この声が届くなら
それはまるで、
祈りのように。
この声が届くなら 「総司」
スラッと、滑らかに部屋の障子が開けられるのと同じくして、彼の人の声。
ゆっくりと畳を踏み締めて入ってくるその人に、総司はそっと微笑んだ。
「…土方、さん」
土方は総司のその声にそっと頬を歪めるようにして笑い、床に就く総司の枕元に腰を下ろした。
土方の手が、ゆっくりと総司の額に伸びる。
掌から伝わる温度は、記憶するいつものものよりも高い。
その熱さに、土方はそっと眉を顰めた。
そんな土方の表情気付いてか、総司は苦笑してみせる。
「平気なのに、新八さんや一さんが寝てろとうるさくて」
「…平気なものか。熱がある」
「でも、大分調子は良いのです」
言う総司の表情は穏やかだ。
けれど。
日に日に白さを増すその頬を、熱が薄らと紅く染めている。
土方は、乱れた前髪を指先で梳いてそのまま髪の毛に指を遊ばせた。
艶やかで、滑らかな心地よい感触。
そんな単純な仕草に、嬉しそうに瞳を細める総司が愛しかった。
「大人しくこのまま寝て、しっかりと治せ。…早く、良くなれ。皆、それだけ願ってる」
「皆、か…」
小さく呟く総司に、土方はハッとなって総司の横顔を見た。
迂闊だった、と思う。
「…ねぇ、土方さん。--------藤堂さんは…」
あぁ、やはり迂闊だった。
土方は己のたった今発した言葉を悔いた。
「藤堂は、光縁寺に埋葬した。…新八も左之も、行ったようだ」
「そう、ですか…」
静かな声だった。
何かを思いつめるようなその横顔に、土方は次に総司から放たれる言葉を恐れながらも待つ。
「ねぇ土方さん。変な、話ですよね」
「…何?」
「山南さんも、藤堂さんも…元気だったのに、突然逝ってしまった。…私は…」
総司が口にした名前に、知らず胸の奥が痛む。
一生、忘れることは許されない名前。
覚えていようと、決めた名前。
「なのに、私は…こんなになってまで、まだ…こうして生き永らえている」
震えそうになる口唇を隠して、きつくそれを噛み締める。
それだけでは足りず、右手を爪が食い込むまで握り締めた。
「何、言ってやがる」
怒りの篭る言葉の奥に、言いようの無い悲しさが秘められている。
総司は、自分の手を見てそっと微笑った。
痩せ細っていく、この身体。
この、腕。
想いとは裏腹に、身体を蝕む病は止まるところを知らない。
悲しいはずなのに、込み上げてくるのは嘲笑に似た笑み。
「馬鹿なこと言ってねぇで、さっさと寝ろ」
それ以上の言葉を聞きたくなくて、土方は掌で総司の目の辺りを覆い隠した。
...卑怯だと。
そう、分かっていたけれど。
それ以上の言葉を聞きたくなった。
--------言わせたく、なかった。
無理やりな土方に、総司は面白そうに口の端を上げて笑って見せる。
その笑顔だけが、まだ自分を救うのだと土方は思う。
ここまで来るのに、たくさんのものを失ってきた。
たくさんの命を、犠牲にした。
けれど。
可笑しいけれど、それでも思うのは一つなのだ。
この、笑顔だけは失くしたくないと。
総司の身体を、自分の夢のために犠牲にしたようなものなのに。
失くしたく、ない。
そう。
失くしたく、ないから。
何と言われようとも、もう構わない。
偽りの無い、想い。
それだけなのだ。
今願うのは、たったそれだけのこと。
なのに、時の流れはそれすらも邪魔をする。
もしも、など思いたくないけれど。
時々襲ってくる、その日を思って土方は背筋を寒くさせた。
まるで、どん底に堕ちるような喪失感。
「…総司、早く良くなれ…」
それしか、言えなくて。
苦しむ総司を見ても、背をさすり、身体を支え、声を掛けることしか出来ない自分が呪わしい。
込み上げてくる無力感は、言いようも無く。
「早く、良くなれ」
まるでそれは、祈りの言葉。
「…土方さん…」
総司の指が、そっと土方の頬を撫でる。
その感触に土方は、伏せていた瞳を上げて総司を見つめた。
まるで慈しむような、瞳に宿るその光。
訳も無く、胸が痛んだ。
「離れないと、言ったから」
「…総司」
「だから、良くなります」
一日でも永く。
一秒でも、永く。
傍に、居たいと思うのは互いの偽らざる想い。
「…だから」
「……」
「そんな顔、しないで…土方さん」
「総司」
あぁ。
こんな風にだ。
こんな風に、お前は俺を救ってくれる。
お前は逆だと言うが、それは違う。
こんなにも救われているのは、俺の方だ。
総司。
これ以上、もう何も、誰も失いたくは無いのだ。
昔のような穏やかな時間に戻りたいとは思わない。
どうせ、もう還れはしないのだ。
それは諦めではなくて。
ただ、共に生きていければ良い。
それだけ。
「…土方さん」
「何だ」
「熱が下がったら、藤堂さんに会いに行っても良いでしょう…?」
仲間だった、彼の元へ。
かけがえの無い、友の眠る場所へ。
「…そうだな」
「共に、行こう」
「不思議、だな」
「…何がだ?」
「土方さんの声を聞くと、落ち着くんです」
「…そうか」
土方は、掌で総司の目元を覆ったまま、黒い髪の毛に口付ける。
「私が寝るまで、何か…お話をしてくれませんか」
それはまるで、子供のように。
「土方さんの声を聞きながら、眠りにつきたい」
「…そうだな…何の、話をしようか……」
まるで取り留めの無い話をしながら。
総司は、時に土方の言葉に言葉を返し、時に楽しそうに笑って。
笑みを残す口唇から、寝息が聞こえ出すまでにそう時間は要らなかった。
「…総司」
穏やかな寝息が、繰り返される。
静かに、静かにゆっくりと。
土方はそっと、それに耳を澄ます。
耳に届くその呼吸に、可笑しいほど安堵する。
「総司」
生きて、いると。
「早く、良くなれ」
それだけを、繰り返し繰り返し。
「良くなってくれ」
それは、祈り。
起こさないように、頬を静かに指先で撫でる。
頬を近付けて、吐き出される呼吸の温かさを肌で確かめた。
軽く触れるように、口唇を掠め取って。
「…お前は」
逝くな。
「失くしたく、ないんだ…」
祈るだけで叶うなら、いくらでも祈ってる。
どうすれば、音を立てて落ちていく総司の命の砂を掬える?
時を止めることは出来ないなんて、分かってるのに。
それでも、愚かにも祈ってしまう。
せめてどうか、この時よ続け、と。
「総司」
お前は、俺の祈りを叶えてくれるか。
まだ。
まだ、早い。
落ちていく砂も、拾い集めてやる。
止めることが叶わないなら、せめて。
一粒も残さず、掬い上げて。
お前を、繋ぎ止めるから。
だから
どうか、まだこのまま。
「…傍に」
終
土沖