やたらしつこい愛の供給



「貴方、何してるの」

波江が声を掛けると、臨也は目を通していた分厚いファイルから顔を上げた。仕事用のブルーライトカット眼鏡をしているせいか、普段より怜悧な印象を抱かせる面持ちだ。波江を見上げて、臨也はにこりと薄っぺらい笑みを浮かべる。

「別に?ちょっと情報の確認をしていただけさ」
「……そう」

当たり障りのない返答に波江は僅かに眉根を寄せた。何を見ているのかという意味で尋ねたつもりだったが、さらりと躱されたことに僅かな苛立ちが残る。波江はそんな苛立ちを押し殺すと、静かに頷いて書類の整頓をはじめた。この自由気ままな雇い主にいちいち不満をぶつけていたら、帰ってくるであろう返答の憎たらしさに波江の身が持たない。案件ごとに書類をファイリングして棚に戻していると、不意に臨也が声を上げた。

「あ、そうだ。波江」
「何?」

作業を中断するのが億劫で、波江は手を止めずに返事をした。苛立ちのせいか存外低い声が出てしまい、思わず小さな舌打ちが漏れる。耳聡い臨也がそれを聞き逃すはずもなく、不思議そうに首を傾げた。

「…?どうしたんだい、何か怒ってる?」
「―――…別に」

波江はキョトンとした表情の臨也から視線を逸らして嘯く。一見すると幼い子どものようなその表情に、波江は騙されはしない。予想通り、表情をコロッと一変させた臨也は緋色の瞳をすっと眇めて微笑む。いつもと寸分変わらぬ、胡散臭い笑みだ。

「そう?まぁいいや。粟楠会に送るメールがあるって言ったろう?今から文面を言うから、入力してくれるかな。送信前に俺が確認するから」
「……分かったわ」

作業を中断せざるを得なくなり、波江は軽い溜息を吐いた。整理中のファイルをデスクの端に置くと、パソコンでメールアプリを起動した。粟楠会幹部のメールアドレスを選択し、臨也が口にする内容をメールに相応しい文面に直しながら打ち込んでいく。ここ半年で随分とタイピングが速くなった気がする。冗談交じりにタイピングの大会にでも出てみればと言われたことを思い出して、キーボードを叩く指先に込める力が僅かに増す。

「終わったわよ。確認してちょうだい」
「うん。……大丈夫、そのまま送信して。それにしても、波江さんは相変わらず仕事が早いね。優秀な秘書で本当に助かるよ」

感慨深げに臨也は呟くが、メールを終えてデスクを立った波江は胡乱げに瞳を眇める。ソファーに腰かけている臨也をじっと見下ろして、あからさまに不満げだ。

「……何が狙い?」
「は?」
「あなたが他人を皮肉以外で褒めるなんて、何か裏があるはずだわ」
「波江さぁ、それ失礼じゃない?」
「失礼…?そうは思わないけれど。ただ私の経験上のことを言っているだけよ」
「えー?」

臨也は傷ついたと言いたげに大仰に両手を広げる。右手に持ったままの分厚いファイルが揺れるが、中の書類は見えそうになかった。波江の視線が動いたことに気付き、臨也はいびつに唇を吊り上げる。その表情に不快感を煽られ、波江が眉間の皺を深くすると臨也は嫌味ったらしい笑みを浮かべた。

「全く以て心外だね。俺は素直に本心を口にしただけなのに」
「あら……そうだったの」

(その表情で言われて誰が信じるのよ。どっちにしろ、私にとっては吐き気を催すくらい気持ち悪いだけだからどうでもいいけれど。―――それに、そんな戯れ言を信じる人間が居たとしたら、貴方を信仰する馬鹿な信者たちでしょうね。男女問わず、貴方が誘惑して篭絡した……どうしようもなく愚かで救いようのない人間)

口にはしないが、波江は内心そう吐き捨てる。顔にはにっこりとした笑みを貼りつけていたが、臨也は笑みを崩さないまま鼻を鳴らした。

「君は優秀だけれど……一方で本当につまらない女だ」
「あら、最高の褒め言葉ね」

心底面白くなさそうに吐き捨てられた言葉に、波江は笑みを深くする。自分の言葉や行動で臨也が不快感を覚えているのは非常に気分がいい。臨也はそんな問答に嫌気が差したのか、はたまた飽きたのか―――クローゼットから愛用のコートを取り出して羽織った。

「まったく可愛いげの欠片もないね。まぁいいや、ちょっと出掛けてくるよ」
「何処へ?」
「さぁね。何処だと思う?」

よっぽど、質問に質問で返すなと言ってやろうかと思った。しかし臨也の行く先などとうに理解している波江は、黙ったまま書類整頓を再開する。臨也がこうも浮足立った様子で向かう先など、池袋以外に存在し得ない。

「じゃあ、行ってくるよ」

波江が返事などするわけないのに語尾に音符でも付きそうな調子で告げ、臨也は去って行った。ちょうど入れ替わりで書類を届けに来た痩身の男が、引き攣った顔で波江に視線を送る。

「あの、矢霧さん……」
「臨也なら池袋に行くみたいよ」
「そ、そうっすか」
「何?奈倉、あいつに用事でもあったの?」
「いえ、そうじゃないんですけど……臨也さん、やけに上機嫌だったんで」
「不気味だった、って?そんなのいつものことじゃない」

内側から沸き上がる感情を抑え切れず、波江は奈倉にそう吐き捨てた。所在なさげな奈倉は波江に茶封筒を渡すと、そそくさと逃げ帰っていった。おそらく、波江が発するただならぬ雰囲気に気圧されたのだろう。

「本当に腹立たしいわ。どいつもこいつも」

ソファーに無造作に投げ捨てられているのは、臨也が先ほどまで眺めていた分厚いファイルだ。波江は細い指をそれに這わせ、ゆっくりとその中身を確認した。そして予想通りだったそれらを目にして、苦々しく表情を歪める。―――ファイルの中身は、平和島静雄の詳細なデータと数枚の写真だった。


×


正午を回り、集金もキリが良いところまで済んだ。トムは何事もなく午前が終わったことに安堵の息を吐く。普段ファーストフードばかりなので、今日は近くに出来たという噂を聞いた定食屋に行こうと朝から静雄と話していた。静雄も上機嫌で乗ってきたから、きっと喜ぶだろう。そう思いながら視線を隣にずらした瞬間、トムは硬直する羽目になる。こめかみに青筋を浮き上がらせ、血走った瞳で後輩が見つめる先には―――見覚えのありすぎる男の姿があったからだ。薄茶色の高級そうなファーがついたジャケットを羽織った美しい男は、静雄を見てその唇をいびつに歪める。

「………………」
「し、静雄!」

トムは続ける言葉を見失い、力なく静雄に手を伸ばす。必死に発した言葉は、しかし静雄に届くことはない。重い一歩を踏み出した静雄が纏う雰囲気は、先刻までの穏やかさとすっかり乖離していた。どす黒い憎悪の感情に包まれた静雄は、拳をギリリと強く握り込んだ瞬間に走り出す。アスファルトが衝撃でひび割れ、砕けていくが今の静雄にそれを気にかける余裕などあるわけがない。

「なんで、手前が……ブクロに居るんだよ…ッ、臨也ぁああああ!!」
「……もう、メシどころじゃねぇな……」

臨也に向かって一直線に向かっていく静雄の背中を遠い目で眺め、トムは静かにその場を後にする。静雄には先に食事をしておくという旨のメールを入れておくしかない。せめて殺しだけはしてくれるなよ―――そう念じながら、トムは結局いつものファーストフード店に消えていく。そんなトムの姿を視界の端に捉えながら、臨也は自らに向かってくる静雄に大きく手を広げた。

「やぁシズちゃん!奇遇だねぇ」

無邪気に見える笑みを浮かべると、臨也は座っていたガードレールから弾みをつけて飛び降りた。一見すると子どものような所作だったが、折原臨也を知り尽くしている静雄からすればそれは怒りを煽る材料でしかない。握った拳を容赦なく叩き込もうとするが、間一髪でひらりと避けた臨也に当たることはなかった。静雄の拳はガードレールを真っ二つに分断した上でアスファルトにめり込ませる。

「おぉ怖い怖い、可哀想に。ガードレールが真っ二つだ」
「手前は人間だけじゃ飽き足らずガードレールまで愛してんのか?あァ!?」
「やだなぁ、シズちゃんったら嫉妬してるの?そもそも俺は化け物である君に興味なんかないよ、っと」

尚も繰り出される静雄の重い拳を一つ残らず綺麗に回避し、臨也は無邪気だった笑みの中に嘲りを孕ませる。店のネオン看板に飛び乗ると、そこから静雄を見下ろした。真っ赤な瞳がギラリと輝き、剣呑な色を奥に滲ませる。

「まぁ、俺に無機物を愛す趣味なんてないけどね」

臨也の視線に煽られ、静雄は細めのポールを捻じり切って構えた。ネオン看板から飛び降りて走り出した臨也目がけて何度も振り下ろすが、背中に目がついているのかというレベルで避けられてしまう。

「相変わらず君のコントロールは滅茶苦茶だね」
「うるせえ!黙ってろ!」
「そんな数打ちゃ当たる戦法ばかりしているから、君の脳味噌はどんどん退化してるんじゃないかな?化け物らしくてお似合いだよ」
「うっせぇんだよ!手前、大体今日はなんで来たんだよッ!!」
「あ、リボン千切れてるよ?幽くんに貰った大事なバーテン服の一部でしょ?」
「ッ、……人の話を、聞きやがれぇえええ!!」

話が噛み合う気配が無いことに苛立ち、静雄は臨也の襟首を掴もうとする。しかし静雄の伸ばした手は軽々と避けられてしまい、それは叶うことがなかった。掴み損ねたことで減速した静雄を振り返り、臨也は涼しい顔で微笑む。うっそりと細められた瞳に浮かぶのは愉悦だ。

「話聞かないのはシズちゃんの方でしょ?本当に単細胞だね」

嘲る声の主をゆっくりと見上げ、静雄は長く細く息を吐き出した。沸騰しそうな激情を必死に抑えつける静雄を眺めながら、臨也は僅かに眉を上げる。珍しく感情を制御しようとする静雄が意外だったのだろう。

「…………手前、今日は何で来たんだよ?」
「は?電車に決まってるじゃん」
「そうじゃねぇ!」
「徒歩だと疲れちゃうよ」
「そうじゃねぇって言って―――」

ずれた返答をしてくる臨也を静雄は怒鳴りつける。その瞬間、バチリと合わさった瞳が弧を描いていることに気付いた。静雄の中で何かがブチリと切れる音が聞こえる。全身の血液が沸騰しそうに熱くなる。

「テメェ…!からかったなぁ!?」
「えー?何のことを言ってるのか分からないなぁ」

激昂した静雄がポストをへこませるのを眺めながら、臨也は笑みを深くする。耳障りな笑い声を上げる臨也は実に楽しそうだ。静雄は怒りに任せてガードレールを引き抜こうとする。地面のコンクリートがミチミチと嫌な音を立てて盛り上がっていく。

「ガードレールは嫌だなぁ。当たるとめちゃくちゃ痛いんだよ?」
「お前の意見なんざ知るか!手前を痛めつけるためにやってんだから、嫌がることするに決まってんだろうが」
「うわー、シズちゃん最悪。ドS!鬼畜!」
「手前だけには言われたくねぇよ……クソノミ蟲がぁッ!!」

そう叫ぶと同時に静雄は引き抜いたガードレールを大きく振りかぶる。フルスイングされたそれをギリギリで避けた臨也は、あまつさえウインクをしながら跳ねるように走り出す。

「ひっどーい!なっ、と」
「避けんじゃねぇえええええ!!」
「無茶言わないでよ。俺、ほんとに死んじゃうよ」
「殺そうとしてんだッ!」
「あっそ」

肩を竦めながら隠しポケットからナイフを取り出し、臨也は手中で弄ぶ。太陽の光に照らされ、鋭利な刃が不穏にぎらりと輝いた。やがて、それを静雄に真っ直ぐ突き付けて首を傾げてみせる。

「……ねぇ、シズちゃんさぁ」
「あァ!?」
「今日来た理由、教えてあげようか」
「―――…は?」
「俺ね、シズちゃんに……」

臨也の薄い唇はそこで閉じられ、続く言葉を静雄が聞くことは叶わない。僅かに俯いた臨也の表情は伺い知れず、静雄は焦れて舌打ちを漏らす。手にしていたガードレールを投げ捨てて一歩踏み出した瞬間、突き付けられたままだったナイフが煌めいた。素早く軌道を描きながら投擲されたそれは、静雄の胸元に投擲される。静雄の強固な胸板に刺さることはなかったが、表面の皮膚が削がれたことで鮮血がアスファルトに滴り落ちる。真っ白なシャツと黒いベストが真っ赤な血で染まっていき、それを見下ろした静雄の目は大きく見開かれた。弟からの贈り物であるバーテン服を斬りつけられたばかりか、自らの血で汚したことで静雄の怒りは頂点に達する。

「なーんてね。俺を捕まえられたら教えてあげるよ。お馬鹿なシズちゃん!」

しかし、次の瞬間に告げられた臨也の言葉で静雄の頭は空白に満たされる。言葉の意味を瞬時に理解出来なかった静雄が瞠目している隙に臨也は路地裏へと逃げ込み、薄闇に姿を消した。やがて我に返った静雄は、消えた黒いコートの背中を追い掛けて走り出す。静雄の怒りはとうに限界を超えていた。

「上等だ!!捕まえてやるぜ、臨也くんよぉおおおお!!」

リミッターをぶち壊した男の咆哮が池袋の街に轟き渡る。薄闇に身を潜めながら、臨也は狂ったような笑い声を上げた。蜜を舐め取るように乾いた唇を舐め、仇敵の意識が全て自分だけに注がれていることを全身で感じ取る。甘美な震えで身体が満たされていく感覚を噛み締めながら、傲慢な愛の言葉を舌に乗せて吐露する。

「……愛しているよ、愚かな化け物」

その先で生まれる混沌を夢想し、愉しげに嗤いながら。


end.



title by moss




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