晴れすぎた空 3
大切なものが 出来れば
弱くなるのだと 思っていた
そう、 思っていた
己 こそが
弱かったのだと
やっと 気付いた とき
大切なものは 指先から
零れ落ちて ゆく
「ありがとう、一さん」
すっかり陽も落ちた部屋の中に、総司の静かな声が響く。
斎藤は静かに腰を上げると、行燈に火を灯した。
淡い火が部屋を灯し、微かに吹き込んで来た風にふわりと揺れた。
仄かな明かりの中、視線を感じて斎藤は其方に視線を向ける。
穏やかな笑みが、視線の先にはあった。
「…何に礼を言われているのか分からんな」
「約束、…してくれたでしょう?」
ふふ、と。いつものように。
総司が柔らかく微笑う。
何故なのだろう。
目の前の彼の人の笑顔には、不思議な力があると思ってやまない。
激しくさざ波立った心も、冷えた心も、荒んだ心も。
やわらかく、溶かすのだ。
嗚呼。この笑顔を傍で、と思ったのは、一体いつのことか。
「…信じてますから」
思案を止めるのは、何時も彼の人の柔らかい声。
「…ずっと」
何も言えず。ただ。
静かに微笑を浮かべる総司の顔を、斎藤は焼き付けるように見つめ続けた。
「一さんを、私は信じていますから」
---------例え、他の誰が、何を言おうとも。
何を、しようとも。
信じている、と。
盲目的とも言えるほどの信頼を。
何故かも、分からないけれど。
信じられるのだ。信じて、いたいのだ。
「私は、一さんを信じていたい」
真直ぐに。
真正面から見つめられ、その闇色の瞳の光の強さに斎藤は危うく目を逸らしかけた。
白い頬を、行燈の柔らかい光が照らす。
その頬に、触れたいと。思って。
手を、差し伸ばし掛けて。
総司の眼前で、その手を握り締めた。
そのまま、差し出し掛けた手を引こうとした、その刹那。
ふわりと、斎藤の大きな手を包むのは総司の白い手。
その、不意の行為に驚きを隠せず、更に引こうとした斎藤の手を細い手が引き止めた。
「…どうして、触れてくれないのです?」
応(いら)えに詰まるようなことを、静かに問う声。
「こんなに、傍に居るのに」
言って、総司は斎藤の手を取ったまま、それを己の頬に寄せた。
そして斎藤の手の上に自分の手を重ねる。
重なった手を払うことも出来ず、困惑した表情のまま斎藤は身体を固めた。
身動きをすることを忘れてしまったかのようにただ、座ったままの斎藤に総司はそっと微笑った。
「一さん、私はね」
僅かに。
斎藤の手に重ねられた総司の手に、力が込められる。
「私は、一さんの手が好きです」
そっと。骨と筋とが浮いた、斎藤の手の甲を、総司の細い指先が撫でた。
「…人斬りの手だ」
戸惑ったような斎藤の声に、総司が淡く笑って。
「それは、私の手も同じです」
斎藤の手に触れていた総司の手が、僅かに震えた気がした。
「一さんのこの手が、」
震えていたと感じたのは幻だったのかと思えるほどに。
この細い手の何処に、こんな力があるのかと思えるほどに強く。
「たくさんの命を守って来た」
総司の手が、斎藤の手を握り締めた。
「…奪った命の数よりも多くの命を守って来た」
音が鳴るのではないかと思えるほど熱く、視線が絡んだ。
「新撰組を、近藤先生を、土方さんを、みんなを、…守って来た手です」
闇色の瞳が、薄らと細められる。
まるで泣くように、総司は笑った。
「…そして、私を救ってくれた手です」
硝子細工に触れるように、そっと。
総司の指先から力が抜けたかと思うと、その指先が斎藤の指の間を埋めるように絡められる。
「……総司」
絡められた指先に、知らず斎藤は力を込めて握り締めた。
眉を顰めたまま、それでも瞳を逸らさない斎藤に、総司は微笑んで。
「一さんは、何度も何度も私を助けてくれましたね」
静かに告げる声は、揺るがなく。
けれど、確かにこの胸の内を揺るがすのだ。
そっと優しい手で。
奥の奥に潜めさせた想いさえ、引きずり出そうとする。
しかしこの目の前の彼の人は、そんなことさえ意図してはいないのだ。
勝手に心を揺らがせているのは、己であるだけで。
「だから、私は一さんの手が、…一さんが好きだ」
感情を溢れ出してしまいそうな闇色の瞳が、綺麗だと思う。
何度もこの手が救ったと、助けたと、言うけれど。
しかし、どうだ。
真に救われ、こうして助けられていたのは、己の方ではなかったか……?
けれど、もう。
こんな風に、触れ合う日は決して来ない。
もう二度と。
救いなど、求めてはならぬのだ。
この手で、守りたいなどと。
祈ることができるものか。
斎藤は、そっと重なった総司の手を離させた。
「お前が本当に掴むべき手は、この手ではない」
静かに、低く。
何の感情も窺わせない声で、告げた。
突き放すように。
「お前を守っている手も、救っている手も、…この手ではない」
勘違いをしては、ならぬのだ。
この手はただ。
不安定に揺らぐその時だけに、卑怯に差し出した手。
そして、離れてゆく。
「一さん…」
確かに戸惑いを浮かべた闇色の瞳が揺れた。
続く