繋ぎとめる糸
いつか、切れてしまう前に。
繋ぎとめる糸 「…は?」
間の抜けた声を出して、斎藤は目の前に座る無表情の土方を見た。
一瞬の沈黙の後に、土方がコホンと軽く咳払いをして。
「だからな、どうなんだと聞いている」
「…何がですか」
真顔で向かい合って座る二人を、もし他の隊士達が見たら一体何が起こったのだろうと思うことだろう。
「…総司に決まっている」
「…は…あの、どうなんだと言うのは…」
「皆まで言わせるな」
頭を掻きながら土方が言う。
何となくこの沈黙が嫌で、斎藤は温くなったお茶に手を伸ばした。
乾いた咽喉の奥を潤すように、ゆっくりとお茶を口に含む--------。
「お前ら、どうなってんだ」
土方の突然の言葉に、斎藤は口の中の茶を噴き出しそうになりそれを堪えて一気に咽喉に流し込んだ。
「…なっ、何を…」
軽くむせ込みながら斎藤が土方を恨めしそうに見る。
「斎藤、お前らしくもないな…何故そこでお前が赤面するんだ」
そう言うと、土方は口の端を軽く上げて笑って見せた。
「副長が突拍子も無いことをおっしゃるからです!」
「そんなつもりは更々ないがな」
しらっと言い放つ目の前の副長を、斎藤は複雑な何とも表現しがたい心境で見返す。
斎藤のそんな視線に気付いてか、土方は口の端の笑みを消し真剣な表情をつくった。
「まぁ…何だ、総司はお前も知っている通りの奴だからな…」
「……」
土方は視線を畳の上に逸らし、そのまま口を開く。
「こんな事を俺がお前に聞くのはおかしいかも知れないが…耳に入れてくれるか」
戻ってきた土方の視線を真正面で受けて斎藤は無言のまま頷いた。
何だかんだ言っても、この心優しい新撰組の鬼副長は10歳ほど年の離れた一番隊の組長の事が何より心配でしょうがないのだ。
斎藤は、江戸の頃から土方と総司を見ていてそう思っている。
この副長は、いつも勝てないあの笑顔が大切で仕方ないのだ。--------自分と、同じように。
どうにか言葉ではそれを隠そうとしながらも、総司の事を心配している土方の不器用さに内心少し苦笑する。
「総司はお前に懐いているからな、色々手を焼くだろう」
穏やかな瞳で、土方は斎藤を見た。
自分に総司の話をする時、副長は本当に穏やかな瞳をする。
作り上げた今の彼ではなく、江戸に居た頃の、昔の彼に戻るのだ。
本人が気付いているかは、分からないけれど。
「…手を焼く…ことはあまりないですが」
知らずといつもよりも声が穏やかになっている自分に、副長の事は言えないなと思いまた苦笑する。
「まぁ、人懐こそうに見えて、あいつもなかなか難しい奴だからな」
土方の言葉に、一瞬彼の笑顔が浮かんだ。
「人を選ぶが…でも、お前のことはかなり頼りにしているように見える」
「それは副長だって…」
斎藤が言うと、土方は頬を歪めるようにして笑う。ほんの少しの表情の変化だけれど。
「それなりにはな。…でも、年が同じのお前だからこそ、って事があるだろう」
土方の口調は、手のかかる年の離れた弟を気にかける兄そのものだ。
「あいつは人に甘えるということをあまりしない奴だから…ひとりで、背負い込もうとする奴だから」
役者のように整った土方の顔を、真正面から見つめる。
「自分がぎりぎりでも笑って…にこにこしながら腹の中では何を考えてるか、って奴だからな」
「…えぇ、そうですね…」
少し掠れた声で斎藤は答えた。
「…彼は笑って嘘をつくから」
周りに気を遣い過ぎなのだ。
「もう、嘘はいらない」
低く、呟いた。
そして、瞳を伏せる。
「お前も、どちらかと言うとそうだがな」
呟くような土方の言葉に、斎藤は視線を戻した。
「甘えることを…あまり知らない奴だが、お前にはそうでもなさそうだ。斎藤、自分でどう思う」
「どう、とは…」
「総司は、自分をお前に見せるようになってきたか」
暫し、間を置いて。
「…そうであって欲しいと、思います」
静かな斎藤の言葉に、土方は無言で頷く。
「お前を、困らせてはいないか」
その言葉に、斎藤は瞳を細めて笑った。
土方は斎藤のその表情に瞠目する。
「…困らせてくれた方がいい」
今は、まだ足りないくらいで。
もっと、見たいと思うほど。
どんなわがままだって。彼の言葉なら。
受け止めるのに。
「困らせてくれた方が…本当の彼を見ている気がするから」
低い響きの告白に、土方は心なしか満足そうに微笑んだ。
「総司が選んだのがお前で、お前も総司を選んで…つくづく良かったと俺は思う」
告げられた言葉に、斎藤は瞳を見開いた。
知らず、声が漏れる。
「何故…」
「何故、な。…聞きたいか」
黙って土方を真っ直ぐに見つめた。
土方は斎藤のそんな視線を受けてゆっくりと口を開く。
「お前、自分で気付いてないか」
突然の言葉に斎藤は眉をひそめる。
「斎藤、お前、笑うようになったな」
静かな土方の言葉が、斎藤の胸を鈍く揺さぶった。
「…前よりも」
土方の言葉に、口を開こうとした瞬間。
障子の向こうから声が掛けられた。
「…土方さん?総司ですけど」
「あぁ…入れ」
間を置かず静かに開かれる障子。
「失礼します…あれ?」
入るなり、驚いた顔をして総司が斎藤を見つめた。
「一さん、ここにいたんですか。道理で見つからない訳だ」
にっこり微笑む。
「探していたのか」
「いえね、探していたと言うほど大げさな事はないんですけどね」
言いながら土方の向かいに座る斎藤の横に並んだ。
総司が腰を下ろすのと同時に斎藤は腰を浮かす。
「あれ、一さん行っちゃうんですかぁ?」
総司の言葉に斎藤は一瞬笑い、土方に向き直りつつ障子の前に正座した。
「副長、ではまた」
「近いうち、な」
頭を下げ、斎藤は無言のまま部屋を辞した。
それを総司は首を傾げて見送って。
「…何を話してたんです?」
「極秘の話だ」
「私にもですか?」
「お前には、だ」
総司は土方の言葉に両頬を膨らませてわざと怒ったような表情をしてから淡く微笑んだ。
「何ですか、それ」
「あぁ?いいんだよ」
「もう!土方さんってば一さんに何言ったんです?一さん不思議な顔してましたよ」
クスクス無邪気に笑う総司に、土方も少し笑う。
「だから極秘だよ」
「もうっ、いいですよーだ」
まだ笑ったままの総司を、土方は見つめて。
「…総司」
「何ですよ、改まって」
言いながら姿勢を正す総司に思わず苦笑しかけて無表情を保つ。
「斎藤はどうだ」
総司は、瞳を丸くして土方を見つめ返した。
「どうだって…」
笑いかけて、土方の表情が真顔なのに気付き笑みを消す。
二人とも視線を逸らさないで。
「優しいですよ、とっても」
そう、にっこりと微笑って言うのだ。
「…優しいです」
一言一言噛み締めるように言う総司を、土方は穏やかに瞳を細めて見る。
「斎藤が、好きか」
ふいの質問に総司は少し驚いた顔をした。
それから。
ほんの少し顔を傾けて、綺麗に微笑んで見せる。
無言のままのその表情は、言葉よりもその想いを如実に語って。
「…そうか」
土方はそれだけ言うと、切れ長の瞳を柔らかく細めて笑った。
屈託無く笑う総司のその表情を、土方はじっと眺める。
昔から変わらないこの笑顔。
この笑顔が曇ることが、願わくば無いように。
奥の奥で張り詰めた細い糸が切れることが、どうか無いように。
張り詰めた糸は、いつか遠からず切れてしまうかも知れないけれど。
その時、その糸を結び直せるものがどうか在るように。
「斎藤のあの笑顔…お前が守ってやるんだぞ」
ひとりに慣れきった彼にはきっと、お前しか居ないから。
お前にしか出来ないから。彼を変えたお前にしか。
そして彼を変えたお前の、その細い糸を繋ぐのは他でもない、彼だろうから。
どうか、それを失うことが無いように。
「…土方さん…」
戸惑ったように揺れた声が、土方を呼ぶ。
「その代わり一杯わがまま言って困らせてやりな」
「…わがまま…ですか」
一瞬沈黙して。
「…あのね、土方さん?一さんには内緒ですけどね」
言って土方の耳元で囁いた。
「わがまま言ったら、一さん困ったような顔するんですけど、決まって笑うんですよ」
総司の言うわがままが、果たして世間一般でのわがままの範囲に入るのかは謎であるが、土方は斎藤のその様子を頭に描いて思わず苦笑する。
「そうかよ。なら、もっとわがまま言ってもっと笑わせてやりゃあいいな、総司」
大きな瞳を細めて楽しそうに総司が笑う。
この笑顔が、斎藤の中の何かを変えたのだと思った。
「ふふ…今日の土方さん、何だか変」
「馬鹿。生意気言ってんじゃあねぇ」
土方の言葉にも総司はただ微笑んで。
「もう部屋に戻んな」
「はい」
立ち上がる総司を見上げ、口を開く。
「総司」
「何です?」
「斎藤にな、今度時間作って俺の部屋にまた来いと伝えてくれ」
言うと、総司は小さな口唇を尖らせた。
「また私ひとり、仲間外れですか?」
「……」
少し考え込んで。
「斎藤が許したら一緒に来い」
「…分かりました」
笑顔を残して総司が部屋を出る。
土方は、軽く吐息を付いた。
今頃、総司は斎藤に今度は私も一緒に、と駄々をこねているところだろう。
困惑する斎藤の顔が浮かんでくる。
総司の言葉を一通り聞き終わって、斎藤はいったいどんな笑みを総司に向けるのだろうか。
総司はどんな笑みを斎藤に返すのだろうか。
穏やかなことだと、土方はひとり苦笑した。
...3人で茶でも飲みながら久々にゆっくりと時を過ごしてみるか。
そう、思いながら。
土方は文机に肘を付き、その手で頭を支え瞳を閉じた。
「もう、嘘はいらない…ってな」
...笑って嘘をつくから。
斎藤の、放った言葉が先程耳に入った響きのまま蘇って来る。
「言うじゃねぇか」
あの真摯な眼差しは、あの笑顔からきっと離れない。
総司の中の細糸も、切らないだろう。
「随分、想われてるよなぁ…?総司」
繋ぎとめる、糸。
せめてこれだけは、切れることがないように。
今は、ただそれだけを思った。
終
斎沖