眩暈 上







どんなに焦がれても

届かない



まるで 眩暈にも似た

この 想いは



一体 どこへ

辿り着くのだろう...













 暈










土方は自室に篭り、たまりにたまった報告書に一枚一枚目を通していた。

「昼の稽古もそろそろ終わるな」

ひとり呟いた。

もう何刻くらいこうしているのかと思いながら、背を軽く伸ばした瞬間のこと。

にわかに部屋の外が騒がしくなる。

稽古が終わったのかと、そう思って新しい報告書に手を伸ばしかけて。

何やら外の様子がおかしい。

「…うるせぇな」

低く舌打ちをし、文机に手を置きその手で体重を支えながらゆっくりと立ち上がる。

頭を掻きながら障子に歩いてゆき、障子に手を掛けスラッと開いた瞬間。

すごい勢いで原田が廊下を駆け抜けて行く。その後ろに藤堂が続いて。

「うるせぇぞお前ら!走るんじゃねぇ!」

眉を寄せて怒気を含めた声で土方が言った。

と同時に、二人を追うように永倉が廊下を走って来る。永倉のすぐ後ろには斎藤。

その腕の中に。

「…総司?」

明らかにぐったりとした様子で、斎藤に抱かれている身体に声を掛けた。

ほんの少し見えた総司の頬は、真っ青で。

斎藤は土方に軽く会釈して土方の部屋の前を走り過ぎる。

斎藤の姿を見送っていると、永倉が土方の前に立ち止まり早口に言った。

「土方さん、総司が倒れた」

「何?」

「稽古が終わって俺達と井戸端で話してた時に…突然」

永倉の言葉を聞きながら、先程の総司の頬の白さを思い出す。

詳しいことは後から、と言いたそうな永倉の背を押し土方は廊下を早足で歩き出した。

皆が走って行った、総司の部屋の方へ向かう。

「稽古はやっていやがったのか」

「あぁ、いつも通りにやってた。特別おかしいところは何も無かったんだが」

曲がり角を曲がって、しばらく真っ直ぐ歩き総司の部屋の前で立ち止まる。

障子を開け放つ。

布団に寝かされた総司を覗き込むように、斎藤と原田がその横顔を見つめている後姿が目に入った。

土方はゆっくりと部屋の中に足を踏み入れ、斎藤と原田の座る逆側に回り腰を下ろす。

「平助は?」

永倉が土方の隣に座りながら言った。

「井戸だ。水を汲みに行っている」

原田が視線を上げ永倉を見、口を開く。

総司が寝かされている布団を見て、土方はこの布団は先を走って行った原田と藤堂が引いたものだと思う。

さすがと言うべきか、試衛館時代からのこの仲間達は行動力があり、無骨そうに見えてなかなか気が利くのだ。

先程の彼らの急いでいる理由を改めて理解して土方は吐息を付いた。

土方は、真っ青な顔に手を伸ばしその頬にそっと触れた。

顔には血の気が無いのにも関わらずその頬は驚くほどに熱い。

「…総司」

返事は無いと分かってはいたが、声を掛けて。それから軽く眉を寄せた。

藤堂が水を汲んだ桶を片手に部屋に戻って来る。

総司の枕元に座る斎藤にそれを手渡して、原田の横に座った。

斎藤はその桶の中に手拭いを浸し固く絞ってから総司の額の上にかかった前髪を掻き上げそれを置く。

「昨日辺りから、夜に咳をしたりしていたのだが…」

呟くように言うのは斎藤。総司の相部屋の相手である。

それを受けて口を開いたのは永倉。

「昔から総司の奴は身体が丈夫な方ではないからな」

自然と、視線は土方の方に集まる。土方はそれに気付き皆を見回した。

「近藤さんに話して、医者を呼んで来る。お前ら、手間ぁかけたな」

「そんな水臭ぇ言い方するもんじゃあねぇよ土方さん」

白い歯を見せて笑う原田を見て土方は立ち上がる。

「…そうだな、すまない」

ふいと瞳を逸らした土方を見て、永倉は一瞬江戸にいた頃の彼を思い出しそっと微笑んだ。

そのまま出て行ってしまった土方を見送って、部屋に残された四人は黙り込み総司を見つめる。

「こんな大人数で見られてちゃあ総司もたまったもんじゃねぇな。あとは斎藤に任せて俺達も退散するか」

原田の言葉に永倉と藤堂は頷き、部屋を辞した。

斎藤は、ひとつ軽いため息をつき、先程土方がしていたのと同じように手を総司の頬に伸ばして白い頬に触れてみた。…熱い。

手を引っ込めようとした瞬間、総司の睫毛が揺れて瞳がゆっくりと開かれる。

何も無かったかのように手を自分の膝に納め、総司の顔を覗き込んだ。

「…あれ…--------」

掠れた声。ゆっくり合っていく焦点の中で、総司は枕元に座る人の顔を確認した。

「…一さん…?」

その呼び掛けに声は出さずに、頷いて答えた。

掛け布団の胸の辺りに優しく手を置いて、口を開く。

「稽古の後に倒れたんだ。このまま寝ていろ」

「倒れたんですか…私…」

「あぁ、そうだ。昨日から咳をしていただろう?無理がたたったんじゃないのか」

斎藤を見て総司が笑う。

「何となく覚えてます…一さんがここまで運んでくれたんでしょう?」

すっかり意識が無いものだと思っていたために、その総司の言葉に斎藤は正直驚いていた。

「意識があったのか」

「ごめんなさい、だって何だか一さんだったから…すごく安心しちゃって」

見上げて来る総司の視線から瞳を逸らして斎藤は俯いた。

“一さんだったから”

その言葉に内心斎藤は苦笑する。こんな言葉一つでまともに顔さえも見られなくなる馬鹿な自分が居た。

--------可笑しくて涙が出る。

「医者が来る…静かに寝ていることだな」

「嫌だな…平気なのに」

「お前の“平気”と言う言葉ほど当てにならんものは無いからな--------寝ろ」

「…敵わないなぁ、一さんには」

微笑みながら言って、総司はゆっくりとその瞳を閉じる。それを視線の端で確認して。

総司の横顔に瞳を戻す。

「…その言葉…そのまま…返すよ」

口の中で呟いた。総司には聞こえないほどの低い呟き。

掛け布団をそっと肩まで掛け直してやる。

「一さん…?」

瞳を閉じたままで、総司が呼び掛けた。心なしか揺れた声音に苦笑する。

「どうした」

知らずといつもよりも穏やかになっている自分の口調に、斎藤は内心舌を巻きながら答えた。

一瞬の間があって。それから。

「私が眠るまででいいから…傍に居てくれませんか…?」

瞳をゆっくり開いておずおずと自分を見つめてくる総司に斎藤は軽く瞠目し、それから頬に淡く笑みを浮かべて見せた。

「病人は余計な心配せずにさっさと寝るんだ」

斎藤は言葉少なくそう言うと、総司の顔に手を伸ばしその目元をそっと覆ってしまう。

総司の瞳が掌の下で閉じたのが分かる。長い睫毛が斎藤の大きな掌をくすぐった。

手を総司の目元から離し、斎藤は一度座り直す。そっと傍に横たわる身体を見つめた。

瞳を閉じた横顔に目をやる。

大きな瞳を縁取る睫毛、そして透き通るような白い頬。

よく通った鼻筋のその下に続く口唇は紅くふっくらとしている。

一見して剣客とは思えないその容貌。

横顔を見つめ、斎藤は初めて江戸の試衛館道場で総司を見た時のことをふと思い出していた。













「師範代の沖田宗次郎と申します」

昔、斎藤が山口一と名乗っていた頃の話。

言って、前に歩み出てきたのは自分と年端も変わらぬ、もしかすると年下のような男だった。

一目見た瞬間に、斎藤は“華奢だな”、ただそれだけを最初に思った。

しかし無表情のままに斎藤は一言だけ言う。

「山口一と申します」

斎藤の声に、総司はにっこりと笑った。何だかとても楽しそうな表情。

「役不足かと存じますが、お手合わせ願います」

言葉は発せずに、斎藤はただ頷く。

それを見て総司はさらに斎藤に歩み寄り、道場の真ん中へと彼を促した。

三代目の周斎が立ち上がり審判役を務めると無言で表明する。

「試合は三本勝負」

周斎の低いがよく通る声が道場内にこだまする。

向かい合い、木刀を構えた。刹那、切れるように冴え渡る空気。

心地良いと山口は思った。そして真正面に立つ男を見据える。

先程とは打って違う、鋭い光が瞳に宿っているのを見て斎藤は知らずと心の中で笑っていた。

息を吸い込み、細く口から吐き出す。



「始め!」

周斎の気合に満ちた声が響く。

二人は微動だにせず、木刀を構え見つめ合った。







「山口さんっ」

井戸を借りて汗を流そうと道場を後にする斎藤に駆け寄って来るのは先程試合った総司だ。

斎藤に並んで歩いて、総司は微笑みながら話し出す。

「山口さん、とても強いですねっ。試合、楽しかったです」

とても強いと言いながらも、総司はこの試合に勝ったのだ。

三本中、一本目と三本目を制して。

「…あんたの方が強い」

井戸端に行き、斎藤は胴衣を脱ぐ。言葉少ない斎藤を、総司はじっと見つめてきた。

「しかし久々に楽しい試合が出来た…礼を言う」

斎藤がそう言うと、総司は嬉しそうに瞳を細めて人懐っこく微笑んだ。

「良かった。同じく思っていて」

見たことの無いような、無邪気な微笑み。

斎藤は呼吸を詰めた。

--------不思議な奴だ。それだけ思うので精一杯だった。

水を汲み上げ、手拭いを浸し汗を拭う。総司も水を汲み、斎藤と同じようにした。

胴衣を脱いだ総司の身体は、第一印象通りに華奢で。

剣術をやっている分、いくらかの筋肉は見られるが凡そ剣客らしいそれも見られない。

この身体の内に秘められた剣の才を思い、斎藤は一瞬背筋を寒くする。

自分の剣の技を驕ったことは一度も無いが、懸命に修行し免許皆伝まで到達した己なりの自信や誇りはあった。

それを打ち砕かれた訳では無い。むしろ新鮮な衝撃を覚えている自分に斎藤は正直驚いた。

試合で、ここまで心躍るものが出来るなんて。己の中の剣客の血が、騒ぐのが分かる。

剣に対する、どこかで忘れかけていた熱情が蘇る。

「また…試合いたいですね」

総司の声に、ふと肩を揺らす。声の方を見れば、先程と同じ無邪気な微笑がある。

斎藤の頬にも、淡い微笑が浮かんだ。

「今度は負けないさ」

話し込んでいたら、道場の四代目である近藤勇が井戸端に降りて来た。

近藤は総司に笑い掛け、それから斎藤の方にも同じく笑い掛ける。

近藤の頬には、厳つい容貌からは思いも付かない人の良い笑顔が浮かんでいる。

笑うと、片方の頬に笑窪が出来た。

「山口君、見事な試合だった。無外流の免許皆伝と聞いたが、いや誠に素晴らしい腕だ」

総司と互角に渡り合った試合を出来る者は、すでにこの道場では限られるまでに総司の腕は到達していた。その総司と互角に戦えた斎藤の剣技は、近藤の目にも印象強く残ったらしい。

「まだ修行不足だと実感致しました。そこで折り入って某、お願い致たきことが」

軽く頭を下げて斎藤が言う。

近藤は大きな口を開けて笑い、斎藤の肩を叩きながら言葉を促した。

「堅苦しい言葉は不要。何であろうか」

「ご迷惑で無ければ、こちらの道場で某も剣術に励みたいと心に強く思いました」

斎藤の言葉に、近藤の顔が明るくなる。総司も一緒に微笑んだ。

発せられた言葉に驚く素振りは見せず、むしろその言葉を予想していたかのような近藤の言葉。

「本当か、山口君。その言葉嬉しい限りだ。我が試衛館には様々な流派を修めた剣客達がたくさん居座っておる。志は皆同じだ、共に励もうではないか。なぁ宗次郎」

「はい、若先生」

近藤を見上げて総司が言う。近藤は頷きながら総司の頭に手をやり撫でるような仕草をする。

まるで年の近い親子だ。

「ありがとうございます」

斎藤は深々と礼をした。

その斎藤の肩を近藤は痛いくらいに叩いて満足そうに声を上げて笑う。

「宗次郎、お前も嬉しかろう。良い仲間が増えたな」

「はい!」

本当に嬉しそうに笑って頷く総司を斎藤は見つめる。

「山口さん、これからよろしくお願いしますね」

笑い掛けてきた頬に光る水の雫が眩しくて、斎藤は軽く瞳を細めた。

「…こちらこそ」

差し出された手を、握り返す。

驚くほどに小さなその手は、内に秘め閉じ込めた何かを抑えきれないかのように熱かった。









胡坐をかいた自分の膝の上に斎藤は両掌を広げて、その掌を見つめる。

握り締めると、あの時の総司の手の熱さと感触が思い出せるような気がした。

「随分昔のことを…」

思い出している自分に嘲笑う。

今掌に残るのは、先程抱きかかえて来た総司の細い身体の感触と熱さ。

想像していた以上に細く軽かった身体に、斎藤は心の底から驚いたのだ。

暫くの間斎藤は物思いに耽っていたのか、総司の口からはすでに安らかな寝息が漏れている。

先程の総司の言葉を思い出す。



“私が眠るまででいいから傍に居てくれませんか”



苦笑する。



「総司--------」


むしろその笑いは自嘲に近いのかも知れない。



「…知らないと言うことは…残酷で…幸せなものだとは思わないか」



呟いて、握り締める拳に力を込めた。











「斎藤」

障子越しに呼ばれ、斎藤は立ち上がり障子を静かに開ける。

廊下に立っていたのは、医者を引き連れた永倉だ。

永倉の横に立っているのは南部精一郎。会津藩医である。

「近藤さんと土方さんが局長室でお前を待ってる。行ってる間俺が総司を見てるから…行って来い」

言いながら永倉は医者を部屋の中に促し自分もその後に続いて入る。斎藤が出て行くために障子は閉めなかった。

斎藤は入って来た医者に目礼した。南部もそれに応える。

「分かった…行って来る」

斎藤の言葉に永倉は無言で頷き南部の向かいに座ろうと総司の足元を回って行く。

枕元を回って奥へ行かない永倉の何気ない気配りに斎藤は内心笑い、部屋を出た。







「失礼します、斎藤です」

廊下で膝を付き、障子越しに声を掛けた。

「おぉ斎藤君。入ってくれ」

近藤の声を待ち、一寸置いて障子を開ける。

近藤は部屋の中のいつもの定位置に堂々と座っている。

土方は近藤の横、部屋の奥の襖に背を向け座っており、入って来た斎藤を見た。

「お待たせ致しました」

一言置いて、斎藤は襖に背を向けて座っている土方の遠く向かいに座る状態で正座した。

「突然の呼び出しですまんな。総司のことなんだが」

近藤がゆっくりと口を開く。

「巷では今風邪が流行っているらしい。隊内では全く見掛けぬが…多分総司の奴も風邪だろう。南部先生に詳しくは診て頂くが、暫く休養させようと思っている。そこで手間を掛けるが同室の君に総司の面倒を見てもらいたいのだ」

斎藤は近藤の顔を見つめた。視界の端に入る土方からの視線を感じる。

「手間など…。出来る限り務めさせて頂きます」

「総司の同室が君で心強い限りだ。永倉や原田も心配しているようだが…この通り隊務も忙しい。すまないが、よろしく頼む」

そう言って頭を下げる近藤に、斎藤は先程思い出した試衛館時代の穏やかな笑顔の影を見た。

「やめて下さい、局長。今更そのような他人行儀なことを仰らずとも」

「そうか。どうもわしは総司のこととなるとこうでいかんな…幼い頃から身体の強くない総司が心配で仕方ないのだ」

この、近藤の総司に対する愛情は昔から見てきて身に染みて分かっている。

幼い頃から同じ屋根の下で育った十も離れたこの愛弟子が愛しくて大切で仕方ないのだ。

まるで親が子を慈しむように、子が親を慕うように、そんな風に接して来ていた二人だから。

斎藤の向かいに座り怒ったような表情を浮かべている土方も、それは例外では無く。

「お察し致します」

「呼んだのは以上のことを君に頼みたくてな。暫く、総司を頼む」

「承知致しました」

部屋を辞そうとする斎藤に、初めて土方が口を開く。

「斎藤」

「…は」

障子に手を掛けた身体をもう一度土方に向かって姿勢を正し顔を見据える。

「大丈夫だとは思うが何か変わりがあったらすぐ知らせてくれ…いいな」

「はい」

言葉少なく答え、斎藤は一度二人に座礼して部屋を辞した。







長く続く廊下を自室に向かって歩く。

遠く、咳き込むのが聞こえてくる。総司だろう。

部屋の前で立ち止まった。

「入るぞ」

一言声を掛けて斎藤は部屋に入る。

まだ診察中だったようで、南部が総司を念入りに診ていた。

心配そうな表情で総司と、彼を診る南部を見つめる永倉の横に斎藤は座った。

「この所微熱が続いたり、咳が出たり身体がだるかったり…そんなことはないかね?」

道具を収めながら南部が総司に問うた。

総司は一瞬首を傾げて考える素振りをし、それから明るく笑って言う。

「まったくありません。元気に過ごしています」

透き通る総司の声に南部は苦笑し、それからひとつため息を吐いた。

「暫くは安静になさることだ。高熱が出るやも知れぬがその際は汗をかいた寝着はこまめに取り替えること。水分は多めに取ること。…よろしいな?」

優しい口調で総司に言う南部を斎藤は見た。永倉も神妙な顔つきになって南部を見る。

「はい、分かりました」

そんな二人も気にせず総司はにこやかに応える。

「数日分の薬は処方する…が、何かあればここにお出でなさい。わしの一番弟子の開く診療所だ。わしもよくここにおる。一度お出でになられるがよろしい」

真っ直ぐに見つめてくる南部の真摯な瞳から瞳を逸らさずに総司はその視線を受け止めた。

「はい」

素直に頷く総司に南部は幾分か表情を和らげて、往診箱の中から薬包みと一枚の紙を取り出しそれを枕元にある盆の上に置く。

「では、本日はこれで」

言って立ち上がろうとする南部を見て、永倉が腰を浮かし南部の傍へと歩み寄る。

「では局長室へご案内致します」

「うむ。…では沖田君、お大事にな」

「ありがとうございました」

着物の襟を直していた手を止め、立ち上がった南部に笑い掛ける。

南部はその笑顔を見て穏やかに笑い返し、そのまま永倉と共に部屋を出た。







二人を見送った総司の口からため息が零れる。斎藤は総司の顔を覗き込んだ。

「横になったらどうだ」

永倉が座っていた場所に移動しながら、斎藤は低く告げる。枕元に座り直した斎藤を見つめて総司が苦笑する。

「ずっと寝てたら腰が痛くなってしまうんですよ…暫く起きていても良いでしょう?」

「熱はないのか」

「平気です」

「嘘をつけ…頬が紅い」

斎藤は言いながら総司のいつもより上気した頬に手を伸ばす。--------熱い。

「熱いじゃないか」

ため息混じりに、斎藤は軽く総司を睨み付けて言った。

「総司」

「はい?」

「さっき…どうして嘘をついた」

「さっき?」

「南部先生の質問にだ。お前、最近咳をよくするだろう」

斎藤の指摘に、総司はただ黙って彼を見つめ返した。斎藤も、真っ直ぐに見つめ返す。

一瞬の沈黙。

「昔から、結構咳はするんですよ…だから」

「ならばなおのことだ。なぜ言わなかった」

「…すみません」

「謝って欲しい訳じゃない。…お前が嘘を言うなら今度南部先生がいらした時に俺が言う」

「すみません」

「謝るな」

総司は瞳を逸らして、呟くように小さな声で言った。

「今度は正直に言います…もしも悪い病気だったら、一さんに伝染ってしま…」

「…っ馬鹿!」

普段声を荒げることなど滅多にない斎藤の、怒りを含んだ声に総司は肩を大きく揺らした。

斎藤の手が総司の両肩を少し乱暴に掴む。

「そうじゃないだろう!」

総司の顔のすぐ傍に、斎藤の怒った顔がある。

その斎藤の顔と力に驚いたように、総司は瞠目した。

目の前にある斎藤の顔。

斎藤は一瞬ハッとなったような表情を浮かべてから、口唇を噛み締めた。

初めて見るような斎藤の顔を見て、総司は無言で俯く。

「…そうじゃ…ないだろう…!」

吐き出すように斎藤が言う。次の瞬間、荒々しい力で肩を掴まれたのが嘘のように、総司の身体は柔らかく斎藤の両腕に包まれていた。

そんな言葉が聞きたいのではない。

そんな顔をさせたくて言ったのではない。

どうして、そんな風に。

残酷な言葉を笑顔で呟くのだ。

自分が言える立場では無いけれど。あまりに彼の、己の生への執着がこんなにも薄過ぎることが。

--------恐ろしくなってしまう。

溢れて来た感情を飲み込んで斎藤は瞳を閉じる。

「…ごめんなさい…」

「…謝るなと言っている」

斎藤は総司の身体から離れ、その肩を抱いて布団に横にならせた。

桶の中に入った手拭いを絞り総司の額の上に置く。

「…怒ってます…?」

小さな声で問い掛けてくる総司を斎藤は見て。

「いや」

「本当ですか…?」

「…次に言ったら承知しないぞ」

やっと斎藤の瞳が淡く微笑むのを見て総司の頬が笑みを刻む。

「…はい」

「夕飯まで時間がある。少し眠るといい」

さすがに少し疲れていたのか、総司は軽く頷き瞳を閉じた。

「ねぇ一さん」

「…ちゃんと傍に居るから寝ろ」

瞳を閉じたまま総司は斎藤の言葉に紅い口唇の端を上げる。

「…ありがとう」





吸い込まれるように眠りに落ちた総司はその晩、高熱を出した。









苦しそうに浅い呼吸をする総司の寝顔を斎藤は見つめ、額に浮かぶ汗を拭う。

すっかり温くなった桶の中の水を、永倉が今汲み直しに行ってくれている。

廊下を歩いて来る足音。耳を澄ます。--------剣客としての習慣のようなものだ。

二人、こちらに歩いて来る気配。話し声が微かに聞こえた。

永倉と、土方の声。

「斎藤、入るぞ」

永倉の声だ。障子が開くと、永倉の横に土方が立っている。

髪が濡れている。先に湯を頂いてきたらしい。

「お前達もさっさと入って来い。お前らが終わねぇと隊士達が入れねぇんだ」

永倉の持っている桶を土方は無言で受け取り、部屋に入って来る。

「土方さんが看病?」

永倉が言う。

「あぁ、悪ぃか。お前らが戻ってくるまでだ。さっさと行ってさっさと帰って来い」

ぶっきらぼうな土方の言い方に苦笑しながら、永倉は斎藤の肩に手を掛けた。

「…だそうだ。斎藤、さっと行ってさっと帰って来ようぜ」

永倉に言われて、斎藤は腰を上げる。そして土方を見つめた。

「早く帰って来ねぇと先に部屋に戻るからな」

「分かったって、土方さん。行こうぜ、斎藤」

斎藤は葛篭の中から道具の一式、着替えを取り出すと永倉の脇に立つ。

「では行って参ります」

「おぉ」

土方は総司の枕元に座りそれだけ返してきた。

一度障子を閉める前に斎藤は総司の顔色を見て、それから音を立てずに締め切った。



「俺とお前以外、助勤以上は皆入ったんだってよ」

「…そうか」

廊下を歩きながら他愛もない話をする。

「広々と入れるな、風呂。…風呂に入れねぇ総司には悪いけどな」

「あぁ」

斎藤があまり話さない性格であるのは、永倉は承知の上だ。

試衛館時代の頃からの付き合いでそれに慣れて、斎藤の薄い反応も気にせず話してくる。

「ゆっくり…とはいかねぇが汗流そうや」

廊下の角を曲がり、風呂場に入って行く。

永倉は風呂場につくや否や素早く着物を脱ぎ手拭いを肩に掛け、湯殿に歩いた。

「ったく、土方さんも天邪鬼だよなぁ本当に。実際は自分が一番心配してるくせによ」

言いながら勢い良く湯をかぶり、気持ち良さそうに瞳を細める。

一足遅れて斎藤も中に入り、湯を頭からかぶった。

「その通りだ」

呟くように言った斎藤の言葉に永倉が苦笑する。

「昔みたいに看病したくても隊務だ何だで、結局土方さんがいないと隊が動かねぇと来た、仕方ねぇ」

「最近物騒な話が屯所にたくさん持ち込まれて来ている…指示する土方さんも大変だろう」

「それで少し時間が出来たら看病だ、全く近藤さんと土方さんの総司への甘さには閉口するね」

手早く髪と身体を湯で洗い流し、二人して湯船に浸かる。

「同じ屋根の下でずっと家族同様に過ごして来たんだ、当然と言えば当然か」

「俺から見れば永倉さん達も同じようなものだが?」

「俺達が?」

頷く斎藤を見て、永倉は声を上げて笑った。

「違ぇねぇ。試衛館に居座ってた俺達も近藤さんや土方さんのことは言えねぇってことだ」

斎藤も口唇の端を本当に少しだけ上げて笑う。昔からつるんでいる者達で無いと分からないくらいの表情の変化ではあるけれど。

「ってぇことは、お前も勿論入ってるんだぜ、斎藤」

「俺も…?」

「当然じゃねぇかよ。お前も試衛館にいた同志じゃあねぇか」

人と馴れ合うのが苦手な斎藤ではあるが、“同志”や“仲間”という言葉を発せられても試衛館の者達からならば何故か嫌な気はしない。

「…すまねぇな、さっき聞いちまったんだ俺」

総司の部屋に行こうと、部屋の前まで行ったが斎藤の声が聞こえてそのまま引き返したのだと。

永倉がそう口にした瞬間、斎藤は内心自分を責めた。

「何を話していたのか俺は知らねぇが、でも俺は嬉しかったよ」

「何故」

「何でだろうな…うまく言えねぇが“やっとお前が見れた”って言うか…」

永倉が天井を見つめながら言葉をまとめようと必死なのが分かる。

「あぁ、そうだ、こうだな。お前、結構他人には執着が無いように振舞う奴だったが…でもあんな風に誰かのために、声を荒げたりするお前を知れてきっと俺は嬉しかったんだ」

「…永倉さん」

「…なんてな、この話は終わりだ終わり!よしっ上がろうぜ」

永倉は水面を掌で数回叩いて照れ隠しのような素振りをして見せた後に勢い良く湯船から上がってしまう。

水滴が飛んで来て、斎藤は掌で顔を拭った。

足早に出て行く永倉の背中を見て斎藤は苦笑し、その後ろを歩いた。



「訳の分からねぇこと言ったな、ま、忘れてくれや」

着物に袖を通しながら永倉が言う言葉に、斎藤は首を振る。

「さっきほど…あんた達と共に在って良かったと思ったことは無い」

帯を結う手を止めて、斎藤は永倉を見た。

驚いた表情を浮かべて、永倉も斎藤を見返す。

「だから、忘れない」

真っ直ぐな斎藤の視線に、永倉は瞳を細めて優しく笑う。

「そうか。…なら俺ももう忘れろとは言わない」

言って永倉は帯を手に取り、素早く結った。そして湯殿に歩いていったのと同じように手拭いを肩に掛けてから隣に立つ斎藤の背を少し強く叩いた。

「さ、戻るか」

ニ人着流しで、廊下を歩く。

中庭の池に映る月の影を見て、斎藤は空を仰いだ。--------満月だ。

満月の夜には良い思い出が無い。そう思って、ひとり自嘲う。

「今日の夜の巡回は…左之達か?」

「…あぁ、そうだったはずだな…明日の朝の巡察は永倉さん、あんただろう」

「その通り。この月だと明日は晴天だな、巡察日和だ」

肩を回しながら楽しそうに言う永倉。

「お前は総司の見張り役に徹してな。土産くらい買って帰ってやるよ」

「…土産などいるものか」

「じゃあ可愛い総司にだけ買ってくることにしよう」

話す内に部屋の前に着いた二人は足を止める。

自分の部屋ではあるが、中にはあの副長が居る。静かに声を掛けた。

「戻りました」

中からの返事を待つ。…が、一向に返答は無い。

「土方さん…?」

もう一度声を掛けるが、やはり返事が無い。永倉と斎藤は顔を見合わせた。

永倉は“開けちまえ”と口を動かす。

「入りますよ」

一応もう一度声を掛けて障子を開けると、部屋の中には土方の背があった。

「…土方さん」

呼び掛けて、永倉が土方の後ろから肩越しに総司の方を覗き込む。

永倉は一瞬驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。斎藤はそんな永倉を訝しげに見、土方の逆側の総司の枕元に回った。

座ろうとした瞬間、永倉の表情の変化の理由が分かる。

幾分か苦しそうな表情が和らいだ総司の顔に安堵し、ふと土方の膝元を見る。

胡坐をかいた土方は、膝の辺りに肘を付き両腕を前に投げ出していた。

その、土方の大きな手元。布団から出た総司の右腕。

総司の右手が、まるで縋るように土方の手を軽く握り締めていたのだ。

「土方さん、どうしたのさ、それ」

声を潜めて、永倉が問う。

「さぁな。…こうしていたいらしい」

低く告げる土方を、斎藤は顔を上げて見つめた。

「…ったく。やっぱり土方さんには敵わねぇな」

斎藤は、総司の寝顔を見つめ眉を寄せる。

土方の手に縋る総司の小さい手が、闇の中で白く浮き上がって見えた。

その手を包むかのような、土方の大きな手。

「何言ってやがる。おい永倉、お前明日朝巡察だろうが。さっさと寝ろ」

「ちょっと様子を見に来ただけだからすぐ戻るさ」

その意思の表れか、永倉は土方の背の傍に立ったまま入り口から中には入って来ない。

「…お前らが戻って来たなら俺ももう部屋に戻るぞ」

言って、土方が腰を浮かそうとすると総司の身体が身動ぎした。

「…ん」

そんな総司を見て永倉はまた笑う。

「土方さんの前じゃあ、総司もまだまだガキだね」

永倉の言葉に土方は苦笑を頬に浮かべる。

土方は、自分の手を握り締めてくる総司の手を優しく外し、その手で頬を軽く撫でた。

そのしぐさは、驚くほどに穏やかだ。

「また来てやるから」

苦笑交じりのその囁きも、低く優しい。

「…斎藤、頼むな」

土方は言うと立ち上がった。

「薬は飲ませた。また朝に、お前が飲ませてやってくれ」

斎藤を見て、土方が告げる。静かな声音。

障子のすぐ傍に立つ土方を斎藤は見上げた。

「…分かりました」

その斎藤の言葉を聞き土方は部屋を出る。永倉もそれに続き、障子の外から顔を覗かせた。

「明日な、楽しみに待ってろ。…お前も、布団引いて寝ろよ」

「あぁ」

ゆっくりと障子が閉まる。

突如襲う沈黙。

先程身動いたせいで乱れた布団を掛け直した。

寝返りを打つ総司の、瞼は開かない。

額に乗せられた手拭いを冷やし、再びそれを汗の浮く総司の額に戻す。

それから斎藤は押入れから布団を出しいつもよりも総司の近くにそれを敷いた。

寝転がり、頭の下で両手を組んで総司の寝息に耳を澄ました。

苦しそうではあるが規則正しく繰り返される呼吸音。

ふと障子から微かに差し込んでくる月光に瞳を留め、その目を細める。

さっき見上げた満月に、数年前に江戸で見上げた月が記憶の中で重なった。



あの日も、確かあんな月が出ていた。

江戸をひとり去る自分を、追い掛けて来るかのように見えたのだ。

初めて人を斬り、殺してしまった日。

同じ道場で、共に剣術を学んだ者を、斬った。

申し込まれた試合での出来事とは言え、ひとりの幕臣を斬り殺してしまった罪。

初めて人を斬ったあの、鈍い感触と飛んできた返り血。

背負う罪は、あの頃の自分には重過ぎた。







「今すぐに江戸を発て」

父の言葉のままに、京都の知人の道場に身を寄せることになった自分。

出立の準備をし、家を出たのは夕刻頃だったか。

足は、自然とある場所に向かっていた。初めて気の合う者達と出会ったあの場所。

伸びてゆく自分の影に追われながら、ひたすらそこへと続く道を足早に歩く。

見慣れた、門構え。“天然理心流 試衛館道場”と書かれた看板を見上げる。

中に入ろうとは思わなかった。思えなかった。

ただ、掲げられた看板に手を伸ばす。

「世話になり申した」

呟いて、踵を返す。

周りはすっかり暗くなっていた。

歩きながら、何故中へ入らなかったと己の心が責め立てる。

逃げるのでは無い。逃げたのでは無い。

振り返るな。

そう、繰り返し思いながら。

どうして、あそこへ行こうと思った?何故に。

何をしに行こうと思った?

繰り返す。己への詰問。

そうだ。俺は。







「---------…ッ」

隣で横になっている総司が寝返りを打つ気配。

斎藤は布団から身を起こし、総司を見た。

「…う…っ」

苦しそうに眉を寄せる総司の肩に手をやった。

「総司」

魘されているのか。夢を、見ているのか。

「総司!」

耳元で、名を呼ぶ。

刹那開かれる大きな瞳。目尻には、涙が浮かんで。

「っ…一…さん…?」

揺れた声が、斎藤の名を呼んだ。斎藤はそれに頷いて総司の身体を布団の上から擦ってやる。

「夢を見たのか」

無言で身体を起き上がらせようとする総司を止めようとしたが、斎藤はすっかり起き上がってしまった総司の身体を支えることにした。肩に腕を回すと、総司は斎藤の胸に身を委ねる。

「夢を…見ていました」

「…」

深いため息をつく総司に、あえてどんな夢かは問わない。

「良かった…夢で」

小さな囁き。

総司の吐き出す熱い吐息が、斎藤の胸を擽る。

「…良かった…」

言う総司の指が、徐に斎藤の着物を握り締めた。

「ごめんなさい…少しだけ…このままで」

答える代わりに、もう片方の腕を総司の身体に回す。

安堵の吐息を付きながら、総司がゆっくり瞳を閉じる。

腕から伝わる身体が熱い。

「…お前の気の済むまで」

斎藤の言葉に、総司が淡く微笑んだ。

闇の中の、静寂に包まれた部屋。

暫くして寝息を立て始めた総司の頬にそっと手を伸ばす。





「……」



微かに総司の口が動き、掠れた声が零れる。

消えそうな小さな声だった。

なのに、耳元で囁かれたように耳の奥でそれは響いて。







…土方さん--------







お前の、彼を見る綺麗な瞳を知っている。

彼の、お前を見る穏やかな瞳も知っている。



どんな風に微笑い合って。

--------触れ合って。







お前の想いは知っている。その上での、この想い。

割り切っているはずの、この胸の鈍い痛み。

そうだ、全て知っているはず。







聞こえなければ良かった。







今、この腕の中に望んでやまなかった身体が在るのに。

その口唇は、己とは違う者の名を呼んで。





嘲笑。







傍に居るのは、己なのに。

お前を抱く腕は、己の腕なのに。









「ここに居る」











総司。

あの日、俺は。

お前に、会いに行ったのだ。

訳も無く。

ただ会いたいと。

声を聞きたいと。そう、思って。

…想って。






「…総司」

近いのに、遠い、手の届かない場所に居る身体。

今この腕は、確かにお前を抱いているはずなのに。

感じる温もりは、確かなはずなのに。









届かないなら。

腕に残る温もりも幻だと消してしまおうか。











「ここに居る…」







腕の中の身体を、掻き擁く。

総司の細い肩口に顔を埋め、斎藤は呼吸を詰めた。























---腕に残る温もりを
覚えていたいと想うのは 
愚かなこと?---


「眩暈」-下-へ続く











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