椿
いつか 見た
あの日の
君 の ような 、
椿 「追いかけようなんて思ったら、殺してやるからね」
いつものように、頬に小憎らしいほど見事な笑みを浮かべて。
今になって、その頬が以前より細く、白くなっていたことに気付いたのに。
今思えば、あの言葉が彼の精一杯の強がりだったのだと。
気付いた、けれど。
もう、それも遅い。
もう、戻れはしない過去の話。
「何、しに来たの?」
床に就くことが多くなった総司の部屋を訪れ、障子を開けると共にいつも投げかけられる言葉は酷くつれない、冷たい言葉。
言葉は、拒絶そのものなのに。
…ならば。
何故その頬に、そんなにも穏やかな笑みを浮かべていると言うのか。
「…見舞いだ」
「監視じゃなくて?…そんなの要らないよ、ほら、見てる通りちゃんと寝てるんだから」
「…見舞いだと言っている」
少しだけ強い口調で言うと、何やら不服そうな表情を浮かべて総司は押し黙った。
言った通り、珍しく大人しく寝ている総司の額に手を伸ばす。
前髪を指先で掻き分けて、額に掌を合わせた。
熱い。
掌から伝わるその熱さに、大人しく寝ている理由を悟った。
気怠いのだ。
少し身体を動かすことすらも。
総司の胸に巣食った病は、じわじわと、けれど着実にその毒で総司の身体を蝕んでいるのだ。
新選組の剣になると、いつか言った総司であったが、心だけは折れていないが故に言うことを聞かない己の身体に苛付いて仕方ないだろう。
それでも。
静かに身体を床に就かせていると言う、この冷酷な現実。
必死に目を逸らそうとしていた現実を見せ付けられたようで、ひとりそっと眉を寄せる。
「熱がある。…何故冷やしていない」
「すぐに温くなって逆に気持ち悪いんだ」
総司の小さな言い訳に、小さくため息をつき、手桶の中に沈んだままの手拭を手に取った。
手桶の中の水はまだ冷たい。
その温度を確かめて、きつく絞った手拭を総司の額に当てた。
額に触れた冷たい感触はやはり心地良かったのか、総司の口唇から安らかな細い吐息が零れる。
なのに。
「すぐに温くなって気持ち悪い、って言ったばかりなんだけど」
続いて口から出るのは悪態だ。
それだけまだ元気なのか、…それともおかしい思案などさせぬようにの強がりなのか、ともすれば両方なのかもしれないが、その真意は知れない。
「…眠るまで傍に居る」
低く言えば、総司は翡翠の瞳を僅かに瞠目させて、それから頬を歪めるように笑った。
いつも見る、彼の笑い方だ。
それを見て、心から楽しそうに笑う総司を見たのはどれほど前のことか、などと思案しかけて止めた。
「新選組の幹部ってのはさ、そんなに暇な訳?」
「…先ほど見廻りを終えて帰所したところだ。暇ではない」
「なら、いつもの愛刀の手入れをしてさっさと身体を休めなよ。病人のところに来て時間を潰すなんて勿体ないことをしちゃ駄目だよ」
言うと、止める腕が間に合う前に総司はゆっくりと布団から身を起こして、先ほど額に乗せたばかりの手拭を握り締めて見せた。
「俺が決めて此処に来ている。お前に非番の過ごし方をどうこう言われる筋合いはない」
見知らぬ人が聞けば、ただただ冷酷な言葉にしか聞こえない言葉であったろうが。
だが。総司はその声を聞くと、肩を小さく揺らして笑った。
「一くんは、たまに驚くほど優しいよねぇ」
矢張りと言うか。
総司には、冷酷な言葉には聞こえていないようだった。
たまに、と言う言葉は余計だと、言いかけて止める。
何が其処まで可笑しいのか、総司は暫く肩を揺らして笑い続けて。
そんなに笑うとまた咳が出ると、言いかけたところで。
「あのさぁ、…弱ってる人間に、」
低い、総司の声。
「優しくなんか、しないでよね、一くん」
何かを押し殺したような声が。
そよぐ風のように、耳を掠めた。
そのまま、少し押し黙る。
「…総、」
「忘れられなく、なるじゃない」
名を呼んだ声に重なるように、僅かに揺れた声が届いた。
「…死にたくないって、……」
まるで、唸るように。静かに。
言葉を、綴る。
「……離れたくないって、…思うじゃない」
ぎり、と。
音が鳴るのではないかと言うほど、掌に包んだ手拭をきつく握り締めながら。
俯いて、歪んだ笑顔で虚勢を張る彼は儚い言葉を口にした。
「…総司」
「ねぇ、一くん」
わざとか、と言いたくなるような調子で、総司は言葉を重ねて。
「僕のあとを、追いかけようなんて思ったら、殺してやるからね」
言ってから、あぁ、君はそんなに僕のことを好いてはいなかったよね、と独り言のように続けるのだ。
お前の仮定の話では、そう俺が思う頃にはこの世にはお前は居ないというのに。
それでも。
お前はその手で、俺を殺すと。
そう、言うのか。
残酷な言葉の裏に、残酷な程の優しささえ込めて。
「だからさ、君は、生きるんだよ」
俯いた顔がゆっくりと上げられて、真正面から見つめられた。
「一くんは、ちゃんと幸せに長生きするんだよ」
眼前の頬に浮かぶのは、いつもの歪んだ笑みではなく。
寂しささえ窺わせる、そんな。
「先に居なくなる僕のことなんか、忘れてしまえばいい」
----------儚い、笑み。
「でもさ、」
言葉を挟むことさえ許さぬと言うように矢継ぎ早に綴られる言葉に、ただ静かに耳を傾けることしか出来なかった。
「僕の死んだ日だけは、そっと思い出してくれる?」
不意に投げかけられた言葉に、弾かれたように顔を上げると、翡翠の瞳が静かに見つめていた。
「手を合わせたりとか、花を手向けたりとか、…そんなことは要らない。……ただ、思い出すだけでいい」
目を逸らすことさえ許されぬ、張り詰めた空気。
「泣いたら、赦さないよ」
そう、言って。
総司は、翡翠の瞳を細めて泣きそうに笑った。
「ね、約束」
細くなった小指を差し出して来て、幼子(おさなご)がするような約束の仕方を強請る。
そんな、幼子のような仕草で。
何より残酷な約束を交わそうとするのは何故だ。
気付いていないのだろう。
翡翠の瞳が、泣きそうに引き歪んでいることにさえ。
必死に強がって、必死に笑って、本心を隠し続けることでしか強く在り続けられなかったお前の、精一杯の、最期の強がりさえ、いとしいと思うのに。
差し出される手に向かって、腕を伸ばす。
無理矢理に交わそうとする約束に、応じると思ったのか。
俺の仕草に総司は、差し伸ばされた手を見て笑う。
細くなった腕を掴んで、引き寄せた。
不意のことに、目の前の身体は容易に体勢を崩して胸の中に飛び込んで来た。
抱きとめた身体が、記憶にあるものよりも更に細くなっていることに気付いてそっと眉を寄せる。
「…どうしたの、一くん」
さして驚いた様子もないことに、少しの苛立ちを感じるのは何故なのか。
まるで己の行動の全てはお見通しであるとでも言うのだろうか。
「君はさ、律義過ぎるくらい約束を守る男でしょ」
まるで茶化すような言葉に、腹の奥が重くなる。
けれどそれは怒りではない。
「…守ると誓えぬ約束もある」
応(いら)えを返して、初めてそれが悲しみなのだと気付いた。
嗚呼、この男は分かっているのだろうか。
今、どれだけ自分が残酷なことを告げているのかを。
「一くん」
「無理難題ばかり言うな」
言って、胸の内に抱く両腕に力を込めた。
腕の中の身体は、特別嫌がる素振りもなくただ静かにこの腕に身を預けている。
「ねぇ一くん、…僕、言ったよね?」
腕に抱く身体が、静かに口を開いた。
「優しくしないでよ、って」
その、声が。
震えていると、思うのはただの思い違いか。
いつも余裕に満ち溢れているくせに。
この腕の中に居る時だけは何故、そんなにも揺らいだ瞳を見せると言うのだ。
「忘れられなくなるからか」
静かに問えば、微かに腕の中の身体が揺れた。
「死にたくないと、思うからか」
頑ななまでに、押し黙って。
湧き出す感情を押し殺すように、ただ小さく肩を震わせて総司は僅かに俯いた。
「…離れたくないと思うからか」
嗚呼。
「…思うな」
何故、届かない。
「思わなくていい」
想い、願うことは恐らくは同じものだと言うことが。
「…離れてゆくな」
まるで、祈るように。
「生きろ」
耳元に口唇を寄せ、低く呟いた。
「……は、ははっ」
乾いた、笑い声が鼓膜を震わせる。
「…どっちが、無理難題を言ってるか分かってる?」
「俺は、無理難題など言っていない」
「言ってるよ」
少し強い語調が聞こえてきたかと思うと、腕の中で翡翠が鋭く光った。
「ねぇ、分かってるだろ?僕は、死ぬんだよ」
まるで、触れれば切れる抜き身の刀のように。
「君より先に、確実に」
小さな願いさえ、赦さぬのだと。
「君を置いて」
無残な現実を眼前に突き付ける。
「僕は、居なくなるんだ」
投げ付けられる言葉も想いも全て、零れ落とさぬよう、抱き締める腕に力を込める。
伝わった力が強かったのか、総司が小さく呼吸を詰めた。
「…分かっている」
噛み締めるように低く、言って。
そして改めて実感する。
近いこの先に、確かにこの身体は己の前から姿を消すのだと。
知らず込み上げた身震いのまま、更に強く掻き擁いた。
苦しいとでも文句が飛んで来るかと思ったが、それさえなく。
驚くほど静かに、ただ総司は腕に身を寄せて。
「分かってるなら、」
「分かっているから、…だから、離れるなと言っている」
言って、真正面から見つめると翡翠が揺れた。
そして、歪む。
「…言ってることが、無茶苦茶だって自覚ある?」
「…ないな」
告げると、総司は声を上げて笑った。
酷く、可笑しそうに。
心から可笑しいとでも言うように。
笑った。
「…だから、僕は一くんのことが好きだった」
目の前には、久しく見ていないと思っていた笑顔。
「…知らなかったでしょ?」
「……知っていた」
翡翠の瞳がそっと細められて淡い笑みを浮かべると、頬に睫毛が影を落とす。
その頬に、一筋。
雫を流れ落とす前の翡翠の瞳の色を、決して忘れぬだろうと思った。
花は桜木、人は武士、などとよく言ったものだ。
戦の合間、身を潜めた屋敷の庭に積もる白い雪に、鮮やかな紅(あか)。
雪の上に落ちる、椿を見下ろして嘲笑った。
------------椿は、彼の人を思い出させる。
桜は潔く散る、などと。言うけれど。
枯れることなく、散ることなく、咲いたまま落ちる椿こそ、武士の姿ではないか。
咲き乱れ、ぽとりと落ちて。
その姿を、この瞳に焼き付けさせるのだ。
はらはらと、ひらひらと、舞い散りゆくことも知らず。
ただ鮮やかに、魅入る人間にその姿を焼き付けて。
「忘れるものか」
静かに雪が降る空の下、立ち尽くして。
灰色の空を見上げる。
「…忘れられるものか」
凍えた頬に落ちた雪が、
とけて 音もなく流れ落ちた。
終
斎沖
この想いもいつか、
あの花のように
枯れることなく 落ちれば、
遠い お前まで
届くだろうか。