巡したのちにカウンターの奥を指差した。

「カウンターの中に扉があるんですが、そこが調理場になってます。右手に従業員用の個室があるんですが、左奥の棚に小瓶があります。白い錠剤が入っていて、痛み止めって書いてあるんですが酔いにも効くので」
「りょーかい!痛み止めぐらいならおれでも読めると思うし」

おれはカウンターの中に入ると、揺れるカウンタードアを押して調理場へ入る。入れ替わりの時間だからか、従業員用の個室にも誰もいなかった。おれは個室に入ると、左奥にある棚から小瓶を探す。扉を3箇所ぐらい開けたが見つからず、首を傾げながら上を見上げた。ギリギリ手が届く位置に小瓶を見つけて、思わずあっと声を上げる。

「うーん、なんとか届くかな…」

爪先にぐっと力を込めて背伸びをする。伸ばした指先が無事に小瓶を掴み、ほっと息を吐いた。小瓶に貼られたラベルには確かに痛み止めの文字。まだまだ発展途上の識字率だが、読めたことに安心する。

「取ってきたよ」
「あぁ坊ちゃん、ありがとうございます」

カウンターに戻ると、ヨザックは水の入ったコップと小瓶から取り出した一粒の錠剤を新人兵士に差し出す。彼は力のない手で錠剤を受け取ると、水を口の端から零しながらもなんとか嚥下したようだった。再びカウンターに伏せてしまったが、先ほどよりは楽になったように見える。

「ヨザックが背中を擦ってあげてたからじゃないかな」
「あら、グリ江の手にも隠された癒しの力があったのかしらん」

ふざけるヨザックに同調しながらおれは笑う。ヨザックはカウンターに戻り、他の店員から告げられた注文の料理を作るために厨房へと消えていった。交代の店員はまだ来ないのだろうか。忙しそうなヨザックを手伝いたいのは山々だが、きっと断られるのが関の山だろう。おれは残り少ないジュースをちびちびと飲みながら、椅子に座って足をぶらぶらと揺らした。

「……あの、ユーリ陛下…?」

酒場の喧騒に紛れて消え入りそうな声が届いた。おれは反射的に声のした方に視線を移動し、その相手を確認して目を見開いた。先ほどまで酔い潰れていた新人兵士だった。2つ隣の席なこともあり小さな声は聴こえにくいが、彼がおれに向かって話しかけているのは明白だった。フードもしっかり被っているし距離もあるのに何故、とおれは思わず身構えてしまう。

「す、すすすみません陛下、お忍び中…なんですよね」
「え?あーまぁ、そうなんだけど」
「オレ、少し前に王城へ行くことがあって、その時に陛下とすれ違ってるんです。その時は声しか聞こえなかったんですが、コンラート閣下やギュンター閣下とお話になってるのが聴こえて…」
「あぁ、それでおれの声を覚えてたってことか。なーんだ」
「あ、あの、こんな情けないお姿を……申し訳ございませんッ!!」

新人兵士はぴしりと姿勢を正し、おれの方が恐縮してしまうほど硬くなっていた。思わず苦笑して、おれは顔の前で手を振る。

「別にいいって。おれが勝手に来ちゃっただけだしさ」
「し、しかし」
「ほんと気にしないでよ。まだ体調良くないんだろ?楽にしていいからさ」
「……陛下は本当にお優しいのですね……」

心なしか新人兵士の瞳はうっとりと潤んでいる。彼の瞳からギュンターを思い出す恍惚の色を感じて、おれは思わず引き攣った表情になる。

「そ、そんなことないってェ」
「あの、陛下、もしよろしければなんですが」
「え?なに?」
「お手を……」

新人兵士がまだ震える手をおれに向かって差し出す。腕相撲、にしては手の差し出し方が恭しい。感動と尊敬に打ち震える表情を見る限り、おそらく握手をしてほしいということなのだろう。先ほどヨザックに介抱することさえも禁じられたこともあり、おれもどうしたものかと迷った。しかし新米魔王の支持率を上げる方が重要だと判断し、おれは笑って頷く。握手だけなら咎められることもないだろう。

「いいよ」
「ほ、本当ですかッ!?」
「うん。あ、座ったままだとちょっと遠いか」
「あ、どうかそのまま……オレがそちらに行きますんでッ!」

おれが椅子から降りようとしたのを勢いよく遮り、新人兵士は椅子から降りた。足元がふらつき、身体がぐらりと揺れたことにおれは焦って声を上げる。

「ちょっと大丈夫?まだじっとしておいた方が…」
「あ、有り難きお言葉ッ!でも自分、平気ですんで!」

新人兵士は興奮で頬を染めたまま、ふらふらと覚束ない足取りでおれの傍へ歩み寄る。差し出された手は日に焼けていて、剣だこだらけだった。

「座ったままでごめんな」

この程度なら大丈夫だろうと彼の手をぎゅっと握り返す。おれに手を握られ、新人兵士の脈拍は急激に上昇してしまったらしい。顔も手も真っ赤に染まり、不明瞭な言葉を何度も呟き始めた。流石にやばいと感じたおれはやんわりと手を離すが、強い力でがっちりと握られていて抜けない。

「あの、離してもらえるかな…」
「は、ははははいッ!それはもう今すぐにッ!!」

返事に対して新人兵士の力は緩まない。それどころか握った手をぶんぶんと振り回しはじめた。強い力に引っ張られ、椅子に座ったままのおれの腕が大きく揺れる。酔っ払いの力は火事場の馬鹿力に似ていて、加減できないようだった。制止する声も虚しく、彼は今までよりも強い力でおれを引っ張った。ぐらりと身体が揺れ、バランスが崩れる。

「あ、っ……」

やばい、と直感した時には身体が斜めに傾いていた。反射的に痛みに身構えておれはぎゅっと目を閉じる。この椅子、結構高さあるから相当痛いかもしれない。スローモーションになる感覚の中、他人事のようにそう思う。しかし衝撃は訪れず、代わりに強い力で抱き締められるような感触を感じた。おれはゆっくりと瞳を開ける。最初に目に入ってきたのは、見慣れたカーキ色の生地だった。それから、視界の端で揺れるダークブラウンの短い髪。

「―――ユーリ、」

耳元で囁く低い声は、コンラッドのものだった。呆然としたまま顔を上げると、険しい表情を浮かべたコンラッドが至近距離でおれを見つめている。首を捻って彼の肩越しに奥を確認すると、新人兵士は床にへたりと倒れ込んでいた。意識ははっきりとあるようだったが、赤かった顔は今や蒼白だ。すっかり血の気が引いた表情で、彼はコンラッドの背中を見上げている。

「ありゃ、何かあったんですかい?」

カウンターの奥から素っ頓狂な声が響き、おれはコンラッドに抱き締められた体制のままそちらに視線を投げた。両手に美味しそうな多国籍風料理を持ったヨザックが、青い瞳を大きく見開いている。

「ヨザック、この兵士を帰らせてくれ」

コンラッドの声は硬く、冷たい色を孕んでいた。その声色で事情を察したのだろう、ヨザックは他の店員を呼びつけると新人兵士を店の外へ連れ出させた。彼は泣きそうになりながら何度も繰り返し頭を下げ続けていたが、コンラッドの腕の力が緩むことなくおれは返事の一つも返すことはできなかった。新人兵士が外へ連れ出され、騒ぎに気付いた数人の客がこちらを見ている。コンラッドはおれを椅子から降ろすと、カウンターの奥へ行くように背中を押した。ヨザックに腕を引かれ、おれは厨房と従業員用の個室を通って裏口から外へ出る。周囲には誰の姿もなく、先ほどまでの喧騒が嘘みたいだった。厩へ向かったヨザックの背中を見送り、おれは一人で冷たい外壁に凭れ掛かった。あれほど言われていたのに気を緩めすぎた。コンラッドの冷たい声色が蘇り、申し訳なさで胸がずきりと痛む。

「……やはり目を離すべきじゃなかった」

低い声に振り返ると、コンラッドが裏口の扉をそっと閉めたところだった。険しい表情は緩みそうになく、おれを見る視線にも柔らかさはなかった。おれは謝ろうと口を開きかけるが、コンラッドがこめかみを抑えて俯いたのでタイミングを失ってしまった。コンラッドの口からは重い溜息が漏れる。長い沈黙が訪れ、居心地の悪さに足元の砂利を蹴った。

「ウェラー卿、ノーカンティーちゃんを連れてきたわよん」
「あぁ、ありがとう」

榛色をした彼女はヨザックに連れられてひひんと鳴く。主人であるコンラッドの肩に甘えるように擦り寄り、それからおれに気付いて顔を寄せてきた。俯いてたおれは驚いて声を上げるが、ノーカンティーの柔らかな鬣を撫でると自然に笑みが零れる。

「なんだよ、おれに触らせてくれるなんて珍しいじゃん」
「陛下が落ち込んでいらっしゃるからでしょう」
「え?」

ヨザックの声におれが顔を上げると、彼女は賢いですからねぇと笑った。それからコンラッドの背中を乱暴すぎるぐらいの力で叩くと、何事かを耳打ちして裏口の扉を開く。

「あ、ヨザックもう戻っちゃうの」
「えぇ。陛下は来週には王都へお戻りになるんでしたよね。暫く会えそうにありませんし、残念ですが。まだ手伝いもあるので」
「そっか……元気でな」
「陛下も、どうかお元気で」

ヨザックは恭しく頭を下げると、静かに扉を閉めて去っていった。彼の靴音が遠ざかり、おれはノーカンティーを撫でる手を止めて俯く。やはり謝るべきだと拳を握り、意を決して顔を上げた。その瞬間、コンラッドの薄茶の瞳と視線がばちりと合う。

「ユーリ」

おれが口を開くよりも早く、コンラッドが名を呼んだ。開きかけた口を閉じ、おれは軽く唇を噛む。何度も言葉を選び損ねて、おれはようやく声を絞り出した。情けなく震えているのが自分でもよく分かる。

「……コンラッド、ごめん」

すっかり項垂れているおれにコンラッドは静かに歩み寄ってくる。伸ばされた手がおれの肩にそっと置かれた。

「そんなに落ち込まれちゃ、怒るに怒れませんよ」

視線を上げると、コンラッドは困ったような微笑みを浮かべている。おれが俯きそうになると、彼の指先がおれの顎を掬い取った。薄茶に銀を散らした虹彩がおれの顔をじっと覗き込む。

「心配しました、とても」
「コンラッド…」
「あなたの寛大なお心には感銘を受けています。いつでもね。でも、自らを省みないところは直してほしいかな」

柔らかな言い回しだったが、そこに込められた懇願に似た響きを感じておれはゆっくりと頷いた。おれが理解したことに安堵したのか、彼はおれの顎から手を離して笑みを浮かべた。ノーカンティーの鬣を何度か撫でてやりながら、彼は口を開く。

「本当は殴ってやろうと思ったんですよ」

唐突な暴力宣言におれは目を見開いた。何を言い出すのコンラッドさんと慌てると、彼はにっこりとした笑みを崩さないままおれを見た。目の奥が笑っていない、ような気がした。おれの背中を冷たい汗が伝っていく。

「お、おれを、デスか」
「とんでもない!俺があなたを殴れるわけないでしょう」
「じゃあ、誰を……」
「あの新人兵士です。時代が違えば不敬罪で処刑ものでしたよ」

表情を変えることなくコンラッドはさらりと告げた。おれは聞き慣れない恐ろしい単語に思わず声を上げる。

「あれだけで!?」
「俺が間に入ったから良かったけれど、頭から倒れていた可能性があったんです。処罰は免れなかったと思いますよ」
「で、でもそれは昔の話だろっ」
「……そうですが」

言いにくそうに口籠ったコンラッドの瞳が僅かに翳る。不穏な色を察知して、おれはノーカンティーの鬣を撫でている彼の手を包み込むように触れる。

「あんたが個人的に殴りたかったって、そういうこと?」
「まぁ、有り体に言えば」

ぎこちない口調と少し気まずそうな表情が印象的だった。そんな顔をするなら言わなきゃいいのに、と思ったが抑えきれなかったのだろう。おれは大きく息を吐くと、彼の腕を引っ張った。屈み込むような姿勢になった彼の首に手を伸ばし、宥めるようにダークブラウンの髪を撫でた。

「おれは暴力反対だって言ってるだろ」
「えぇ、分かってます」
「そりゃコンラッドはおれの護衛なんだから、守るのは当たり前なのかもしれないけどさ。でも、あの新人くんは敵じゃないんだぜ。慣れない酒に酔っちゃって失敗しちゃったんだよ。ちょっとだけ話したけど、真面目そうないい奴だった」
「えぇ」
「確かにおれは怪我しそうになったかもしれないけど、おれがいいって言ってる以上はいいんだよ。あんたが怒る必要は」
「でも、ユーリ」

コンラッドが立ち上がったせいでおれは彼の首から手を離すことになる。行き場を失った手は不意に彼の手に捕えられた。熱い体温が伝わってきて、自然と鼓動が早まっていく。

「……なに」

平静を装ったつもりの声が微かに震えた。コンラッドはふっと吐息だけで微笑み、軽く首を傾げておれを見つめた。

「俺のあなたの護衛でもあるけれど、恋人でもあるんですよ」

大仰なほど丁寧な動作でコンラッドは屈み込んでおれの手を取る。言葉を失うおれに構うことなく、手の甲に柔らかな感触が触れた。薄い唇がそっと離れていき、おれは熱くなった頬の感覚だけを感じていた。

「―――あんたさぁ…」
「呆れました?」
「いや、そうじゃない。違うけどさ、ほんとコンラッドって」
「……なに?」
「すげーわがままだよな、実は」

おれの言葉に呆気に取られたようにコンラッドは瞠目する。それから弾かれたように笑いだし、目尻に浮かんだ涙を指先で拭った。

「そんなに笑うこと?」
「いえ、あなたに言われると思わなかったので」
「ヨザックには言われてるんだろ」
「えぇ。強情だの頭が固いだの、好き放題言われます」
「おれもそんなとこないだろって思ってたけどさ、実はあんたってすげーわがまま。ヨザックの気持ちがちょっと分かってきたよ」

同情するとばかりに苦笑すると、コンラッドはわざとらしく肩を竦めた。そんな風に今更とぼけたって無駄だ。

「あの新人くんを左遷させようなんて考えてないよな」
「まさか。俺にそんな権限はありませんよ」
「……ならいーけどさ」

まだ目が笑ってないよ、あんた。これ以上掘り返すと、本当にあの新人兵士がおれの知らない間に消えかねない。ノーカンティーに跨ったコンラッドに手を引かれ、おれも彼女の背中に跨った。しっかり掴まってください、と言われるよりも早く彼の腰に手を回す。広い背中に頬を押し付けると、粗い布の感触と彼の体温が伝わってきた。


おれが零した熱い吐息は夜の静謐な空気へ、あっという間に溶け消えた。


end.




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