卯月の頃 下








月の頃











「…何をしてる?総司」



枕元に胡坐を掻いて座った土方に向かって布団の中から総司が手を伸ばし、その膝辺りに置かれた手に触れた。

大きな手を一度握り締めてから、総司は自分の指を土方の指に絡める。

細くなったその指先にそっと力を込めると、土方は淡く瞳を細めて軽く握り返した。

「どうした」

「…ふとね、思い出したんですよ」

怪訝そうな顔をする土方に、総司は微笑むと絡めたその手を自分の頬の方へ持ってゆき土方の手の甲を青白い頬に当てる。

「土方さんと、指切りをして約束したなぁ…って」

「…随分昔の話だ」

「覚えていたんですか?」

以外だという顔をして、総司が楽しそうに声を上げて笑った。

「当たり前だろうが」

「ねぇ、土方さん」

笑い声が途切れて呼び掛けられる声は、突然過ぎるほど真剣な響き。

「…この手…まだ、握っていても良いですか」

呼吸を詰めて。

「何…」

「まだ離したくないんです」

「…総司」

「離したくないんです…」

「馬鹿野郎、どうして離す必要がある」

絡めた指先に、力を込めた。

「離さないでと言ったのはお前だ」

「土方さん…」

「言ったお前が、先に離してどうする」

布団に横たわる総司の枕元で、土方は言うと切れ長の瞳を細めて微笑んだ。

絡めたその手とは反対の手を総司の額に伸ばし、乱れた前髪を掻き上げてやる。

一瞬触れた額が見た目以上に熱いことに、土方は息を顰めた。

「ずっと握り締めていれば良い…そうだな、総司」

「…はい」

瞳だけを土方に向けて、総司もそっと微笑みを浮かべる。

「そうですね」

「まだ、身体が熱い。横になっているだけも辛かろうが辛抱して寝ろ」

「はい」

素直に頷く総司に微笑い、布団を肩まで掛け直す。

握り合ったままの手を土方は見つめた。

見る度に細さを増すように思えるこの腕も、手も、指先も、全てが愛しいと思う。

まるで縋るように絡められたその手を、包み込み両手で軽く握り締めた。

この温もりだけが、生きている証。

身体の温もりを確かめて、安堵することが癖になりつつある自分が、可笑しくも悲しくもあった。

「総司」

静かに呼び掛ける。

もう、眠りに落ちたその身体からの返事は無い。



「…京の桜も、満開だな」

片方の手で、肉が落ちた総司の手の甲を何度も何度も撫でて。

薄く開いた口唇から吐き出される、規則正しい穏やかな呼吸音に耳を澄ます。

「…総司」

きっと、もうすぐ黒谷での会合に向かう時間だと、ここへ隊士が呼びに来るだろう。

せめて、それまで。

少しでも多く、傍に居よう。





「あの桜は…もう咲いただろうか」



震えた声に自嘲し、土方は包んだ細い手の小指にそっと口唇を寄せた。















「……」

不意に離れた温もりと、廊下を歩いてゆく足音で目を覚ました。

ついさっきまであった彼の温もりを確かめるように、総司は右手をそっと抱き込む。

「土方…さん」

一人になった時、知らずと口にするのはいつも彼の名。

そう思って総司は一人自嘲した。

「邪魔にならないように…貴方を追って」

呟く。

「貴方の傍に居て…」

あの時の願いはそうだった。

彼の夢を邪魔したくなくて。

それでも、傍に居たくて。

一緒に、追いたくて。

「なのに…今の私は…?」

彼のために生きようと思っていた。

彼のためなら、何にでもなろうと。出来ることならば、何でもしようと。

そう、思って。

「ねぇ…土方さん…?」

思っていたのに。

願いも、想いも変わらないのに。



上半身を起こそうと、身体を動かす。

その次の瞬間、胸の奥の方から咳が込み上げて来る。

堪えようもなく、総司はそれを何度も繰り返し、痩せた肩を揺らした。

「--------ッ」

息苦しい身体が、喘ぐように空気を求めて深呼吸をする。

静かな部屋に自分の荒い呼吸だけが響くのを、総司はどこか遠くの方で聞いていた。

じっと、呼吸が落ち着くのを待ちながら、口元を押さえていた右手を見つめる。

鮮やかな紅に染まった掌。

こんな風に咳が止まらないこと、こうして喀血する回数が、次第に多くなって来た。

土方の温もりが消えてしまった右手を見つめながら、総司は今この場に彼が居ないことに安堵の吐息を付く。

こんな姿は見せたくない。

彼に、苦しそうな表情をさせる自分が許せない。

「…じかたさん…」

最初の一文字は、掠れて消えた。

「土方さん…」

もう一度、小さく呟く。





結んだ小指を、切り離す日が来るなどと思いたくない。

ずっと傍に居られたらそれだけで良いのに。

それだけなのに。

どうして、願いは叶わないの。



約束を違えることよりも、死ぬことよりも、何より貴方と離れることが怖い。

「…こうして…まだ傍に居ても…良いのかなぁ…」

私は。

まだ、貴方の傍に居ることを許される?



走れなくなる前に。

貴方が私を邪魔だと思う前に。

...私は、消えた方が良いですか。

邪魔だと思われてしまうのなら、いっそ忘れて欲しいと思うのは自分勝手ですか。





「歳さん…」

いつの日か、口にしなくなった愛しい彼のこの呼び名。

大きな背を追って、この名を呼べばいつも優しい微笑が見下ろしてくれていた。

あの笑顔に、全てに、恋焦がれていた--------。







願わくばどうか貴方に、安らぎの日がありますように。

抱えきれないほどの悲しみと想い出の果てに。



だから。

貴方には。



「…笑っていて欲しいから」





いつだって。

ずっと。



「--------笑っていて」









初めての約束を。

どうか。

覚えていて。










ずっと、貴方だけを追っていた

これからもずっと…変わらないから



だから どうか--------…



















「土方さん」



聞き覚えのある声に呼ばれた気がして、ふと歩みを緩めて振り返った。

振り返ってから立ち止まり、頬に苦笑を刻む。

もう逝ってしまったはずの彼の声だと思い返して。

立ち止まり踵を返したその足をもう一度前に向け、ゆっくりと歩き出す。

北の春風が、短く切った土方の髪の毛を乱し木々を揺らす。

その風に、満開になった桜の花が舞った。

目に付く中で一番大きな桜の樹に一歩一歩、近付いてゆく。

遠く、遠くやって来たこの北の地にも、遅い春がやって来たのだ。

江戸とは一ヶ月以上も違うその開花時期に驚いたが、例年より待たされた思いのせいか瞳に入る桜は事の他鮮やかに、眩しく見える。

「…見事なものだな」

一人、呟いた。

樹の根元まで近付いて、年輪を重ねたその桜の幹に触れる。

そして、その幹に背を凭せ掛けて腰を下ろした。

一息、吐息を付いてから空を振り仰ぐ。

目の前に広がるのは、桜の色。その僅かな隙間から見える澄んだ青空に、瞳を細めた。

感傷的に、昔と同じようにして桜を見上げている自分が可笑しかった。

同じなのは、この体勢だけ。

見上げる場所も、桜も違う。隣に居たはずの彼ももう居ない。

遠い北の地で一人、こんな風に桜を見上げる日が来るなんて思ってもいなかった。

「……」

口の中で、一人の名を呼んでみた。

「…お前の言った通りだ」

頭上に舞う花びらに手を伸ばし、そっと握り締めた。

「--------散っていく桜の花びらの一枚一枚が見える」

そう言って微笑んだその顔が鮮明に蘇る。

こんなにも思い出せるのに。お前が居ない。

お前が、居ない。

「…お前からも、見えるか」



遠くまで来た。

ずっと追うと言っていたお前だから、ついて来て居るのだろう?

「桜が、咲く時期になったな」

この、北の果てまで来た。

手に入れたもの、失くしたもの、全て胸に抱えてここまで来た。

縋る手を置き、繋いだ手を切り離して。



「…すまない」

約束を違えたのは、俺の方だ。

お前を、置いて来てしまった。

お前を、一人にしてしまった。

一人、逝かせてしまった。

「すまない…」

これが最期かも知れないと、確かに思って別れたはずなのに。



最期の笑顔を、覚えてる。

忘れたことなど、無いほど鮮明に。



貴方の傍に居ますよ



耳に残るのは、明るい声。

奥の奥で響いて、離れない。







「総司」





風に舞う花びらが、ひらりひらりと一枚一枚落ちて来る。



土方さん、綺麗ですね



「お前を忘れる日など無い」

重荷ならば捨ててしまえと。

縛るだけなら忘れてしまえと。

瞳を歪めて言った、あの瞳の色は脳裏に焼き付いて消えない。

「…忘れられるはずも、無い」





「お前が居なければ…笑えなかった」

あの笑顔に救われていた。

それは今も変わらずに。

抱えた想い出は、鮮やか過ぎて時に胸に重いけれど。

お前を思い出せば、自然と浮かぶのが微笑みなのは紛れも無い事実。



笑っていて欲しいから


      
「…分かっているさ」

それが、お前が望んでくれたことだから。

それが、俺の傍で、お前が望んでくれたことならば。

だからこそ、失くしても笑うのだ。笑えるのだ。

もう、隣にあの姿は無いけれど。

そんな風に思う自分に嘲笑いながら、それでも必死に探すのは他の誰でも無い、彼の気配。











「…副長!」

大柄な身体が、駆けて来る。

息を切らせて走って来たその身体が、土方の傍に着くと深いため息を付いた。

「こちらにいらしたんですか」

「…島田」

「何を、していたのです?」

荒い呼吸の中で、島田は微笑んで土方に問い掛けた。

「まぁ、座れよ」

「…はい、では失礼します」

桜の樹の真下に座る土方の横に並んで、島田も腰を下ろす。

「花見さ」

「…花見、ですか?樹のこんなすぐ傍で?」

まるで、昔に同じようなやり取りをしたなと思い返して土方は淡く笑った。

「こんな風に、桜を見ていた奴が居たんだ」

穏やかに瞳を細めて言う土方を見て、島田もそっとその横で微笑う。

振り仰いで樹を見上げている土方に倣って、島田も同じように桜を振り仰いだ。

「あぁ…綺麗だ、見事に目の前が桜色ですね」

「散っていく花びらの一枚一枚が、見える感じがする…か」

「花びらの…一枚一枚…」

土方の言葉を反復して、島田は頭上で舞う花びらに瞳を凝らす。

誰の言葉です、そう聞こうと顔を土方の方に向けた島田は、その穏やか過ぎる表情に息を詰めた。

「--------島田」

その変化を知ってか知らずか、土方は表情を変えないまま低く島田に声を掛ける。

「はい」

「蝦夷の桜も…綺麗だな」

「…綺麗ですね」

瞑目し、島田はゆっくりと口を開いた。

問おうとした言葉は胸の奥へ送って。

きっとあの言葉は彼の言ったものだろうと、確信とも言えぬ漠然とした思考が浮かぶ。

この人に、こんな表情をさせられる人を、自分はたった一人しか知らない。

まだこんな風に守り続けているのだと、そう思うと自然と熱くなるこの胸を止められない。



「綺麗ですね…--------まるで、春の雪だ」



目の奥の熱さを隠して、もう一度振り仰ぎ呟くと、隣に居る土方が微笑むのが気配で分かった。

僅かに潤んで霞むその視界に、きつく瞳を細めて桜の合間から見える空を見つめる。

それを邪魔するように降り落ちて来る、幾枚もの花びらが舞う音に耳を澄ました。



あの人を どうか

ひとりにしないで下さいね




蘇る声は、最初で最期の約束の言葉。



「島田」

徐に呼ばれ、肩を揺らし反射的に返事をする。

「はいっ」

「…そろそろ戻るか」

「えぇ、そうですね」

土方が腰を上げるのと同時に、島田も大きなその身体を立ち上がらせた。

一歩、また一歩、並んで歩いてゆく。

肩に乗った数枚の花びらを払おうとして、その手を止める。

指先で一枚を摘み、そっと掌に載せた。







「--------懐かしいと思うことも…今は罪か?」



立ち止まり、手の中の淡い薄紅色を見つめ低く呟いた。

この手の中に確かにあったはずの誰かの温もりを探すように、土方は掌を握り締める。



土方さん



泣かないで






「馬鹿野郎」











「…まだ、笑えるさ」



ゆっくりと握り締めた掌を開き、手の上の桜を見る。

刹那その花びらを風が攫ってゆく。

それが風に舞う行方を目で追ってから、もう一度。

今度は立ち止まらず、歩き始めた。









どうか 覚えて いて

貴方が 微笑って くれたら

私は 
それだけで 良いんです


















土沖








人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -