ベルガモット&オレンジティー



意識がぼんやりと覚醒した瞬間、甘い柑橘系の香りが静雄の鼻孔を擽った。霞みがかった思考の中で薄く目を開ければ、見慣れた高い天井がそこにはあった。まだぼんやりしたままで上体を起こすと、ベッドの端には自分のバーテン服が綺麗に畳まれた状態で置いてある。それを目にして、昨夜ここへ自分が来たことをようやく思い出した。何度か瞬きを繰り返していると、妙な違和感を覚えて静雄は声を上げた。

「……臨也?」

寝所を共にしたはずの恋人の名を呼ぶが、既にベッドにはその姿は無かった。もともと臨也の起床は静雄よりも随分と早く、こうして臨也の家に泊まっても目を覚ませば
居ないのはいつものことだ。おそらくリビングがキッチンには居るのだろう。微かに何かをしている物音が遠くから聞こえていた。恋人になる前のセフレ同然だった頃などはもっと酷いもので、静雄が目を覚ました頃には姿をくらましているのが常だったのだ。前よりはマシになっているのだと自覚はしているが、目を覚ました時に隣に恋人がいないというのはやはり気分が良くない。何よりも置いて行かれたようなこの寂しさは言葉にし難かった。モヤモヤとする思考を振り払うように、静雄は緩く頭を振りながらベッドから降りる。スプリングがぎしりと音を立てて軋んだ。

「臨也」

静雄は臨也の寝室を出てリビングを抜け、キッチンを覗く。臨也はちょうどフライパンを火にかけようとしているところだった。静雄が声をかけるとぱっと振り向く。静雄の顔を見た瞬間、臨也は柔和な笑みを浮かべた。

「おはよ、シズちゃん」
「ん、……はよ」
「相変わらず低血圧だねぇ。まだ眠いの?」
「ちょっとだけな…」

紺のエプロンを揺らしながら臨也は静雄の顔を覗き込む。上目遣いの可愛らしさに静雄がぼーっとしていると、臨也はあっと声を上げて静雄の髪に手を伸ばした。細い指に髪を梳かれる感覚がくすぐったく、静雄は思わず目を瞑る。

「なんだよ、くすぐってぇ」
「寝癖ついてるよ。ここ、ぴょんって」
「あー……」
「かわいいねぇシズちゃん」

くすくすと笑みを浮かべた臨也は何度も静雄の側頭部を撫でつける。しかし頑固な寝癖はそれだけでは直ってくれないようで、臨也はやがて諦めたようだった。

「濡らさないと無理かな。洗面所に俺のヘアウォーターがあるから使っていいよ。水色のボトルね」
「ん」
「まだ眠そうな顔してるし、顔も洗ってきなよ」
「……あぁ」

目を擦りながら呟いた静雄に臨也は苦笑を浮かべる。子供にするようにぽんと頭を撫でられ、促すように背中を押された。静雄は噛み殺せなかった大きな欠伸を一つして洗面所へ向かう。蛇口を捻ると指先が冷たい水に触れて思わず身体が震えた。春先の朝はまだ冷える。静雄は意を決して顔を洗うと、タオルハンガーにかけてあった新しいタオルで拭き取った。ほんのりと漂った花のような香りは柔軟剤だろうか。顔を上げると洗面台の上には水色のボトルが置いてある。説明書きを読むに、臨也の言っていたヘアウォーターだろう。数回髪に吹きかけて手櫛で整える。不自然に跳ねていた髪は、何度か強く撫でつけると大人しくなった。べたつく手を洗ってリビングへ戻れば、臨也はまだ朝食を作っている途中だった。臨也のうしろ姿、その細い腰の辺りで揺れるエプロンの紐がやけに可愛らしく映る。戯れに静雄がそれを引っ張ると、驚いたらしい臨也は声を上げて振り返った。

「わっ」
「寝癖、直ったぞ。さんきゅな」
「あ、うん。……あっ、ちょっとシズちゃん……」
「あ?」
「紐、ほどけちゃうよ」

後ろ手で紐を掴み、臨也は不服そうな眼差しで静雄を見上げる。軽く引っ張ったつもりだったか力加減を誤ってしまったのだろう、綺麗なリボン結びになっていた紐は今にもほどけそうになっていた。

「もう、せっかく綺麗に結べたのに…」
「悪かったよ」
「ほんとに悪いと思ってる?」

臨也は怒ったように頬を軽く膨らませるが、瞳の奥は楽しそうに笑っていた。悪い悪いと軽い調子で静雄が返すと、呆れたように笑みを零す。

「絶対に思ってないでしょ」
「んなことねぇって」
「いや、絶対嘘だっ―――ん、……」

なおも反論しようとする臨也の顎を掬い上げ、静雄は唇をそっと塞いだ。しっとりと濡れた唇の感触が心地良い。暫くしてから唇を離し、再び啄むように触れるだけのキスを繰り返していると、臨也が微かに笑った気配がして目を開けた。ピントが合わないほどの至近距離で、臨也がくすぐったそうに微笑む。

「なにしてんの、シズちゃん」
「……何って、キスだろ」
「それは分かるよ」
「手前が可愛いのが悪いんだろ」
「うっわ、なにそれ横暴。めちゃくちゃ暴君じゃん」
「……手前は黙ってりゃもっと可愛いのにな」

前髪を掻き上げて額に唇を落とすと、臨也はやっと口を閉じた。耳朶から頬にかけてじわじわと真っ赤になっていく様子は実に愉快だ。くすくすと笑いながら宥めるように頬や首筋にもキスを落とす。静かなキッチン内に響くリップ音が恥ずかしいのか、臨也は次第に顔を伏せてしまった。顔を上げるように促しても臨也は頑なで、静雄は軽く息を吐き出して臨也を解放した。

「悪い、朝メシ作ってくれてたんだよな」
「え……あ、うん」

ぱちぱちと瞠目する臨也の頭を軽く撫で、静雄は微笑む。並べられた材料や調理途中のボウルを見るにスクランブルエッグとサラダ、付け合わせにはハムとソーセージだろう。腹の虫がきゅーっと小さな音を立てたことに苦笑し、静雄は臨也を軽く抱き寄せるとすぐに手を離した。

「邪魔しちまったな」
「……ん、もう少しで出来るから待っててよ」
「リビングにいる」
「あ、ちょっと待って!シズちゃん」

呼び止める声に静雄が振り返ると、臨也は棚から取り出したカップにティーポットから鼈甲色の液体を注いだ。薄くスライスされたオレンジを浮かべ、臨也はそのカップを静雄に差し出す。

「はい」
「……これ、なんだ?紅茶…なのか?」

カップを受け取ると、目が覚めたときに嗅いだ香りと同じ香りがした。爽やかさの中に甘みのある、優しい香りだった。静雄は何度も香りを嗅いでいると、臨也は柔和な笑みを浮かべる。

「ベルガモット&オレンジティーだって」
「べ、べる……?」
「ベルガモットね。イタリアのレモンに似た蜜柑みたいなものだよ。皮はすごくいい香りがするから、香料にもなるんだ」
「へぇ……本当にいい匂いすんな」
「ね、いい香りでしょ?貰い物だったんだけど、一度飲んだら気に入っちゃってさ。自分で取り寄せてみたの」

ベルガモットが何であるかも、香料についても知らなかった静雄だが、香料ではない自然な香りが気に入った。紅茶から漂う芳醇な香りに目を細めると、その様子を見て臨也は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「じゃあ、それ飲んで待っててよ」
「あぁ」

置いていた菜箸を持ち直し、臨也はボウルの中の卵に牛乳や塩、胡椒を入れていく。静雄が大好きなバター多めのスクランブルエッグだろう。早く食べたいと思いつつも、邪魔にならない内にと静雄はリビングへ移動した。リビングのソファーに腰を下ろした静雄は、手中のカップを持ち上げて香りを嗅ぐ。食べ物に関しては特に人一倍、本物志向な臨也のことだ。インスタント食品や缶詰などの加工食品を嫌うだけもあり、この紅茶もかなりの高級品なのだろうと想像に容易かった。たっぷりと香りを堪能して、静雄はカップを口をつける。まだ少し熱いそれを口に含むと、甘い香りと酸味のある味が口腔内に広がった。酸味はやや強めだが、甘いものが好きな静雄に合わせて臨也がシロップを入れてくれたのだろう。仄かな甘さがじんわりと溢れていく。

「……美味い」

知らず知らずの内に顔が緩んで、静雄はそう呟いていた。一気に飲むのはなんだか気が引けて、少しずつ飲む。そうして静雄が全てを飲み終えた頃に、見計らったようなタイミングで臨也がやって来た。手には大きめの木製トレーを持っていて、自分の分の紅茶とティーポットが乗せられている。

「紅茶、どうだった?」
「……美味かった」

静雄の言葉に臨也は嬉しそうに目を細め、カップとティーポットをテーブルに置いた。もう一度キッチンへ戻りかけた臨也を呼び止め、今度は静雄がキッチンへ向かう。置いてあったスクランブルエッグとサラダ、ハムとソーセージが乗った皿を持ってリビングへ戻ると、臨也は熱心にトースターを覗き込んでいる。どうやら食パンを焼いているようだった。静雄がテーブルに皿を置くと、タイマーをセットし終わった臨也が振り返る。

「ありがと」
「ん……なぁ、臨也」
「なに?」
「朝メシ、別にいつもお前が作らなくていいんだぞ」

静雄の言葉が意外だったのか、臨也は何度か目を瞬かせて首を傾げた。

「どうしたの、急に」
「別に急ってわけでもねぇけどよ……お前、いつも俺より早く起きて朝メシ作ってるだろ」
「うん、まぁ早起きっていっても30分ぐらいだけど」
「その、だいたい前の日には俺が……無理させちまってんのに、申し訳ねぇっていうか……」

歯切れの悪い静雄の言葉に、臨也は驚いて目を丸くする。えーっと呟きながら口元に手を当てつつ、微妙に口角が緩んでいた。

「……いや、意外だなぁ……」
「は?何がだよ」
「シズちゃんがそんな些細なこと気にかけるなんて」
「……些細なこと、か?だって手前、いつも作ってくれるし……」
「うーん、まぁそうだね。でもシズちゃんは気にしなくていいよ?朝食は俺が好きで作ってるし」
「そうなのか?」
「料理に関しては妹たちの世話もあったからずっとしてたしね。今さら面倒とかないよ」

臨也の双子の妹、九瑠璃と舞流は臨也と随分年が離れている。両親は海外赴任でほぼ不在だと学生時代に新羅から聞いた覚えがあった。壮絶な殺し合いを繰り返しながらも、学校外で臨也に出くわすと必ずと言ってもいいほど妹たちに慕われていた。学校内で見せるような邪悪さは微塵もなく、一見するとただの面倒見のいい兄そのものな表情に静雄は呆気に取られたものだ。もちろんそんな状況で臨也に手を出すことはなく、双子に見つかれば静雄も即座に懐かれ、臨也は気まずさから苦々しい表情を浮かべていた。それらをまるで昨日のことのように思い出しながら、静雄は神妙に頷いた。

「そうだな……」
「でも、たまーにキツいときあるし、その時はシズちゃんにお願いしていい…?」

控えめに零された質問に静雄はゆるく笑みを零した。柔らかな黒髪を撫でて当たり前だろ、と返事をすると臨也は安堵したように頷いた。撫でられるのが心地良いのか、臨也は猫のようにうっとりと目を細める。このままキスをしてやろうかと静雄が思いを巡らせた瞬間、チンと小気味いい音がリビングに響き渡った。

「あ、トースト焼けたみたい」

臨也が嬉しそうな声を上げてトースターを振り返ったが、密かな目論見が消え去って静雄は苦笑いを浮かべる。仕方なくティーポットを手に取り、空になっていた自分のカップにお代わりの紅茶を注ぐ。鼈甲色の液体はカップの中で静かに揺れている。

「臨也、今日はどうする?」
「んー、シズちゃんは何かしたいことある?」
「いや、特には。適当にDVD借りてくるか」
「……ホラー系は嫌だからね」
「分かった。じゃあバイオハザードとSAWとサイレントヒルと…」
「何が分かったの!?俺の話聞いてた!?」
「泣くことねぇだろ」

ベルガモットとオレンジの香りに包まれながら、静雄は今にも泣きだしそうな臨也の表情を眺めて微笑んだ。


end.




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