遠き春 上
笑顔の理由(わけ)は。
遠 き 春 「総司」
壬生寺で、子供達に囲まれて遊んでいた総司に声が掛かる。
「…山南さん」
呼ぶ声の主の名を呼び、総司は微笑んだ。
それと同時にたくさんの手が総司に伸び、足を止めたその身体を捕まえる。
「沖田はん捕まえた!次は沖田はんが鬼や」
楽しそうに笑いながら子供達が歓声を上げて逃げ出してあちこちに散らばった。
総司はそれを見てにっこり笑い、山南を見上げる。
「たいした用事じゃあない、ここで見て居させてもらう。遊んでおいで」
山南は穏やかにそう言うと、境内に腰を下ろした。
その言葉に総司はにっこりと笑って頷き、一言残して子供たちを追い始める。
「ごめんなさい、山南さん」
総司の言葉に山南は笑い、子供のように駆けて行くその背中を見つめた。
本当に楽しそうに子供たちと遊んでいる姿に、山南の頬には思わず笑顔が込み上げる。
しばらく、逃げ回る子供の背を追い回し鬼役の総司はやっと全部の背中を捕まえた。
「やっと全員捕まえた」
そう言って微笑む総司を子供達が自然と囲み一緒になって笑っている。
総司は見上げて来る子供達に目線を合わせるためにその場にしゃがみ込んだ。
「もうそろそろ日が暮れる、今日はもうお帰り」
子供たちはもっと遊びたいと口にしながらも、ちらほらと帰って行く。
「沖田はん、ほなまた明日な」
「約束え」
小さな手を振りながら何度も振り返って境内から去る背に総司は笑顔で手を振ってそれを送った。
その様子を見て、山南はゆっくり総司に近付く。
「ご苦労だな、疲れるだろう」
山南の言葉にも微笑んで。
「いえ、私の方が遊んでもらってるんです。楽しいですよ」
無邪気な笑顔に山南は、ほんの少し眩しそうに目を細めた。
「でも山南さん、珍しいですね。どうしたんです」
微笑を残したまま見上げて来る総司の真っ直ぐな視線を、山南は無言で受け止める。
そしていつもの彼らしい穏やかな口調。
「夕焼けがね…綺麗になるんじゃあないかと思ってね」
言って、空を仰ぎ見た。言葉通り、綺麗な夕焼けが広がっている。
総司は山南の様子が何だかおかしく感じて、その横顔を見つめた。
「…山南さん…」
横顔が遠くに見えて、総司は小さく名を呼ぶ。
「何だい総司、そんな顔をして」
ゆっくりと歩き出すと、総司もそれに続く。
「夕焼けが、見たくなったんだよ」
自分の少し前を行く山南の背中を、見た。
また、遠く見える。
「…おかしいだろうか」
「----------いいえ」
振り返って問うて来た山南の言葉にゆっくりと首を振る。
「おかしくなんて、ありませんよ」
静かに。
山南は軽く瞳を大きく開いて見せて、そして苦笑を浮かべた。
「----------不思議だな総司、お前が言うと、心に真っ直ぐに入って来る」
首を傾げて見せる総司に、山南は笑って。
「総司、お前身体の方は良いのかい」
「いやだなぁ山南さん。今見た通りですよ、平気ですってば」
わざと怒ったように言って見せる総司が、いつもよりも更に幼く見えた。
本当に不思議な青年だと、山南は思う。
「なら、いいんだ」
また、歩き出す。ゆっくり、ゆっくりと。
沈黙。
「…総司、お前…辛くはないか」
「何…」
何がです、そういいかけて総司は口を噤んだ。
いつもとは違う山南の声音。遠く見える背中。
多分今の言葉に、たくさんの意味が込められているのだろうと感じる。
今の、新撰組は。
人を、斬るという事は。
正義とは。
----------士道とは。
分からなく、なっていないかと。見失っては、いないかと。
問い掛けられているように思えた。
総司は、瞳を閉じた。
「いいえ。」
短く、告げる。
辛くは、ないと。
瞳を開き、山南の背を見るとその肩が揺れていた。
笑って、いるのだろうか。
「お前は…強いな、総司」
覇気の無い声。
「強くなんて…」
「真っ直ぐなお前が、眩しく見えて仕方無いんだ」
山南さん、そう呼び掛けようとした。
その時。
「新選組は、変わってしまった----------」
呟くように。
「そう…思ってしまうのだよ」
総司の、足が止まる。
少しずつ、広がる二人の距離。
総司は、山南の背に手を伸ばす。
その手は、届かないけれど。
「…山南さん」
伸ばしたその手は、虚空を掴んで。
その翌早朝、山南は屯所から姿を消した。
「山南さん」
昨日の、彼の様子に言い知れぬ不安を感じて。
朝起きてしばらくした後に総司は、久しぶりに山南の自室へと足を向けた。
呼び掛けに、返事は無く。
「山南さん…?」
もう一度。
総司は、障子を開いた。
敷かれた布団に、部屋の主の姿は無い。
その代わりのように、丁寧に折りたたまれた手紙が一通。
“局長へ”と。
「…山南…さん…」
ゆっくりと、その手紙に手を伸ばす。
見慣れた彼の字。
口唇を、噛み締めた。
そして立ち上がる。
その足は、土方の元へ。
「…土方さん、総司です」
声を掛けて、障子を開き部屋へと入る。
布団に包まり、身動きすらしないその身体の傍へ寄って。
膝を寄せ、枕元に正座する。
”寝ていても気配で誰かどうか分かる”と。
言っていた彼は、来訪したのが総司だと知ってかなかなか瞳を開けない。
「土方さん」
顔を寄せて静かに呼ぶ。
「土方さん、起きて下さい」
声音の違いに気付いてか、土方は瞳を開け布団から起き上がった。
そして、枕元に座る総司を見つめる。
声を発しかけ、その頬の白さに土方は言葉を呑んだ。
「…総司…」
無言で、総司は手に持っていた書状を土方に差し出す。
それを、受け取って。
書かれている字体に、土方は一瞬呼吸を詰めた。
「山南」
言うと、土方は立ち上がり寝着を脱ぎいつもの黒い着物に腕を通す。
座ったままの総司の腕を掴み、立たせた。
「お前も来い」
言うと同時にその腕を引っ張るようにして部屋を出、廊下を早足で歩く。
「いつ、見つけた」
声を潜めて。
「つい、さっきです」
土方は低く舌打ちをすると、近藤の部屋の前で歩みを止め押し殺した声でその主を呼んだ。
「…トシか、どうした」
「入るぜ、近藤さん」
入って来た二人の様子に、近藤は瞳を細める。
土方と総司が近藤に向かい合って座った。
「……」
無言で土方から差し出された手紙を近藤は受け取り、それを見る。
静かに、それを開いた。
表情を変えず、目を通す。
無言のまま、それを土方に渡す。
土方が受け取り、目を通そうとすると同時に近藤が重い口を開いた。
「…脱走だ」
苦々しく、ただ一言。
総司は、やはりという気持ちとまさかという気持ちで、その言葉を聞いた。
江戸へ帰ると、それだけを書いた書状。
土方の手が、その書状をクシャッと握り締める。
「馬鹿野郎が…」
低い響き。
総司は土方の着物を握り締め、口を開いた。
「昨日…山南さんが突然壬生寺に来ました」
「何」
近藤が尋ねる。
「何か、言っていたか」
「…いえ、何も…」
「嘘をつけ。お前の嘘は俺には通用しない…総司、言え」
土方の切れ長の瞳が総司を射る。
総司はその瞳を真正面から見つめて、それからそっと瞳を伏せた。
一瞬、ためらったように口唇を噤んでから重い口を開く。
「…新選組は、変わってしまったと」
遠く見えた背中は、何かの予感だったのかと今更ながら思う。
掠れた声は、切ない響きも混じって。
「変わってしまったと?山南がそう言ったのか」
近藤が総司に問い掛ける。
俯いたまま、総司は近藤のその声に頷いた。
「…馬鹿野郎…」
土方が、もう一度低く呟く。
訪れる沈黙が重い。
沈黙を破ったのは、近藤の言葉。
「総司、悪いが伊東さん、永倉、原田、斎藤に声を掛けて欲しい」
「分かりました」
言葉少なく、部屋を去る総司の背を二人は見送る。
そして。
「トシ…」
「あぁ、分かってる」
土方は、口唇を噛み締めた。
「総長が脱走した」
近藤は、集まった幹部たちにそれだけ告げる。
「なっ…」
声を張り上げ掛ける原田の口を永倉の手が押さえた。
「何ですと」
伊東の白い面が、更に青白くなり狼狽した様子を見せる。
土方はその様子を横目で見、そして低く言った。
「隊規違反だ」
部屋の中の視線が、土方に集まる。
続く言葉を、待つ。
「…すぐに追っ手を掛けて見つけ次第連れ戻し、切腹させるが掟」
「土方さん…!」
原田が永倉の手を外し抗議の声を上げた。
土方は、それを見てただ無言のまま首を振る。
「…特例は、認められん」
その言葉に、今度は近藤に視線が集まった。
「…惜しい…」
一言。
近藤の言葉に、原田は口を開きかけてそして自分の着物をぎゅっと掴む。
永倉も表情を硬くし、口唇を噛み締めた。
隊規違反者に対する新選組の厳しさを、良くも悪くも最も身に沁みて分かっているのはここに居る幹部たちなのだ。
静まり返る部屋の中で、斎藤は伏せていた瞳を上げ同室の総司の方を伺う。
昨日の夕方、巡察から帰って来た斎藤と、壬生寺から帰って来た総司は屯所の門の前で丁度鉢合わせたのだ。先に戻れと隊士たちに促した玄関の方に、山南の後姿を見た。
山南さんと一緒だったのかと問うた斎藤の声に頷きながら微笑んで応える総司の頬に、上手く隠しきれていない影を垣間見て斎藤はそっと眉を顰めた。
最近いつも顔色の良くないその頬が青白いことを気に掛けながら斎藤は、羽織とその上に重ねて着込んだ隊服を脱ぎ総司の肩に掛ける。
何かあったかと問い掛けても、何も無いとまた微笑って告げる総司に対して、執拗な詮索は出来ない。
込み上げるため息を吐き出した。
昨日の夕方と、先程己を呼びに来た総司の頬の色はどちらが白かっただろうかなどと考えて下を向いた総司の横顔を見つめる。
斎藤の思考を止めたのは、近藤の低い声。
「追っ手は…」
一度口唇を軽く噛んでから、近藤が再び口を開いた。一瞬の、間を置いて。
「総司、お前が行け」
部屋中の視線が、総司に集まる。
俯いていた総司が、弾かれたように顔を上げて近藤と土方とを交互に見つめた。
その瞳に、いつもの総司の瞳の色が在る事に土方は心中ほっと息を付く。
「お前独りで行ってもらう。見つけたら、連れ戻せ…良いな?」
土方の言葉に、部屋の中にいた者が驚きの表情で彼を見た。
その言葉の意味する隠された内容を、試衛館からの仲間は理解して。
独りで行け。
その言葉が、示す意味。
「分かりました」
総司は、土方に向かって淡く微笑い、言うと早々に立ち上がった。
馬を引き、ひたすらに道を駆ける。
まだ冬の寒さが残る冷たい空気が、息を吸う度に総司の弱った肺を刺激した。
込み上げてくる咳を堪える。
「山南さん…」
昨日、彼の様子のおかしさをもっと気にしていれば。
もっと、何か話をしていたら。
あの時、山南へ伸ばした手が届いていたら。
後悔ばかりが襲って来る。
あの誠実で、穏やかな笑顔の主は、一体どれだけ思い詰めていたのだろう。
総司は、手綱を握る手に力を込めた。
堪え切れずに咳をすれば、口元を押さえた掌をうっすらと紅い血が染める。
それを見て、総司は何故かこみ上げる嘲笑を隠そうとはしなかった。
紅く染まるその掌を、固く握り締めた。
京都から江戸へ行くには、いくつかの道がある。
その中で、総司は粟田口から逢坂、大津へと続く東海道を選んだ。
外れているならば、それで良い。むしろ、総司にとってはその方が良かった。
大津には琵琶湖を囲むようにして栄える大きな宿場がある。
そこで一人の人間を探すのは容易ではない。
まして、早朝に京を出た人間がこの時間に大津にまだ居るはずは無いのだ。
通常ならば、の話。
きっと、見つからない。見つけられない。そう、言い聞かせた。
屯所を出る前の土方の言葉を思い出す。
“見つけたら、連れ戻せ”。
…見つけたら。
--------見つけなかったら?
--------山南さん、どうか逃げていて。遠く、ずっと遠くに。
誰にも、見つからない処まで。
祈っていた。
眼前には、大津の宿と琵琶湖が広がる。
馬の足を緩めさせ、総司はその琵琶湖を見つめた。
暮れ始めた夕日が映える。
綺麗だと思った。
その時。
「…総司!」
上から声がして総司は、見上げた。
道沿いに建つ宿の二階の窓から、見慣れた笑顔がこちらに向けて手を振っている。
「山南…さん」
総司は馬から下りて宿の馬蹄所に馬を繋ぎ、宿の暖簾をくぐった。
番頭に取り次ぎ、部屋を案内してもらう。
深々と頭を下げて階段を降りて行く番頭を見送って、総司は部屋の外から声を掛けた。
「山南さん----------私です」
返事を待った。
返事は無く、その代わりに襖が音も無く開く。
すぐ目の前に、いつもの穏やかな表情を浮かべた山南が刀さえ持たずに立っていた。
「総司、お前が追っ手になるとは思ってもいなかったよ…まぁ、入れ。疲れたろう」
言って、平然と自分に背を向け部屋の奥へと戻る山南の背中を総司は悲しげに見つめた。
斬られると、思っていないのか。
彼なりの、覚悟なのかもしれないと思った。
総司は火鉢の前に座った山南にゆっくりと近付く。
向かいに立ち、刀を右手に持ち替えて総司は山南の向かい合わせに座った。
それを見て山南は苦笑する。
「…追っ手として来たのだろう?」
斬らないのかと、言うかのように。
「その通りです」
「…顔色が悪い、無理をさせたな」
こんな状況になってまで、自分の身体を気遣う山南に総司は口唇を噛んだ。
「山南さん…」
言いたい事はたくさんあるはずなのに、言葉が出て来ない。
早朝に京を出たのならば、何故こんな処にまだ留まっていたのか。
何故帰ると告げた江戸へ、急がなかったのか。
…何故、隊から脱してしまったのか。
総司は袴の膝辺りを指先で握り締めた。
「山南さん、どうして…」
「総司」
呼ばれて、山南を見つめる。
山南は、揺れた声音で問うて来る総司に向かって淡く微笑んで、そしてゆっくりと首を横に振った。
「-------−帰りたいと、思ったんだ」
火鉢に両手を伸ばしながら話す山南の口調は、いつもと変わらず静かで。
その変わらなさに、今こうして大津で、山南と二人話している理由を一瞬総司は忘れ掛けた。
「江戸に帰ると書いて、新選組を発った…。随分と変わってしまって、自分の居る意味も場所も分からなくなってしまった新選組からね。--------しかしね、ほんの少し京からひとり離れてみたら…何故だろう、自分が帰りたいのは江戸では無いことにやっと気付いたのだよ」
「…では…何処に…」
山南は一度視線を総司から逸らして、自分の膝元を見つめる。
そして、声も無く肩だけを揺らして笑った。
「本当に帰りたいと思っていた場所は…まだ新選組の中にあったんだ」
総司が瞠目して山南を見上げる。
そんな総司に、山南は瞳を柔らかく細めて微笑み、静かに口を開く。
「昨日…私はお前に新選組は変わったと言ったね」
コクンと頷いた。
そんな総司の様子を見て山南は柔らかく微笑んで。
「…違ったよ、そうではなかったんだ」
そう言って、山南は開ききった窓に視線を向ける。
その外には、夕日に染まった琵琶湖が見えた。
総司も山南の視線に合わせて外を見る。
「綺麗だろう…?」
「…綺麗ですね」
視線は、外を見たまま。
「最近ね、よく試衛館時代の夢を見るんだよ」
山南が続ける。
「試衛館の時は…本当に楽しかった。きっと私が一番充実していたのはあの時だったろうと思う」
「…山南さん」
山南の横顔に、笑みが浮かんだ。
「皆で、花見をしたり…花火を見たり、とにかく毎日騒がしくて…楽しかったなぁ、総司」
「えぇ…そうですね」
その思い出は、総司の中にもはっきりと残っていて。
笑い声も、まだ鮮明に思い出せる。
「京都に来て、刀を振るい、血を浴びる日々にいつしか慣れて--------景色が、こんなにも鮮やかなものだなんてずっと…忘れていた」
総司は、山南の横顔を無言で見つめて彼の話に耳を傾ける。
「気付けば、こんなはずではなかった、昔はこうではなかったと…そう、思ってばかりの毎日だった」
山南の視線が総司を捕らえ、その瞳は真っ直ぐに総司を見つめた。
「変わってしまったのは、他でもない--------この、私だったのかも知れないな」
柔らかな光を宿した瞳が、優しい色を湛えて微笑む。
総司の胸が、締め付けられるように痛んだ。
「それが分からずに…いや、分かりたくなくて…逃げ出してしまったんだ」
「山南さん…」
声が、震える。
「弱くなったと、可笑しければ笑ってくれ。でも…これが私の今の真実なんだよ」
寂しそうに、山南が笑った。
総司は、首を大きく横に振る。
「総司、お前は強いから…純粋で真っ直ぐだから…どうかそのままで」
「…っ強くなんてありません…私は…こんなにも無力で弱い…」
総司の言葉に、山南は静かに首を振った。
「総司…人間とは、どんなに強がっていても結局は弱い生き物なんだよ」
その言葉に、総司は顔を上げて山南を見る。
「その中で、どれだけ己らしく在れるか…流されずに生きて行けるかが大切なのだと私は思う」
山南は微笑んでスッと席を立ち、総司の横に座り込む。
そしてその肩を優しく抱いた。
「総司、お前は自分に降りかかる全ての事をその身体で逃げる事無く受け止めて来た。 辛い事があろうが周囲にいつも笑顔で、優しく接してきただろう」
まるで年の離れた兄が、弟を説き伏せるように。
「お前のその心の優しさは意志の強さゆえだ。剛と柔と、お前はその両方の強さを持ってる。どうか、柔の強さの…その優しい心を変わらず持ち続けていて欲しい」
総司が、山南を見上げる。
「確かに今私はお前を強いと言った。だがね総司、お前は必要以上に周りに気を遣い過ぎる…昔からそうだった。試衛館に居る頃、そんなお前を眩しいとも思い、同時に心配に思っていた」
視線が合うと山南はそっと瞳を細めて微笑んで見せる。
「辛い時は辛いと、言って良いんだ。皆に言えとは言わない。でも、心の内を明かせる者が居るだろう?…抱え込むな。隠さずとも良いんだ。きっと…いや、必ず…傍にお前を受け止めてくれる者が居る」
「山南さん」
「お前は、もっとわがままに生きて良いと私は思うんだよ…総司」
昔と変わらない、穏やかな色がそこには在った。
山南の静かな口調が心に響く。
「…山南さん…」
微かに震えた総司の声が耳に届くと、山南は頬に困ったような表情を浮かべた。
「人を斬ることが、もう私には出来なくなった…そしてこれから、変わらず人を斬ってゆく 仲間たちを見るのは私には耐えられない。どうも私は暫く現場から離れている内に腑抜けになってしまったようだ」
火鉢の中の炭が、パチンと音を立てる。その音が、妙に耳の奥に響いた。
その音に誘われて再び視線を上げると、柔らかい微笑が総司を見つめていた。
「総司、人間は何かのために生きるそうだ。…お前には、まだその何かがあるだろう?」
ひとりの顔が浮かんで、総司は無言で頷く。
「なら、生きねばならないだろう?私にはね、総司、もうそれが分からなくなった…悲しい事に もう…見つけられなくなってしまったのだ」
生きる意味が、もう見つけられないと。まるで、そう言うかのように。
「…でも…」
俯いたまま、総司が口を開いた。あまりにもその声は小さく、山南は聞き返す。
「…何?」
「それでも私は…山南さんに生きていて欲しい…」
闇色の大きな瞳が、山南を見つめて切なそうに揺れる。山南は総司の言葉に瞠目した。
「貴方は、私が追うよりももっとずっと遠くへ行っていて、私は山南さんを見つけることは出来なかった。…それでは駄目なのですか?」
「総司…」
「生きていて欲しいと、そう願ってしまうのは…山南さんにとって辛いだけですか」
それだけ言うと、総司は紅い口唇をそっと噛み締める。心なしか潤んだ瞳。
山南はそれを見て一瞬瞳を伏せ、口元に淡く笑みを刻んだ。
「…ありがとう…総司」
静か過ぎる山南の声音に、総司はもう彼に言葉は無用なのだと思った。
もう、何も言えない。
一瞬の沈黙の後、山南が窓の外に瞳をやって言う。
「総司、お前が追っ手で…こうして話せる時間が出来て…本当に良かった」
その横顔の目尻に、光るものがあったが総司は口唇を噛んで見なかったふりをした。
「お前のその笑顔と、優しさに私はいつも…救われていたよ」
この穏やかな声を、ずっと自分の中に焼き付けようと総司は必死に山南の声に耳を澄ます。
「…明日、私がずっと好きだったあの場所へ…総司、共に帰って欲しい」
俯いて、総司は袴を握り締める。
震える指先をごまかすように、袴を握るその指に力を込めた。
山南が帰りたかったのは、何処なのか。
痛いほどに分かって、総司の胸が痛んだ。
潤んでくる視界を押さえられない。
口を開くと吐息が零れそうで、総司は必死に震える口唇を噛み締めた。
「…帰ろう--------皆の居る場所へ」
…試衛館へ。帰りたかったのはあの場所。始まりの場所。
ゆっくりとした瞬きと共に、きつく握り締めた総司の拳に一粒、雫が零れた。
---還りたい、あの日。
還れない、あの時---
「遠き春」-下-へ続く
土沖