晴れすぎた空 6



静かな夜だった。

自室に戻るため、廊下を歩いてゆく。

歩き慣れた道のはずなのに、今日はやけにそれが長く、冷たく感じる。

角を曲がり、障子の前で立ち止まる。

一息吸い込んで、声を掛けかけて。

「……あぁ、」

そうだ。もう、そんな必要はないのだ。

すらり、障子を開ける。

目の前に飛び込んでくるのは、暗闇。

見慣れた姿も、其処にはない。

部屋に戻ったらいつも其処は、行燈の仄かな光で明るかった。

それは、居なくなってしまった彼の小さな心遣いで、優しさだったのだと。

ひとり、思い知る。

嗚呼、居なくなってしまったのだと。

奥深い寂寞感が込み上げた。

行燈に火をつけて、いつも彼が座っていた場所に座ってみる。

ぐるりと部屋を見渡してみて。

こんなにもこの部屋は広かったのだと、こんなにもこの部屋は静かだったのだと初めて気付いた。

彼から会話を始めて来ることは少なかったけれど、此方から他愛のないことを話し掛ければ、彼はいつも穏やかな笑みを浮かべて静かな低い声で、応えを返してくれていたのだ。

ぼんやりと、そんなことを思う。

こんな風に時を過ごしても、良いことは頭によぎらない。

そう思って、床に就くには早いが今日は寝てしまおうなどと思い、腰を上げた。

正しくは、上げようとした。その時。

胸が急に熱くなり、喉をせり上がって来る感覚が込み上げた。

咄嗟に、口元に掌を当てる。



こほ、こほ、こほっ



乾いた咳が込み上げる。



こほ、ごほ、ごほっ



止めたいと思っても、それは己の意思通りになるはずもなく。

膝を付き身体を折り、咳が治まるのを何処か他人事のように待っていた。

なのに、咳は止まることを知らず繰り返し、繰り返し、零れ出す。

縋るものを求めるように伸ばした指先は、ただ冷たい畳に届いた。

其処に、きつく爪を立てる。

そうして。

幾度目かの咳が込み上げて来たのと同時に。



びしゃっ、



水を零してしまったような、音。

刹那、くらりと頭が振れる。

畳に付いた手に力を込め、倒れ込みそうになるのを堪えながら瞳を開けた。



紅(あか)が、目に留まる。



今までに、見たことのない多量の、紅 だった。







総司が、自室で静けさを感じていたのと同じ頃。

巡察から戻った永倉は、その足で総司の部屋に向かっていた。

いつもにこにことしている癖に、やたら寂しがり屋の彼を想って。

ひとりになってしまって、寂しがっては居ないかと。

心配するなと言う方が無理なのだ。

ほんの少しの話し相手になってやれればと。

ただそれだけの想いだった。

それは、多分兄が弟を案じるような、自然な想いだ。



長く続く廊下を歩き、角を曲がったところで、小さく咳き込む音が聞こえた。

歩いて行っても、それは続いている。

それに気付いた永倉はそっと眉を寄せて足の運びを速めた。

部屋の前に着く直前、咳が止まる。

そして、永倉も聞いたのだ。



何かが、零れる音を。





「…総司?」



この部屋の中から、確かに咳が聞こえた。

部屋に居るはずなのに。

込み上げる嫌な予感のまま、応えを待たず永倉は勢いよく障子を開けた。

「…っ、」

目の前に飛び込んで来たのは、-----------紅。



「総司っ」

何かを考えるよりも先に、足が動いた。

紅に覆いかぶさるように畳に蹲った身体を抱き上げた。

抱き上げたその身体の軽さに驚愕しながら、永倉は総司の肩を揺らす。

「おい、総司っ」

声に、真っ青な頬がぴくりと動き、長い睫毛で縁取られた瞼が震えた。

ゆっくり、薄らと総司は瞳を開けた。

「…永、倉…さん…?」

総司の口元の血を懐紙で拭い、永倉は抱き上げた身体を抱え直す。

「待ってろ、今、人を…」

言って、畳に総司の身体を横たわらせようとした、その瞬間。

この細い指の何処にそんな力があるのかと思わせるほど強く、総司の指先が永倉の腕を掴んだ。

「…呼ば、ないで…っ」

ぎり、と腕が軋むまで強く。

総司の指先は、永倉の動きを留めるほど強く握り締める。

「誰にも、…知らせないで、ください…」

縋るように見上げて来る闇色の瞳が、鈍く光った。

「総司…」

「もう、…平気、ですから…」

意志の強い瞳が、引き歪む。

「あの人には、…土方さんには…絶対に知らせないで」

喘ぐような呼吸の中、必死の形相で告げて来る総司に、永倉は知らず息を詰めた。

白い総司の頬と、畳に散った紅とを交互に見て、そのまま言葉を失って。

我に返ったように、抱き上げた総司の肩をきつく掴んだ。

「でも、お前っ…」

「これ以上…負担を掛けさせたくないのです…」

泣きそうに引き歪む闇色の瞳は、揺れながらも真直ぐに永倉を見つめて来る。

総司の頑固さはよく知っている。

…けれど。

一瞬でも迷った永倉は、自分を叱咤するように口唇を噛み締めた。

「…分かった」

呻くように告げた永倉の声に、やっと総司の指先から僅かに力が抜ける。

「誰も呼ばないし、…誰にも言わない」

声を殺して低く告げた永倉に、総司が微笑った。

総司の微笑に永倉も僅かに口の端を上げると、その身体を畳にそっと横たわらせて押入れから布団を引き出した。

慣れた手付きで手早く布団を敷き、押入れの葛籠から総司の寝着を取り出す。

「待ってろ、水を取って来る」

畳に手を付いて立ち上がろうとする手に、総司の手が重なった。

その先に在る顔を見やると、不安そうに揺れた瞳。

永倉は総司に向かって笑い、総司の頭に掌を置いてくしゃりと髪の毛を撫でた。

「…大丈夫だ、水を取って来るだけだ。俺を信じろ」

永倉の声に総司は安堵したように小さく頷くと、畳に身を横たわらせて瞳を閉じた。

部屋から顔を覗かせ、左右を見やってから永倉は部屋を出ると足早に井戸に向かう。

手桶に水を汲み、自室に寄って手拭を取り出して総司の部屋に小走りに戻った。

障子を開ければ、血に濡れた着物をゆっくりとした動作で総司が脱ごうとしているところで。

「待て、着替える前に血を拭け」

永倉は手桶に入れた手拭を固く絞ると、血の付いた総司の口元や掌、首や胸元を手早く拭ってやる。

「…ありがとう、永倉さん…」

静かに総司は言うと、寝着をつけた。

「気にするな」

布団まで手を貸してやり、そっと横にならせる。

「…ごめんなさい」

掛け布団を掛けてやると、総司が声を震わせて小さく言った。

永倉は総司の方に手を伸ばし、先ほどしたように頭を撫でて。

「謝るんじゃねぇよ、水臭いぞ」

滑らかな黒髪を暫く撫でて、永倉は笑みを浮かべていた口の端をきつく結んだ。

「…寝ろ」

「はい」

「暫くは大人しくしていろ」

敢えて永倉も医者に行けなどとは言わない。

嫌々ながらも、近藤と土方の言いつけを守って医者に通っていることも、苦いと文句を言いながら薬を飲んでいることも永倉は知っているからだ。

…今のままでは、それ以上を施すことなど出来ぬことも。

そして、総司が今以上の治療を望まぬことも。

痛いほど、知っていた。

「…総司、額を貸せ」

言って、掌を額に伸ばす。

熱はないようだ。そのことに永倉は少しだけ安堵する。

「寝付くまで、居てやる。…だから、安心して寝ろ」

「…そうやって永倉さんはいつも私を子供扱いする」

言う通り、まるで子供が拗ねるような顔で見上げて来る総司の額を軽く小突いた。

「……心配してるんだよ」

「…ごめんなさい」

「謝るなと言ってるだろ」

「永倉さん」

「…ん?」

「…ありがとう」

それだけ言うと、総司は微笑って、ゆっくり瞳を閉じた。

大人しく閉じられた瞼に、永倉はそっと吐息をつく。

白い頬を見つめていると、すぐに安らかな寝息が聞こえて来た。

安らかな寝顔に、隠し切れない疲労の色が浮かんでいることに永倉は眉を寄せる。

体調が優れないだけではないのだ。

それは、分かっている。



着物の袖を捲りあげ、先ほど総司が握り締めていた腕を見つめる。

勿論、痕などは付いていない。

けれど、目を凝らせば指の跡が痕が見えるのではないかと言うほど鮮明に、あの力の感覚は残っていて。

縋るような瞳を、荒い息の中紡がれた言葉を、脳裏から消せない。

「……」

自然、口が動き掛けて。

気付いた永倉は、それを止めた。

誰の名を、呼ぼうと思ったと言うのか。

土方か。

-----------それとも。

密命を帯びて去ってしまった、彼の名か。





早く、戻って来い、と。

言えるものならば、言いたい。

……けれど。

斎藤が戻って来る時、それは。

大切な友の、最期を意味するのだと永倉は気付いている。

己が望むのはどちらなのだろう、などと思って瞳を伏せた。

選べるものならば、どちらも取りこぼさぬようこの腕で引き留めたい。

しかしそれが叶わぬと分かっているからこそ、心は揺らぐのだ。

無表情で無口で無愛想なくせに、不器用な優しさで総司を心配する斎藤の背を思い浮かべた。

己も、思い悩んでいる。

けれど、それ以上に密命を帯びた彼は思い悩んでいるのだろう。

胸の奥が、きりきりと痛む。





「…死ぬなよ」





誰に、ともなく。

永倉は、低く呟いた。





------近付く、別れの予感。
暗い足跡は、静かに、
けれど確かに、寄り添って。
耳を塞ぐことなど、
赦されぬと分かっていても、
それでも、------



続く

土沖←斎








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