You are the one who pressed my switch.



「いざやぁああああああ!!!!」

渾身の力を込めてフルスイングされた自動販売機が凄まじい轟音を立てて落下する。衝撃に耐えきれず、自動販売機は見るも無惨に破壊され、周囲にはガラス片や金属片が散らばった。落下地点のアスファルトには深い穴が開き、まるで陥没したかのようだ。平和島静雄は怒りに震える指先でサングラスを取ると、バーテン服の胸ポケットに突っ込む。鳶色の瞳がぎらりと光り、数メートル先のビルの間を飛び回る痩身の男を捉えた。全身を黒い服で纏め上げたその男は、静雄の射殺すような視線に気付くとにっこりと目を細めた。そして形の良い唇が小さく開く。この距離で小さな声が届くわけがない。静雄が怒りを押し殺しながら目を凝らすと、再度彼の唇が先ほどと同じ動きを繰り返した。

『ば・か・の・ひ・と・つ・お・ぼ・え』

その言葉の意味を認識した瞬間、比喩ではなく静雄の全身の血液が沸騰した。体温が急激に上昇し、比較的白かった肌が真っ赤に染まる。それを引き起こした感情は間違いなく憤怒だった。手近にあったガードレールを引き千切ると鋭利な先端を敵に向けたまま突っ込んでいく。ブルドーザーも裸足で逃げ出すほどの勢いにさえ、男―――折原臨也は動揺した様子を見せなかった。静雄はあっという間に距離を詰めたが、男はその動きを読んでいたかのようにビルの窓から窓へ飛び移る。止まり切れるはずもなかった静雄が轟音とともに廃ビルに突っ込むが、臨也は既に二つ隣のビル窓に腰掛けていた。ダイナマイト爆発並みの破壊音が響き渡り、廃ビルの1階ラウンジ部分が破壊される。衝撃で地震と見紛う震動が起き、臨也の座る窓枠部分も大きく揺れた。臨也がもくもくと立ち上がる硝煙に似た砂埃から逃れようと腰を浮かせた瞬間、10センチ程度の距離を鉄パイプが飛んでいった。ドゴッという音に続き、ぱらぱらと音を立てて破片が崩れ落ちるビルの壁面に臨也は視線を移す。間違いなく、鉄パイプが深々と突き刺さっていた。

「……あれ?シズちゃん、コントロール良くなった?」

臨也はそれまで浮かべていた余裕のある表情を崩し、頬を引き攣らせる。煙の中からゆっくりと立ち上がる静雄から視線を逸らさないまま立ち上がった。不安定な窓枠の上、バランスを崩せば下方に立つ静雄に一瞬で仕留められるだろう。ビル風に煙が浚われ、ようやくその姿を現した静雄は肉食獣のような形相で臨也を睨め上げた。

「ちょこまか逃げ回る手前を追いかけてりゃ良くなるだろうよ」
「へーっ意外!化物のシズちゃんでも人間並みに成長なんてできるんだ!」
「殺すぞ」
「……化物が人間みたいな真似をするなんて、ますます気に食わないなぁ」

繰り返される"化物"という地雷ワードに我慢の限界を迎え、静雄はビルの壁を掴むとよじ登り始めた。その動きを察知していた臨也は身を翻す。向かいのアパートのベランダに飛び移って走り抜け、非常階段から屋上へと移動した。静雄が屋上に到達する瞬間を見計らい、隣の廃工場へ窓から滑り込む。獲物を見失って立ち往生する静雄の姿を確認すると、臨也はうっそりと笑みを浮かべる。音を立てないように埃臭い廃工場の中を移動していると、轟音とともに数秒先までいた場所の天井が崩落した。嘘だろと咄嗟に振り返ってしまった、その一瞬が命取りだった。

「見つけたぞ、臨也」

地を這うような低い声が廃工場の中に反響し、臨也はびしりと硬直する。薄暗い廃工場の奥から闊歩してくる静雄からは、真っ白な蒸気が立ち上っていた。怒りからくる熱、それに伴う発汗に起因するものだろう。到底人間にはあり得ない現象を目にし、臨也は苦々しく息を吐いた。

「マジありえない」
「何処まで逃げたってなぁ、俺には手前の匂いで分かるんだよ」
「だからその匂いってホント何なの。なんか変態っぽくて気持ち悪いんだけど」
「知るかよ!!手前がノミ蟲臭ェのが悪いんだろうが!!」

そのノミ蟲って呼称もかなり意味不明なんだけど。臨也は大仰に肩を竦め、胸元から取り出したバタフライナイフを手中で弄ぶ。ここまで距離を詰められれば背を向けて逃げることは困難だと分かり切っていた。こうなれば近接戦に持ち込むほかない。静雄は歩きながら放置されていた得体の知れない機械を掴むと、捻って捩じ切った。ここも昔は何かの精密機器の工場だったのだろう。錆と埃に塗れた機械が無造作に放置されていた。臨也は静雄に相対したまま予備のナイフの存在を確認すると、僅かに後退る。あと数歩、静雄が近くなればこちらも動かないとまずい。視線を逸らさずに空気を張り詰めさせた。しかし、静雄はその数歩を詰めることなく立ち止まった。予想に反した動きに臨也が目を瞠ると、静雄は手にしていた謎の機械をぶん投げた。この距離で投擲されると思っていなかった臨也は一瞬動揺した後、危なげなくそれを回避した。チッと舌打ちが聞こえたような気がしたが敢えて無視する。静雄には近接戦に持ち込まれると不利だという自覚があったのだろう。大振りな動きばかりを繰り返していれば自然と隙が生まれ、身軽な臨也はその懐に潜り込んでやりたい放題になる。もちろん一瞬でも臨也が避け損なえば一巻の終わりだが、幸いなことに回避し損じたことはない。

「めんどくさ……」

臨也は低い声でそう漏らすとベルトに手を這わし、取り付けていたスタングレネードを放り投げた。手に収まるほどの小さなサイズだが、その閃光は十分すぎるものだった。薄暗かった廃工場が一気に眩い光に照らし出され、流石の静雄も虚を突かれてぐらりと身体を大きく揺らす。臨也は素早く踵を返すと、近場の窓を突き破って廃工場を飛び出した。これで少なく見積もっても数十秒は時間を稼げるだろう。静雄は人並外れた能力を持っているが、破壊と再生を繰り返すことで異常な発達を遂げた。よって、鍛えられなかった部位に関してはおそらく通常の人間と変わらない。髪や眼球などはその最たる例だ。

「流石に、これが効かないとやばいけど」

忌々しく呟きながら走るが、十秒経っても廃工場からは何の音も聞こえてこない。きちんと効果がきちんとあったことに内心胸を撫で下ろし、臨也は路地裏へと入り込んだ。狭く汚れた路地裏に転がるドラム缶や障害物を軽々と飛び越え、更に奥へと突き進む。そして次の角を左に曲がろうとした時だった。遠く、後方から大きな破裂音が聞こえた。何かを無理矢理ぶち抜いたようなその音は、確かに廃工場の方からだった。コートのポケットから携帯端末を取り出して画面を見るが、臨也があの場所を出てから僅か二十秒弱しか経過していなかった。…おいおい、冗談だろ。臨也の背筋を冷たい汗が伝う。あの威力でさえこの程度の時間稼ぎが限界だなんて聞いていない。特注開発された新商品を横流ししてもらったというのに、あの怪物にとって有効な手立てだと言い切れないなんて。走っていたスピードを上げ、臨也は雑居ビルの壁面を駆け上がった。凹凸を利用しながら屋上に到達すると、大きな貯水槽の陰に身を潜める。廃工場の方角から砂煙がこちらに向かっているのを見るに、やはり静雄は地上を走って向かってきているようだった。もう少し時間が稼げていれば逃げ遂せるつもりだったが、仕方がない。バタフライナイフの柄を握り締め、臨也は近づいてくる地響きに耳を澄ませた。

「いーざーやーくーん……」

地上の方から豪鬼のような低い声が聞こえる。どうやらビル風が強いせいで上にいる臨也の匂いまでは感知できていないようだった。音を立てないように移動し、そっと下の様子を伺う。路地裏にいてもよく目立つ金の髪にバーテン服。厳重に周囲を警戒する静雄の手には、どこから引き千切ってきたのか道路標識があった。今日だけで何件の器物損壊をすれば気が済むのだろうか。静雄は何度も執拗にドラム缶を持ち上げたり蹴ったりを繰り返しており、臨也の姿を見つけきれずに苛立っているようだ。やがて逃げられたと判断したのか、静雄は手に構えていた道路標識を静かに下ろそうとした。その時だ。

「―――どこ行くの?」

屋上から少しずつ階下へ移動していた臨也が、ビルの3階から飛び降りた。ちょうど地面に対して水平の角度になっていた道路標識の上にふわりと着地し、呆気にとられたように瞠目する静雄へ柔和に微笑む。静雄にとっては一瞬の出来事で、突然目の前に臨也が現れたように感じられたのだろう。呆然としたまま、目の前の男を認識できないようで硬直していた。臨也にはそれが面白くない反応だったようで、三秒間きっかり固まっていた静雄を鋭い声で呼んだ。忌々しいあだ名で呼ぶ声でようやく脳が動いたのか、静雄の表情が徐々に険しくなっていく。

「手前……どっから……」
「キミの頭上だよ。どうやら索敵能力の精度は低いみたいだねぇ」
「お前は猫か!」
「それって誉め言葉?猫みたいにかわいいっていう」

ンなワケねーだろ!と叫んだ静雄は臨也を振り払おうと片手を伸ばすが、軽くひらりと躱されてしまい道路標識ごと壁に叩き付けようとしたが、路地裏が狭すぎて生憎それは叶わなかった。どうするべきか静雄が逡巡していた、その隙を突いて臨也が両手を伸ばす。右手に持つ何かが僅かに差し込む太陽光にキラリと反射して光った。見覚えのありすぎるその煌めきは、間違いなく臨也愛用のバタフライナイフだった。

「ッ、てめ……!」

今まで乗っていた臨也の体重が消え、僅かに軽くなった道路標識から静雄の手が離れる。道路標識がコンクリートに落下する重い音が響き渡り、静雄は飛びかかってきた臨也の身体をそのまま受け止めるしかなかった。臨也の左腕は静雄の首にしっかりと絡みつき、右腕はナイフを持ったまま静雄の背中に回される。鋭い痛みが背中に走るが、深く刺さることのなかったナイフは僅かに静雄の皮膚を傷つけただけで終わった。臨也は深く刺してやろうと粘ったようだが、無理な体勢のせいもあって力を込められなかったようだ。しかし静雄は不意を突かれた衝撃と微かな痛みでバランスを崩し、背後の壁に背中をぶつけた。ナイフが刺さり切らずに落ちていたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。痛みはないが、臨也の体重を受け止めたままだったので一瞬だけ息が詰まった。

「っ、う」

深く息を吐き出すと、首に絡みついて力が増した。首を絞め落とそうとしているのか、と静雄は慌てて臨也のフードを掴んで持ち上げた。されるがまま、だらりとぶら下げられた臨也は悪びれた様子など少しもない。

「おい臨也!手前なにやってんだよ!」
「なにが?」
「質問に質問で返すな!!急に飛びかかってくるんじゃねえよ!」
「急じゃなかったらいいわけ?」

ああ言えばこう言う。臨也の減らず口に静雄の手がわなわなと震え始める。このままだと臨也のフード部分が無惨に破れてしまうだろう。それを察知したのか、臨也は軽く息を吐いて足を揺らし始めた。下ろせと言いたいのだろうが、素直に臨也の意思に従うのは腹が立った。そのままぶら下げたままにしていると、首が締まってきたのか臨也は苦しそうに首元に手を這わせた。細い鎖骨が開きすぎた胸元から見えていることに気付き、静雄をなんとなく視線を逸らす。静雄が下ろしてくれそうにないと判断したのか、臨也は再び静雄の方に両手を伸ばしてきた。なんでそうなる…と呆れるが、先ほどまでの追いかけっこで疲弊していたのは静雄も同じだ。空いた手で臨也のジャケットをまさぐり、予備のナイフを地面に捨て落として臨也を持ち上げていた腕を曲げる。距離が近づいたことで臨也の両手が静雄の首に触れた。

「……首、締めるんじゃねえぞ」

警告だけを残し、静雄はそのまま臨也を受け入れた。静雄の警告に従い、臨也は不要な力を込めることはなかった。安堵からなのか、臨也は深く息を吐き出す。その温かい吐息が首筋にかかり、静雄は落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせた。しかしそのまま数秒、数十秒が経過しても臨也は離れる気配がない。静雄は嘆息して軽く臨也のフードを引っ張る。離れろ、という意味だったが伝わらなかったようで臨也は微動だにしない。

「おい、臨也」
「なぁに」
「離れろ。もういいだろ」
「やだ」

駄々っ子のような物言いに呆れて力が抜ける。今までの攻撃性は鳴りを潜め、急に借りてきた猫のような態度になられると調子が狂う。静雄はガリガリと頭を掻くと、首に回されている臨也の手に触れた。そっと掴んで離すように促すと、臨也はそのまま顔を上げる。至近距離で見つめ合う形になり、静雄は思わず仰け反って声を上げた。

「うおっ」
「なにその声」
「う、うるせぇ!手前が急にこっち向くからだろ!」
「シズちゃんが呼ぶから顔上げただけじゃん」

呼ぶというよりも、離れろという意味で触れた静雄は答えに窮した。臨也の真っ赤な瞳が静雄をじっと見つめてくる。紅玉に似た、燃えるような瞳は何かを見透かしているようだ。静雄は何か返答を口にしようとした瞬間、臨也の細い指先が静雄の首筋を撫でた。冷たい指の感触に思わず身体を震わせると、臨也は愉快そうにケラケラと笑う。ふざけているのかと静雄は再度フードを掴もうとするが、臨也は間一髪の距離でひらりと避けて危なげなく地面に着地した。臨也はにっこりと笑みを浮かべて静雄を見上げる。

「あはは、シズちゃん顔真っ赤だよ?どうしたの?」
「手前が妙な手つきで触るからだろ!」
「妙な手つきって何?俺は普通に触っただけだよ。?シズちゃんだってさっき俺に触ったじゃないか」
「触っ……あれは手前が離れなかったから離れろって意味で…!」
「へー、そうなんだ?」

静雄の言葉を聞いているのかいないのか、臨也はその場をくるくると歩き回る。静雄が暴れまわった際に半壊した木箱に飛び乗ると、視線を静雄と同じ高さにした。やけにニコニコと上機嫌なのが不気味で、静雄は木箱に乗ったままの臨也に詰め寄った。ちょうど向かい側の壁近くに木箱があったため、静雄は臨也を壁に追い込む形になる。

「これって壁ドン?」
「ちげぇよ!いつにも増してうるせぇな」

目の前の頭をがしりと掴むが、臨也は逃げようともせずに笑っている。イライラが増してきた静雄がその手に力を込めようとした瞬間、臨也がぐいと距離を詰めてきた。突然のことに静雄が対応できずにいるうちに、やわらかい感触が唇に触れた。静雄が呆然と目を見開いていると、手の力が緩んだのをいいことに臨也が肩に手を置いてくる。そのまま身を乗り出し、今度は感触を確かめるように何度も触れてきた。臨也が口づけるたび、その首元から香水のような甘い香りが漂う。

「間抜け面」

嘲りを含んだ声に静雄がはっと意識を取り戻すと、臨也が愉快そうに微笑んでいる。どこか色濃く見える緋色の瞳はゆったりと細められていた。静雄が何か口にする前に臨也は首に手を回し、今度は目を瞑って口づけを落としてきた。静雄のかさついた唇は次第に臨也の吐息で湿り、静雄は熱に浮かされそうになる。無意識の内に静雄は身体を前へ傾け、臨也を腕の中に囲い込む。いつの間にか、主導権は静雄へと移っていた。

「っ、はぁ……」

呼吸さえも奪い取ろうとする静雄のキスで臨也の呼吸が上がってくる。苦しそうな表情とともに眉間に皺が寄っていたが、静雄は気付かない振りをして臨也の唇に舌を這わせた。抉じ開けるように舌先を侵入させると、臨也はびくりと肩を大きく震わせる。その反応に気を良くした静雄は、薄く唇が開いたのを見計らって臨也の細い腰を抱き寄せた。舌の表面がざらりと触れ合う感触に肌が粟立つ。やがて飲み込みきれない唾液が臨也の口の端から流れていくが、静雄は構うことなく口腔内を蹂躙する。ようやく静雄が臨也を解放した時には、2人の間に細い銀の糸が伝っていた。酸欠でくらくらするのか、臨也は頭を揺らしながら静雄を睨めつける。

「シ、ズちゃ……加減ってものを、知らないの……?」
「あ?手前がからかうからじゃねーか」
「やられたからやりかえすって、ガキかよ…!」
「仕掛けてきたのはそっちだろ」

そう言い返すと臨也は黙り込んだ。不服そうなその表情さえもどこか可愛らしく映って、静雄はこめかみを押さえる。煽られて煽り返してこんなに熱くなるなんてどうかしている。犬猿の仲のはずが、今までにもこんなことを幾度と繰り返していた。一線を越えてしまったのがいつだったかなんて、とうの昔に忘れてしまった。それでも臨也に触れられるだけで静雄は簡単に切り替わってしまう。まるで隠していたスイッチを暴かれ、強引に押されてしまったように。

「臨也」
「……なに」
「手前のせいだからな」
「は?」
「スイッチを押したのは手前だ」
「なに言っ―――おい、ちょっ……何してんの!?」

急もクソもあるかとボヤきながら静雄は臨也の身体を軽々と持ち上げる。突然横抱きにされて混乱する臨也を抱えたまま路地裏を抜け、向かう先はとうに決まっている。

「ちょっとシズちゃん、俺まだこの後仕事が」
「俺だって集金の途中だ」
「じゃあダメでしょ!田中さんに怒られるよ!?」
「仕方ねえだろ」
「何が!?何が仕方ないの!?」

悲鳴混じりの抵抗を黙殺し、静雄は古びたアパートに向かう。抱えられたままでも目的地が分かったようで、臨也はぐったりと身体の力を抜いた。逃げながらこの場所が近いとは気付かなかったらしい。その臨也の甘さに少しの憂虞を覚えながらも、静雄はアパートの階段を昇った。錆びついた階段は見慣れたもので、臨也はもう何も口にすることはなかった。


end.




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