遺されたもの
遺 さ れ た も の 廊下を、静かに歩いてくる足音がする。
土方はふと筆を書面に滑らせる手を止めてその音に耳を立てた。
その足音は、自分の部屋の前で止まる。
足音の主が声を発する前に。
「…総司か」
再び、筆を走らせて。
「総司です」
思ったよりも明るい声音に知らずと胸を撫で下ろす。
「入れ」
「…はい」
ほんの少し間を置いて障子が開くと、総司が部屋に入って来た。
近付いてくる足音を聞きながら土方は筆を置く。
「…ご苦労だったな」
言葉に、総司の足音がすぐ傍で止まった。
一瞬の、沈黙。
「……」
無言のまま、総司の腕が土方を後ろから柔らかく抱き締める。
着物の上から伝わる、微かな温もり。
「…総司」
背中から、胸の方に回された腕を掌で撫でて。
胸の辺りにある総司の手を取って、その掌に口付けた。
自分を抱き締める腕をそっと緩めて、土方は総司の方に向かい座り直す。
向かい合って座るような形になり正面にある白い顔を見つめた。
大きな瞳が、赤く腫れていない事に土方はまた少し安心して。
頬に手を伸ばし、総司の目尻に口唇を寄せる。
くすぐったそうに肩をすくめる身体を引き寄せて、両腕で抱き締めた。
総司も、それに任せて身を委ねて来る。
「ふふ…土方さんの匂い」
そう言ってしばらく口を噤んでから、呟くように。
「山南さんが…人は何かのために生きると言っていたんです」
ゆっくりと、総司の口が言葉を綴る。
土方はその静かな声に耳を傾けた。
「言われて浮かんだのは…土方さん、貴方でした」
真っ直ぐに見つめてくるその瞳を見つめ返す。
「その何かがあるなら、生きなければいけないと…そう、言われました」
「……」
「…生きようと、思いました」
白い頬に浮かぶのは、穏やかな微笑。
「総司…」
日に日に軽くなる、この身体が悲しい。
それでも変わらず感じるこの確かな温もりだけに、ただ安堵して。
土方は抱き締める腕に、力を込めた。
それを感じてか、総司は瞳を細めて穏やかに笑う。
「生きたいと…心底思いました」
総司の細い指先が、土方の着物を軽く握った。
「貴方と共に、在れるように」
「…あぁ」
生きろ。
どれだけ血を流しても。
どれだけ血を浴びても。
「まだ…これからだぜ」
この命。
お前の命。
まだ、燃えている。
------------見ているがいいさ。
今日散ったひとつの命に土方は心中囁く。
まだ、散る気は無いと。
浮かんだ微笑は、誰へ向けたものか。
遺したものは、ひとつの言葉。
遺されたものは、生きることへの淡い希望。
腕の中の総司は土方の声を受けて、透き通るような微笑を浮かべた。
「この身体にも、まだ血は残っていますから」
土方は、総司のその微笑を見て口の端を上げて軽く笑う。
「…総司」
痩せた身体を抱く腕に力を込める。
縋るその身体を受け止めて、笑みの残る白い頬に口唇を寄せた。
わずかに潤んだ闇色の瞳が真っ直ぐに土方を見つめる。
「…最後の一滴まで、全て貴方のものだから…」
その血の一滴さえも。
決して残さずに。
この手で掬い上げて。
「土方さん、命ある限り付いて行きます」
遺されたもの。
あの人の最期の言葉。
“何のために生きるのか”
この身体が、この腕が、可笑しいほどに祈ること。
------------この、命が生きる意味。
貴方を守る。
ただそれだけ。
「土方さん…」
一番傍で、貴方を感じていたいから。
「もっと強く抱いて下さい」
いつか、死が二人を分かつとも。
どうかこの温もりだけは、せめて己の身体に遺されるように。
土方の背に柔らかく回される総司の腕。
肩口に顔を埋めるようにして身を寄せる身体を、土方は全身で余すところ無く包み込む。
細い肩が、腕の中で小さく震えていた。
「…総司」
己の肩に顔を埋めている総司の方に顔を寄せて、耳元で低く名を呼ぶ。
「お前には…辛い思いをさせてばかりだな」
顔を伏せたまま、総司が首を横に振る。
「…すまない」
無言のままでもう一度。総司は土方の言葉を否定した。
土方は総司の頭に手を回し、綺麗に結い上げられているその流れに沿って髪を撫でた。
「総司」
もう一度、静かに呼び掛けて。
「…俺の前では在りのままのお前を見せろ」
低い囁きに、少しの間を置いて総司は小さく頷いた。
「…土方さん」
土方の肩から少しだけ顔を上げて総司が口を開く。
「…しあわせだと、私はいつだって思っているから」
そっと指を総司の頬に伸ばせば、刻まれるのは淡い微笑み。
それはすぐに消え、闇色の瞳が切なそうに歪められた。
「…だけど」
細められた瞳が、透明な雫で潤む。
言葉にならない思いがそこからしか出ることが出来ないように、静かに流れ落ちた。
「……ごめんなさい」
白い頬に流れたその一筋に、土方は口唇を寄せてそれを掬い上げた。
「今だけだから…」
どうか許してと、言いながら顔を肩に伏せるその後頭部に手を当てて引き寄せる。
頬を寄せるようにして身体を抱き締めると、総司の指が土方の着物の背を握り締めた。
「泣け」
張り詰めていた糸が、その一言で音を立てて切れる。
自然と溢れる涙は止まることを知らず幾筋も白い頬に痕を残す。
震える口唇をきつく噛み締めながらも、堪え切れない嗚咽が零れた。
「…ッう…」
「……ひとりで泣くな。--------ここで全部出せ」
小さく肩を揺らして静かに泣く総司の背を、土方の大きな手が何度も何度も撫でる。
総司の体温を腕に感じながら、脳裏に数刻前の切腹の席での総司の瞳の色を思い出す。
何も、映していなかった。
悲しみさえも奥の奥に秘めていたあの瞳。
耳に届く隊士たちの嗚咽を聞きながら、誰よりも一番泣きたかったのはきっと総司なのだ。
こんなにも、湧き上がってくる哀しみの雫を堪えて。
言いようの無い、訳も無く湧き上がる自責の念。
僅かに零れる切ない嗚咽さえ愛しくて、震えた身体をきつく抱き寄せる。
「……総司」
土方は固く瞳を閉じると、総司の細い肩にその顔を埋めた。
終
土沖