仰せのままに、お姫様



それは突然の訪問者だった。

「……お前、」

インターホン越しに映るのは、ファー付きの黒いコート。フードの下から覗いた瞳がこちらを捉える。ルビーよりも濃い緋色は、実に不機嫌そうだった。


×


「まさか急に来るなんて思わなかったぞ」
「……いつでも来ていいと言っていたのは、お前だろう」
「それはそうだが―――」

どういう風の吹き回しだ?と続けようとして口を噤んだ。ぎろりとした眼光の鋭さに、思わず苦笑する。

「……なんでもないさ」
「喉が渇いた」
「はいはい。ブラックでいいか?」
「あぁ」

俺の返答に多少は溜飲が下がったのか、折原は脱いだコートを当たり前のように押し付けて来客用のソファーに腰掛けた。コートの下は相変わらず薄着で、薄いタートルネックは細い身体のラインがよく分かる。不摂生にしか見えない身体だが、これでビルの間を易々と駆け回るのだから、若さには恐れ入る。俺には到底真似できる芸当ではないだろう。押しつけられたコートを玄関のコートハンガーに掛けると、俺はキッチンにある薬缶を手に取った。

「どうした、疲れているようだが」
「……まぁ、色々とね」

湯を沸かしながら尋ねるが、曖昧な返事しか戻ってこない。これ以上問いかけても無意味だろうと判断し、湯が沸くまで俺は沈黙を貫くことにした。後ろから折原の背中を眺めていると、不意に陽気な着メロが響き渡る。その曲はなんだ?と思わず突っ込むと、不自然にぶちりと曲が途切れた。折原が端末の電源を切ったようだった。重い静寂が訪れ、俺はそっと息を吐く。折原はよほどご機嫌斜めらしい。仕事の電話だろう、切ってよかったのか?そう訊きたかったが、俺はその衝動をぐっと堪えた。薬缶が徐々に沸騰していく音がひどく間抜けに感じられる。折原は何かを考えているようで、ソファーに座る後ろ姿は微動だにしなかった。

「折原、ほらブラックだ」

焙煎が終わり、珈琲が入ったカップを差し出すと、折原は黙って受け取った。電源を切られた端末は無造作にソファーに転がっている。自分の分の珈琲を啜りながら折原の様子を見下ろしていると、不意に彼がこちらを見上げた。

「お前も座れ、九十九屋」

……まぁ俺の家だけどな。そう言いたかったが、言い返せば不機嫌に拍車が掛かりそうなので、黙って首肯して腰を下ろす。向かい側に座る折原は俺が座ったのを確認して、ようやくカップに口をつけた。細く白い喉が数回上下し、黒い液体を嚥下する。

「美味いか?」
「―――あぁ。豆を変えたか?」
「そうだな。先週新しいものに変えてみたんだ。少し酸味が強いが」
「お前が好きそうな味になったな」

おや、と俺は瞠目する。おそらく以前の味が気に入っていただろう折原が愚痴の一つも言わないのは珍しい。しかも俺の好きそうな味だなんて言って、薄く笑みさえ浮かべている。よほど疲労が溜まっているのだろうか、と折原を凝視していると目敏く見つかってしまった。

「……なんだ、その顔は」

不気味だと言いたげに頬を引き攣らせ、折原はカップをソーサーに戻した。先ほど電源を切った端末を一瞥し、それから視線を再度こちらに戻す。

「いや、なんでもないさ」
「……そうは見えなかったが」
「それよりも折原、急に来るから驚いたぞ。今まであんなに誘ってもつれない態度だっただろう」
「―――別に、大した理由は」

俺の言葉に折原は目を伏せる。珍しく言い淀んでいる様子だった。机を押し退けて折原の隣に腰かけると、たちまち不機嫌な声音で文句が飛んでくる。

「なに」
「―――別に?」

お返しとばかりに同じ言葉で返すと、露骨に眉が顰められる。皺の寄った眉間に指先で触れると、噛みつかれそうな勢いでやめろと一喝された。しかし強く抵抗しようとはしてこない。じっと折原の表情を数秒伺ったのち、俺は折原の腕を掴んだ。

「ッ……おい、九十九屋」

僅かに筋肉に緊張が走る感触が指先に伝わる。しかし振り解かれない様子を見て取ると、俺はそのまま手に力を込めて押し倒した。予想よりも軽い力で押し倒された折原は、こうなることを予想していたのだろう。嫌そうな表情を浮かべつつも、俺をしっかりと睨めつけた。その視線の強さが逆に心地いい。俺は唇を吊り上げて折原の腰に手を回す。途端にぴしゃりと払い除けられて苦笑した。腕を掴んでいた指も抓られそうになり、やむなく手を離す。

「お触り厳禁か?」
「当たり前だ。誰の許可を得て触ってる」
「おや、許可が必要だったのか?今までもお伺いを立てたことなぞ無かったが」

俺の言葉に折原はぐっと唇を噛んだ。痕になるぞと窘めると、うるさいと一蹴される。機嫌がいいのか悪いのか、今日の折原は非常に判断しにくかった。俺はソファーに投げ出されたままの端末を拾い上げる。折原は俺が触れても特に意に介した様子はなかった。それが奇妙で俺は首を捻った。普段であれば俺に1ミリたりとも触れさせそうにないものだ。

「お前が外部との連絡を遮断するなんて、初めて見たぞ」
「そんな日もある」
「俺が知る限りこんなことは今まで無かったけどな」
「そうでもないさ」
「何があった?」

俺の言葉を聞いているのかいないのか、折原は視線を床に落としたままだ。俺は端末をテーブルに置き、折原の頬に指を這わせる。僅かに反応した瞳が、ゆっくりと視線をこちらに移動させた。ルビーよりも濃い深紅。普段は燃えるようなその色が、やけに翳っているように見えた。

「折原」

数拍の静寂の後、折原は緩慢な動きでようやく上体を起こした。伸ばした細い指先が俺の手を掴む。冷たい指先に縋るような意思を感じて、俺はしっかりと指を絡め返す。もう一度名を呼べば、観念したように折原は口を開いた。

「……大したことじゃない、本当に。少し仕事でトラブルがあって、予定が狂っただけだ」
「トラブル?」
「相手先の事務所で、ちょっと揉め事があったんだよ」
「……成程、堅気じゃないお得意さんってとこか」
「まぁそれで、危うくこっちもハメられそうになって。なんとか切り抜けたけど、脅されたりしてもう最悪だよ」

折原は深い溜め息を吐き、髪を乱雑に掻き回した。絹のような髪が乱れてもお構いなしだ。俺が手を伸ばして触れても、今度は払い除けられることはない。あちこちに乱れまくった髪を撫でつけると、折原は静かに目を伏せた。そうやって俺に身を預けていると従順で本当に可愛らしいのだが。

「……おい、九十九屋。どさくさ紛れに何をしている」
「何って、キスでもしようかと」
「やめろ」

うんざりした表情すらも可愛く思えるのだから俺も相当に重症だ。細い腰をぐっと引き寄せ、ぎゅっと目を瞑った折原の右頬にキスを落とす。僅かに頬が紅潮したのを見逃さずに、今度は左頬にキスをするとぐいっと胸元を押し返された。やめろと言うが、その力の弱さでは肯定としか捉えられない。

「傷心のお前を慰めてやろうとしているだけじゃないか」
「慰めろなんて俺は言ってない」
「へぇ?頑なに此処へ来なかったのにか?」
「…………」

僅かに紅潮していた頬がその色をじんわりと濃くしていく。無言は肯定だと受け取るぞ?耳朶に吹き込むように囁けば、折原は子どものようにぷいと視線を逸らす。そんな子どもじみたことをしてまで甘やかしてほしいのであれば、俺はそのご希望に添うばかりだ。恭しく折原の手を取ると、俺はその手の甲にキスを贈った。あぁ、つくづく思うがわがままな恋人を持つと苦労する。

「お前が満足するまで慰めてやるよ」


(小さく聞こえた「馬鹿」は了承の意だろう?)



end.




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