白い闇
はらり、はらり
舞う 雪 が
抱えるこの闇 全てを
消し去ればいいなどと、
白 い 闇 「総司なら、一刻程前に出掛けたぜ」
特に用事があった訳ではない。
ないのだが、長い時間姿が見えないことに気付いた斎藤は、総司の姿を探すように屯所を歩き回っていたのだ。
井戸端に居た永倉を見つけた時、何も聞いてもいないと言うのに永倉は斎藤の姿を認めると笑って言った。
別に特別探していた訳ではないのだと、そんな言葉を斎藤は飲み込んで。
「…そうか」
低く一言言った斎藤に、永倉はまた笑う。
「今日は、冷えるな」
「あぁ」
「雪でも降りそうだな」
「…あぁ」
「総司、随分と薄着で出掛けて行ったんだよなぁ…大丈夫だろうか」
白々しいとも言える永倉の言葉に、斎藤は初めて永倉が己に言いたいことを理解してそっとため息をつく。
「…永倉さん」
「あ?何だよ、怖い顔して…あぁ、いつものことか」
茶化すように言う永倉に、もう一度ため息をついた。
「…あんた、俺に何が言いたい」
低く問うと。
永倉は白い歯を見せて、人懐こい笑みを浮かべた。
「…分かってるんだろ?」
「分からん」
「ったく、天邪鬼め」
「生来の性だ、仕方なかろう」
表情を変えずに言う斎藤に、永倉は苦笑する。
「迎えに行ってやってくれと、言っているんだよ」
柔らかく、穏やかに。
永倉は微笑を浮かべて斎藤に言った。
何故俺が、とは斎藤も言わない。
「…あんたらは、本当に総司に甘いな」
「お前が言うなよ」
斎藤に向けられたのは、苦笑に似た穏やかな微笑。
「…煩い」
一言、短く告げて斎藤は永倉に背を向けて歩き出す。
「何処に行くんだ?」
永倉の声に、斎藤の足が止まった。
「……散歩だ」
また歩き出す背を見送りながら、永倉は何度目かの苦笑を浮かべる。
「…素直じゃねぇなぁ」
込み上げて来る笑いを堪えることもせず、くっくっ、と声を殺して肩を揺らして笑った。
それから、重く曇った空を見上げてそっと呟いた。
不器用に真っ直ぐにしか生きられない友を思いながら。
「もう少し嘘がうまくなったら、…もっと楽に生きられるのにな」
出て来たのはいいが、何処に向かえば良いものか。
深く思案する前に、歩き出す。
西本願寺から、そう遠くない場所。
そんな場所で総司が行くとしたら、思いつくのは数箇所。
直感のままに。きっとそれは外れていない。
空を見上げる。
重苦しい灰色の空を見上げた。
「…降りそうだな」
見慣れた門をくぐり、境内に足を踏み入れる。
西本願寺に屯所を移す前、よく足を運んだ場所。
斎藤が向かったのは壬生寺だった。
予想に違わず、本堂の石段に座る探し人の姿を見つける。
本堂まで続く石畳を数歩歩いたところで、探し人は斎藤に気付いたらしい。
白い頬に柔らかい笑みを浮かべてこちらを見ているのが視界に入る。
まるで待っていたような、そんな様子の総司に斎藤は内心舌打ちをした。
予想通りの場所に居た総司を見つけた時点で、こちらの勝ちかと思っていたが、もしや総司の予想こそ当たっていたのではないか。
己が迎えに来る、と言うことを。
けれどそんな風に思うのは、身勝手な希望でしかないことは分かっている。
「…一さん」
ふわり、笑いながら総司は斎藤を見上げてその名を呼ぶ。
寒さのせいか、頬が少し紅い。
「どうしたんですか?こんな処に」
「…散歩だ」
言えば、総司はひどく可笑しそうに笑った。
「なぁんだ、残念」
実際聞けば、残念そうには聞こえない、明るい声音。
「…迎えに来てくれたのかと思ったのに」
言葉に、胸の奥が熱く、重くなる。
先刻ふと浮かんだ希望にこうして、この目の前の総司はそっと触れてくるのだ。
しかしその希望は、決して叶うことも届くことも無い。
なのに何故、などと。
総司を責めることなど出来ないことは、斎藤が一番良く分かっている。
「……迷(まよ)い子でもなかろうに」
感傷を押し殺して、低く言った。
斎藤のその声に、くすくすと総司はまた笑った。
「迷子になっていたら、迎えに来てくれるのですか?」
「…下らんことを言うな」
未だ本堂の石段に座ったままの総司の腕を掴んで、無理矢理に立ち上がらせた。
ひやりと、掌に触れた着物は冷え切っている。
「身体が冷え切っている。…帰るぞ」
「散歩じゃあなかったんですか?」
「煩い」
総司の腕を掴んだまま半ば無理矢理のように歩き出させると、その腕を掴んでいた斎藤の手に総司の手が重なった。
「…何だ」
「一さん、散歩に来たのでしょう?」
「そうだ」
「私も、散歩に来たのです」
総司は小さくそう言うと、腕から斎藤の手を離させた。
「だから、私のことは気にせず先に帰ってください」
振り返って見つめた総司の頬に、見慣れた笑みはなく。
真っ直ぐな闇色の瞳が、ただじっと斎藤を見つめていた。
「私も、ひとりになりたい時があるのです」
それは、確かな本心なのだろう。
新撰組に伊東一派が入隊してからと言うもの、古参で試衛館時代からの同士であった藤堂が近藤や土方から離れ、伊東と共に行動することが多くなった。
総司は己の痛みに対しては鈍いくせに、他人の痛みに酷く聡い。
近藤や土方、そして何より藤堂の思いを思っては、その心を痛めているのだろう。
まるで挑むように、試すように。
真っ直ぐに見つめてくる総司の視線を、斎藤はじっと受け止めた。
「…ね?一さん」
嗚呼。この男は本当に分からない。
にこにこと笑っていたかと思えば、剣を握って冷たい瞳で浪士を斬るのだ。
下らない冗談を口にしていたかと思えば、ふと黙り込んで遠くを見つめたりするのだ。
嗚呼、分からない。
何を思っているのか。何を望んでいるのか。
心はすぐ傍に在るようで、本当はどれだけ手を伸ばしても届かない場所に在る。
掴めないのだ。
それは故意にではないのだろう。
ただ。強く生きるため、己を守るため、自然と身につけたことなのだろう。
心に厚い、高い壁を作って。
そうして彼は笑うのだ。
あの人以外の誰にも、本当の姿は見せないように。
あの人以外の誰にも、深く踏み込ませないように。
人懐こそうに見えて、実は気難しく。
誰にでも心を許しているようで、実は少したりともその心を開いては居ない。
-----------あの人の前以外では。
心が掴めたと思えば、するりとその脇をすり抜けていく。
そうして気付くのだ。
掴めたのではなく、ただ掴めた気がしただけなのだと。
そうだ、今のように。
こうして、総司の心も身体も全て。
とらえようのない風のように、すり抜けていくのだ。
「……迷(まよ)い子だな」
「…え?」
「総司」
総司の手で離された手で、もう一度。細い腕を掴む。
「…迎えに、来た」
「一さん」
一度視線を足元に落とし、そうして。
総司がしたように、同じく斎藤は総司に向けて真っ直ぐに視線をぶつけた。
「お前を迎えに来たのだ。…だから共に帰るぞ」
「嘘を、つかなくていいんですよ」
「前に言ったはずだ、…俺は嘘は言わん」
やっと。闇色の瞳が揺れた。
「ひとりになりたい時もあろう。…だが今お前が居るべき場所はここではない」
届かない心は、まるで氷だ。
どうすれば柔らかくとかすことが出来るかなど、そんな術は知らぬ。
術も、言葉も、持ち合わせては居ない。
…けれど。
「…お前の居場所は、今も昔も変わらない」
届かずとも、せめて響けと。
思うのは、愚かか。
「…そうだろう?」
逸らすことなく見つめ返してくる闇色の瞳に、瞳を凝らす。
お前が迷うことさえしなければ、お前の居場所はただひとつなのだと。
伝わるだろうか。
「…一さん」
紅い口唇が、小さく動いた。
「一さんは、やっぱり優しい人だ」
総司はそう言って、穏やかに瞳を細めた。
「…俺には分からん」
短く言い放つと、総司は腕を掴んでいた斎藤の手に掌を重ねた。
「一さんが分からなくても、私が分かっています」
ふわりと、直に感じる体温が、肌が、優しいと思ってしまう。
触れ合って、やっと知るのだ。
冷血な人斬りの鬼でも、人の温もりは分かるのだと。
「それで、十分でしょう?」
「…さぁな」
斎藤の口の端が少しだけ上がったのを見て、総司は嬉しそうに微笑った。
けれど。
その微笑さえ遠いと思えるのは、何故なのだろう……?
いつもより、緩やかな歩調で歩き出す。
そっと歩幅を合わせて来る斎藤に、総司は静かに笑った。
その頬に、冷たいものを感じて総司は空を仰いだ。
「一さん」
空を仰いだ頬に浮かぶのは、まるで幼子のような笑み。
名を呼ばれた斎藤は横に並ぶ総司を見下ろし、それから総司に倣うように空を仰いだ。
「…雪だ」
「雪ですね」
「あぁ」
「綺麗、ですね」
「…帰ろう」
すっかり立ち止まってしまった総司を促すように、酷く薄くなった背に手を当てる。
「もう少しだけ」
「駄目だ、また熱を出す」
背に当てた手に、力を込めようとしたところで。
鼓膜を、総司の声が揺らした。
「…あと、少しだけ…」
その声が揺れていたのは、寒さのせいだと言い聞かせるように。
総司はそれだけ言うと、口唇を噛み締めた。
それが斎藤に届いたのかは分からない。
けれど、応えは酷く低く優しい声。
「……あと、少しだけだ」
差し出された手。
総司は、斎藤のその手を見て、それからそっと微笑んだ。
そしてその手を取る。
至極自然に引き寄せられて、肩を抱かれて。
しんしんと、静かに降り落ちてくる雪を総司は仰ぎ見た。
「ねぇ、一さん…?……帰りたく、なくなりますね」
「…馬鹿なことを」
「ふふ、…私は本気なのに」
総司の、あまりに静かな声に。
叶わない、はずなのに。
そんな刻があってもいい、などと一瞬でも思った己に嘲笑う。
そうだ、叶わないのだ。
どれだけ祈っても。
どれだけ願っても。
この、目の前にある身体は、一生己のものにはならない。
分かっているのに何故、こうして傍に在るのだと。
答えの出ない問い掛けばかりを繰り返す己を愚かだとお前は、いつものように微笑うだろうか。
「…帰るぞ」
斎藤は、音も無く羽織を脱いでそれを総司の肩に掛けた。
「こんなことをしたら、一さんが寝込んでしまう」
「…お前が言うな」
斎藤の低い声に、総司は可笑しそうに笑って。
そして。
「じゃあ、」
言って、先刻斎藤がしたのと同じように、今度は斎藤に向かって手を差し出した。
そっと、差し出されたその白い手を取る。
「…温かいでしょう?」
「……そうだな」
闇を白く染めていく、雪に目を凝らした。
----------温かい、と。
思って、そして。
この手が、また離れていく刻を思って、斎藤は静かに瞳を閉じた。
こほ、こほっ
静寂を切り裂く、小さな咳。
それは止まることを知らず、細い身体を波打たせる。
「…総司」
薄い背を前屈みにさせ、白い手で口元を押さえて咳を繰り返す総司の背をただ擦ることしか出来ない己は何と無力なのだろう。
ぎり、と斎藤はきつく口唇を噛み締めた。
ふらり、体勢を崩して倒れかけた身体を抱きかかえ、斎藤は石畳に膝をつく。
立てた片方の膝と両腕で、総司の身体を支えた。
そっと、口元から外された白い掌に、紅い小さな花が咲いた。
舞う雪と、総司の白い掌の中に咲いた紅が、いつも以上に鮮やかに見えて斎藤は眩暈のようなものを覚えて一瞬瞳を伏せる。
痛いのは、彼の胸のはずなのに。
何故、こんなにも己の胸が痛むのか。
覚悟は、しているはずだった。
彼にも、己にも、いつかは必ず死は訪れる。
そして、悲しくもきっと 己よりも彼が先に、この世から姿を消すだろうことも、覚悟していたはずなのに。
眼前の光景に、足元が崩れ落ちるような感覚を覚えた己にとっては。
抱いていた覚悟など、ただ生易しいものだったのだと初めて斎藤は思い知った。
…総司を喪う覚悟など、到底己には出来てはいなかったのだ。
しんしん、しんしんと。
降り落ちてくる、雪。
「…あぁ、」
腕の中の総司の肩が細かく揺れている。
泣いているのかと見下ろせば、その頬には笑みが刻まれていた。
「雪が、落ちてくる…」
静かに、消えてゆきそうなその声を聞いて、深くまで触れることの叶わない総司の心を氷だと一瞬でも思ったことを全身全霊後悔した。
どうすれば柔らかくとかすことが出来るかなど、思ってはならなかったのだ。
斎藤は、初めて予感した。
氷は、とければ指をすり抜けてゆく。
もしもいつか、触れられそうで触れられぬ総司の抱く氷がとけ出したならば。
その時が、己が総司を喪う時なのだ。
解かそうなどと、思ってはならぬのだ。
嗚呼、やはり。
一生、どれだけ想っても。
触れられないのだ。
「……綺麗ですね、一さん」
静かな声の響きに、思い巡らせていた思考をそっと抑えられて。
それを振り払うかのように首を振りかけて、止める。
綺麗だと。
たった今、総司が言ったではないか。
「あぁ、…綺麗だ」
腕の中の身体が、この腕さえすり抜けてゆきそうに思えて斎藤は知らず、回した腕に力を込めて掻き抱いた。
「ずっと…とけなければいいのに……」
総司の声に、己の想いが重なる。
しんしん、しんしんと。
雪が、降り落ちてくる。
真白な雪が舞い落ちて、一面を白く染める様を思いながら。
その中で、確かに息づく、生を刻む鼓動の音を探す。
---------------静寂。
聞こえるはずの無いその音に、耳を澄ます。
抱き締めた肩が、僅かに。
震えた気がして斎藤はそっと、包むその掌に力を込めた。
「ねぇ、一さん」
そっと。総司の手が、斎藤の頬に触れた。
「一さんはいつも、私を探してくれますね」
言って、総司は淡く微笑った。
「だからいつか、」
総司の指先が、まるで斎藤の頬の感触を確かめるように幾度となくそこを上下して。
「一さんが迷子になったら、私が探してあげますからね」
本当に震えているのは、どちらだ。
総司の指先か。----------それとも。己の方だと言うのか。
……総司。
己の意思ではないとは言え、何も言わずに離れてゆこうとしている己に、
----------お前は気付いているというのか。
「……待っている」
慶応三年。
未だ、春は遠く--------------------。
終....?
土沖←斎