promised kiss



「シーズちゃん!」

バーテン服の背中に爽やかな声が投げ掛けられた。振り返った男は不機嫌そうにサングラスの奥で鳶色の瞳を細める。相手の姿を視認した瞬間、その表情は苦々しく歪められた。

「臨也……手前、何しに来たんだァ……?」
「あは、怒ってんの?シズちゃん」
「怒ってねえぞ……ただ苛ついてるだけだ」
「それ怒ってるって言うんじゃないの?」
「うるせえ」

低めた声で吐き棄てながら静雄は胸ポケットから煙草の紙箱を取り出す。臨也はリズムを取りながらステップを踏み、静雄への距離を詰めていく。表情はにこやかな笑みを浮かべており、端正な顔立ちも相俟ってそれだけを見れば友好的に映るかもしれない。しかし静雄は臨也の性格を嫌というほど熟知していたので、臨也が一歩近づくたびに警戒のレベルを引き上げた。

「質問に答えろ。なんで手前が池袋にいる?……おい、それ以上近付いてくるな」
「なんで?そうだね、特に用なんてないんだけど」
「用が無いなら帰れ!」
「俺が池袋を散策しようが勝手だろ?いつも思ってたけど君さぁ、池袋を自分の庭か何かと勘違いしてない?とんだ心得違だよ」
「……うるせえ。お前こそ池袋を荒していいって勘違いしてるだろうが」
「えぇー?俺はシズちゃんと違って電柱とか標識引っこ抜いたりしないし、荒してるなんて妄言やめてほしいなぁ。風評被害だ」
「……臨也ァ……」
「なに?」
「俺が煙草吸い終わるまでに俺の視界から消えろ……」

怒りを必死に押し殺し、静雄は地の底から響くような声で呟く。無理矢理抑え込んだ怒りのせいか、節くれ立った指先が震えている。静雄は紙箱から取り出した一本の煙草を指で挟み、逆の手でジッポライターを取り出す。そうして煙草にに火をつけようとした瞬間、指の間から煙草が消えた。サングラスの奥で鳶色の瞳を瞬かせ、視線を真横にずらす。にこりと微笑んだ臨也が静雄の煙草を手にして軽く振る。

「苛々したからって煙草?身体に悪いよ」
「……ッ、手前!誰のせいで苛々してると思ってんだァ!?」

静雄は反射的に手を伸ばすが、臨也はひらりとその拳を躱してみせる。細い体躯を揺らしながら手にしていた煙草を地面に落とし、黒い革靴で何の躊躇いもなく踏み潰す。それを目にした瞬間、静雄の中で怒りが沸騰した。

「いきなり手出すなんて乱暴だなぁ。ま、俺のせいだよね―――シズちゃん」
「分かっててやってんなら上等だ。臨也、今日こそは覚悟しろよ。俺の貴重な一本を無駄にしてくれた上に、街を汚したんだからよぉ……」
「貧乏人に煙草なんて嗜好品は不相応だよ。シズちゃんはその辺の雑草でも咥えてればいいんじゃない?それに、この街を汚すのは君の間違いだろ?」

臨也が笑みを深くして嗤うと、静雄の纏う空気が殺気を帯びたものに一変する。煙草を何度も靴の踵で踏み潰しながら、臨也はコートのポケットに手を突っ込む。冷たいナイフの感触を確かめながら視線を静雄に真っ直ぐ向けた。やり合うのは構わないけど、あんまり長引くと面倒だなぁ。臨也がそんなことを暢気に考えていると、静雄の足がコンクリートの地面をじり、と踏み締める。o.5秒後に襲ってくる攻撃を予期して臨也が動こうとした―――その瞬間、二人の殺し合いは闖入者の登場によって妨げられた。

「静雄!」
「静雄先輩っ!」

静雄の背後からテノールとソプラノの二重奏が聞こえてくる。険しい表情で臨也を睨みつけていた静雄は我に返り、掴み掛けていた標識のポールから手を離した。完全に臨也から意識が逸れたのか、静雄は振り返って返事を返す。

「トムさん、ヴァローナ」
「こっちは回収終わったぞ。んな所で何して―――……」

トムの瞳が臨也の姿を捉え、和やかな表情が瞬時に強張る。元ロシア傭兵の少女も臨也に気付き、無表情のままで視線を鋭くした。臨也は静雄の意識が自分から逸れたことが面白くなく、しかしその不愉快な気持ちを押し殺して笑みを貼り付ける。

「やぁ、田中さんにヴァローナちゃん!田中さんは特にお久しぶりですね」
「俺としちゃ、会いたくなかったんだがな……」
「ひどいなぁ。久々に会うなりそんなこと言います?……ヴァローナちゃんも、元気にしてたかい?」
「…………」

ぎこちなく引き攣った笑顔で答えるトムと、臨也を強く睨めつけるヴァローナ。相変わらず彼女にはひどく嫌われているらしい。臨也は肩を竦めて苦笑するが、その瞳の奥は不愉快さを隠しきれていない。

「おや、無視かい?」
「返答を拒否します」
「冷たいなぁ。コミュニケーションは人間関係に重要な要素だよ」
「медвежья услуга.(熊の親切)」
「……随分と嫌われたもんだね。まぁいいや」

ヴァローナと静雄の厳しい視線をものともせず、臨也はポケットから手を抜いてひらひらと振る。戦う気が削がれているのは静雄だけではない。邪魔されたことで沸々と不快な感情が湧き上がっていたが、それをトムとヴァローナにぶつける気にもなれなかった。その場でくるくるとステップを踏みながら、臨也はトムの顔を覗き込む。

「それより、もう行っちゃうんですか?」
「あ、あぁ。この辺りの回収は終わってるからな」
「折角会えたのに残念だなぁ。田中さんとはもっと話したいことあるんですけど」
「俺の方はないんだが……」
「おい臨也ァ!トムさんから今すぐ離れやがれ!」
「うっさいなぁ。言われなくても退くって」

飛んできた怒声に呆れながら臨也は数歩後退る。ヴァローナに何かを問われ、静雄は柔和な笑みとともに返答をする。自分には決して向けたことのない笑顔をこの少女には容易に見せるのだと思うだけで腹が立つ。胸中に渦巻く怒りが勢いを増していき、どす黒い感情が溢れ出しそうになる。静雄がちらりと視線を遣ったことに気が付いた臨也はぱっと顔を伏せた。別れの言葉を口にすることすら癪で、早くどこかへ消えてしまえと思う。それなのに―――臨也の指先は気付けば静雄のシャツの袖を掴んでいた。

「―――おい、いざ」

振り返った静雄が怪訝そうに臨也を見下ろす。鳶色の瞳を大きく見開き、不自然に言葉を切って黙り込んだ。俯いている臨也の白いうなじが場違いなほど白く映る。静雄のシャツを掴んでいる細い指先は僅かに震えていて、力はまったく込められていない。引き留めるにしては弱々しく、簡単に振り払えるほどだった。黙ったままシャツを掴んでいる臨也を問い詰める気にはなれず、静雄はガリガリと頭を掻く。トムとヴァローナは困惑したように顔を見合わせている。

「あー……臨也?」

戸惑いを隠せない声で静雄は臨也の名を口にする。臨也は黙り込んだままだったが、焦れるほどゆっくりおとがいを上げた。赫い瞳はゆらゆらと揺れていて、いつものような強気な輝きを欠いている。静雄は複雑そうな表情で臨也を見下ろしていたが、不意に溜め息を吐くと手を伸ばした。優しい手つきで滑らかな黒髪をさらりと撫でる。トムは呆気に取られ、ヴァローナは息を呑んで体温を上昇させた。静雄は二人の方を振り返ると、申し訳なさそうに頭を下げる。

「すんません、ちょっと先行っててもらえますか。すぐ追いつくんで」
「お、おう。ほら、行くぞヴァローナ」
「で、でも……静雄先輩…ッ!」
「すぐ行くって。そんな顔すんなよ」
「―――、っ……」

ヴァローナは美しい顔を歪ませて臨也を睨みつける。激しい憎悪を滲ませた眼差しを受け―――臨也は視線だけをヴァローナに向ける。無表情なままだったが、赤い瞳は陽の光にぎらりと煌めいたように見えた。それを見て臨也が愛用しているナイフの煌めきを重ね合わせ、ヴァローナは臨也から刃を向けられているような錯覚に陥った。瞬発的に一歩踏み出し、ヴァローナは臨也の顔面を蹴り飛ばそうとする。しかしそれを制止したのは静雄の手の平だった。片手で容易に足を受け止められ、ヴァローナの身体から一気に熱が抜け落ちていく。自分の軽率な行動を恥じ、静雄にそれを見られてしまったことを恥じた。

「ヴァローナ。臨也を潰すのは俺だ。お前が手を汚す必要はねぇよ」
「……はい」

静雄に諭され、ヴァローナは足を下ろして頷いた。トムに促されて歩き出し―――振り返ろうとしてやめる。二人の姿が遠ざかっていったことを確認し、静雄はようやく臨也を振り返った。相変わらずシャツの袖を掴んだまま、臨也は視線を合わせようとしない。往来の真ん中に突っ立っているわけにも行かず、静雄は臨也の手を引いて路地裏へと入る。抵抗することなくついてきた臨也は落ち着かなさそうに視線を彷徨わせ、ちらりと静雄を見上げる。

「シズちゃ……」
「なんて顔してんだ、手前」

静雄は苦笑して僅かに身を屈めた。耳元に口を寄せられ、熱い吐息が臨也の細い首筋にかかる。思わず一歩後退るが、背後は硬いコンクリートの壁だ。冷たい壁に後頭部を軽く打ちつけ、痛みに呻いていると静雄は呆れたように肩を竦める。

「何やってんだ?」
「痛っ、う、……ぅ」
「それぐらいで泣くなよ」
「泣いてない!」
「ほら、ちょっと見せてみろ」

静雄の大きな手が臨也の小さな頭を優しく引き寄せる。指通りのよい髪を掻き分けて頭皮を確認し、ぶつけた箇所をそっと撫でる。腫れている様子がないことを確認すると、乱れた髪を撫でつけて臨也の顔を覗き込んだ。手は頭に添えられたままで、臨也は逃げることができない。

「たんこぶになってないし、平気だろ。……そんなに痛かったのか?」

尋ねても返事が戻ってこないことに静雄が首を捻る。路地の薄暗さにようやく目が慣れてきて瞬きを何度か繰り返すと、臨也の頬が熟れた林檎のように赤く染まっていることに気が付いた。思わず言葉を失い、少々気まずいに気持ちになり―――その痩身を腕の中に抱き込む。

「お前、本当に……面倒な奴だな」
「うっさい」
「おまけに減らず口ときた」
「シズちゃんのせいだよ」

身体を少し離し、臨也はようやく赤みの引いた顔で静雄をじっと見上げた。手を伸ばして静雄の顔の輪郭を確かめるように触れる。まるで幼い子どもが甘えるような様子に静雄は柔和な笑みを浮かべた。それはヴァローナやトムに向けるものとは異なる、とびきりの甘さを含んだ笑みだった。

「今度はちゃんと、俺から会いに行くから―――それでいいだろ?」
「……約束」
「あ?」
「ちゃんとシズちゃんから会いに来るって、約束して」
「……あぁ、いいぜ」

偉そうな口ぶりに腹が立つ。臨也は眉根を寄せたまま、静雄の胸倉を掴んだ。背伸びをすれば静雄が軽く身を屈める。そんなことにさえも腹が立って、でもどこか嬉しくもあって。臨也の胸の中に渦巻いていた不愉快さや怒りはいつの間にか消え失せていた。唇に触れる、僅か一秒の柔らかな感触が愛しい。

「……約束完了だな」
「俺からしたのに君が偉そうに言わないでよ」
「拗ねんなって。……じゃあな」

臨也の頭をポンと撫で、静雄は振り返りもせずに歩き出す。すたすたと去っていく広い背中を恨めしい思いで見送り、やがて臨也も背を向けて歩き出した。


唇はまだ、熱かった。


end.




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