晴れすぎた空 16
出かけて行く土方の背を見送り暫くして、総司は立ち上がって刀を腰に差し部屋を出た。
庭に差し込む陽は明るく、あたたかかった。
「一さん…?」
障子が閉じた、隣室に声を掛けたが応えはない。
静かに障子を開けると、部屋の片隅にまだ開かれていない包みが数個あるばかりで、斎藤の姿はなかった。
何処に、と思ったその脳裏に蘇ったのは、あの日の夜のこと。
あんな姿は、初めて見た。
初めて見せられた弱さに、心が確かに震えた。
いつも強く、そっと傍に在ってくれた男の背を想う。
左腰に差した脇差の柄に触れ、総司は屯所を出た。
屯所から、向かう場所はそう遠くはない。
歩く足取りも、ここ最近の中では思い出せないほど軽かった。
けれど、向かう場所に近付くにつれて、足取りは知らず重くなる。
向かうのは、穏やかな笑みをいつも浮かべた、少し年の離れた優しい兄のようだった彼に会いに、何度も足を運んだ場所。
門の前で、一度立ち止まった。
ひとつ吐息をついて門をくぐり、寺の敷地内を歩いて行く。
少し離れた其処に、探していた背が在った。
いつもの彼ならば、この距離でいつも振り返る。
そして名を呼んで、そっと笑ってくれるのだ。
けれど、探し人は振り返らず、立ち尽くしたままだった。
近付いて行って、彼が立ち尽くす所以を理解した。
彼の目の前にあるのは、真新しい墓石。
其の墓前には、見るからに高級そうな酒が置いてあった。
「…来たのか」
まもなく横に並ぶ、と言う距離でやっと、斎藤が口を開く。
「えぇ」
その場所で、総司は立ち止まった。
暫し、その背を見つめる。
「会いに来たのと、それから」
真新しい墓石を、それから斎藤の背を、総司は見つめた。
「約束を、果たしに来た」
「…約束?」
静かに問う、斎藤の横に並ぶ。
並んだ総司に、斎藤が視線を向けた。
その表情は、いつもの斎藤のものだった。
あの日の揺らぎなど、嘘だったかのように。
一重の、静かな瞳が其処には在った。
「今度は、私が探すと言った」
「…今の俺は、迷子(まよいご)か」
低く、斎藤が喉の奥で笑う。
「…一さんが、迷子になる前に探しに来た」
そっと言うと、総司は斎藤に微笑い掛けた。
「…そうか」
纏う気配を柔らかいものにして、斎藤もそっと微笑う。
その笑みを見て、総司は真新しい墓石の前にしゃがみ込み、静かに手を合わせた。
暫しそのまま、手を合わせる総司の細い身体を、斎藤は見た。
頬に影を落としていた睫毛が揺れ、闇色の瞳が墓石を見て、そして微笑う。
慈しむような手付きで、其れを撫でた。
「…会いに来た」
静かに告げる総司の横顔を、斎藤はそっと見つめる。
白い頬には穏やかな笑みが浮かんでおり、悲愴は奥に隠れて見えない。
不意に視線を横にやった総司に倣う。
山南と刻まれた墓石の前に今度はしゃがみ込むと、徐に総司は墓石の前の土を手で掘り始めた。
気でも違ったか、と思える行為に斎藤は一瞬眉を寄せ、それから総司の着物の懐から覗く紫苑色を見てその真意を悟った。
周りを見渡して、木片を見つけるとそれを手に取って総司に差し出した。
「怪我をする」
一言そう言って、総司に並んでしゃがみ込み土を掘る。
総司は差し出された木片を受け取って、そっと微笑んだ。
横に五寸程、深さで三寸程掘ったところで、総司は懐から紫苑色の下げ緒を取り出して其処に置いた。
「藤堂さんの心は、きっと山南さんにも届いていた」
総司と藤堂のやり取りを、斎藤は何も知らぬ。
けれど、総司のその一言で、何か感じたように瞳を伏せた。
「だけど、藤堂さんはそう思っていなかったみたいだから、思いを、…心を届け直す」
小さく笑って言うと、総司は手で掘り返した土を下げ緒に少しずつ掛けていった。
白い横顔は、何の感情も浮かべず、ただ静かに下げ緒を土に還す。
感情を押し殺した横顔に、嗚呼、この男は泣きたいのに泣けないのだと思うと、斎藤の胸が重くなった。
「…藤堂から、伝言を受けている」
言うと、一瞬総司の手が止まる。
「聞かせて、もらえますか?」
止めていた手を動かして、総司は静かに斎藤に言葉を強請った。
「すまない、それから、…ありがとう、楽しかった」
再び、総司の手が止まる。
指先が、震えていた。
俯いた白い顔。結わいだ黒髪が、肩から流れた。
ぽたり、
動きを止めた白い手の甲に、雫が落ちる。
ひとつ落ちると、ふたつ、みっつ、ぽたり、ぽたりと甲に落ちていく。
斎藤はその甲を見つめて、動きを止めた手の代わりに土を還していった。
盛った土を掌で押し整えた斎藤の手に、白い手が触れる。
「…一さん」
応えを返さず、されるがままにしていた斎藤の手を、総司の掌が握り締めた。
「まだ、…責めているのですか」
「……分からん」
責めていないと言えば嘘になる。
責めて藤堂が還って来るのであれば、いくらでもこの身を責めるだろう。
けれど、それも叶わない。
「…何故、此処に来たのですか」
謝りに来たのかと、まるで問うような声だった。
そして、そうではなければいい、と、訴えるような声だった。
「…誓いに、来た」
裏切る己を知りながら、友だと言った藤堂に。
誓いを。
「決して、何も見失わぬと、…この命の限り、生きると、……誓いに来た」
最期に友が望んだ誓いを今一度、より強いものとするために。
此処に、来たのだ。
何も、見失わぬ。
目も、逸らさぬ。
全て見て、受け止める。
この、目で、手で。
「…裏切り者が、唯一藤堂にしてやれることだ」
「裏切り者ではない。…藤堂さんも、そんなこと、思っていない」
僅かに土で汚れた指先で、総司は斎藤の頬に触れた。
「たとえ御陵衛士や他の誰かから裏切り者と言われても、私は違うと言う」
「…総司」
「一さんは一さんだ」
しゃがみ込んでいた膝を土について、総司は真正面から斎藤を見つめた。
「今も、昔も、変わらない」
涙で濡れた頬を指先で拭おうとして、その手を止めた。
土がついて汚れていたせいもある。
それよりも、やはり何を言われても己は裏切り者なのだと言う後ろめたさがあった。
そんな者の手で、総司に触れたくはなかった。
なかったのに。
「だから、前のように触れてください」
途中で止めた手を、いつかのように握り締められた。
驚くほど強い力で、きつく。
「…汚れてしまう」
深く思慮したけれど、結局出て来るのは薄っぺらな言葉。
それに斎藤はそっと自嘲した。
そんな斎藤に総司は、柔らかく瞳を細め、ゆっくりと首を横に振った。
「汚れない。…たとえ汚れても、構わない」
涙に濡れながらも揺らがない闇色の瞳が其処には在った。
強い、光を宿した瞳が在った。
「また、触れても良いのか」
----------この手で。
白い、お前に。
「まだ、傍に居ても良いのか」
----------この身は。
其の、傍に。
「貴方が居ない日々は、嫌だ」
差し出された、腕。
戸惑うようにその腕を見ると、総司は微笑った。
「…総司」
低く、名を呼んで。
差し出された腕を引き、抱き寄せた。
腕の中で、細い身体が震えた。
「一さんが居ないのは、もう嫌だ」
あの人の代わりなどと。この腕の中に居る身体は露も思っていないのだろうが。
抱き締めながら、代わりでも良いなどと、愚かなことを思って嘲笑った。
結局、どんな御託を並べても己は彼の人から離れることなど出来ぬのだ。
離れたくないのだ。
あの人を、全身で守る総司を傍で見て、傍に居て、支えたいと言う想いはいつだって変わらなかった。
そしてこれからも、変わらぬだろう。
それだけは、明確に分かっていた。
あの人が言うように、総司が真にあの人の前では弱音を吐かぬと言うのなら。
弱音を吐けぬと言うのなら。
それならば、全て己が受け止めよう。
総司が、決してひとりで揺らがぬよう、ひとりで泣かぬよう、傍に在ろう。
----------俺は、それだけで、いい。
それだけは譲らぬ。
これだけは見失わぬ。
離れながら、総司を気に掛けていた藤堂(とも)に誓う。
抱き締めた腕に力を込めて顔を寄せると、堪えた慟哭が耳を掠めた。
零れ出す慟哭のひとつさえ、こんなにも愛おしい。
「…ならば、傍に在ろう」
声に、小さく総司が頷いた。
永久に、などと愚かなことは言わぬ。
しかし。
叶うのならば、この愛しい男の最後に吐き出す呼吸までも見届けられたなら、と。
想い、願う己を愚かだと笑うなら笑えばいい。
「----------共に、お前と在ろう」
再び、小さく総司が頷いた。
背に回された指先に、力が込められたのを感じる。
風が、そよいだ。
藤堂の、朗らかな笑い声が聞こえた気がして顔を上げた。
総司の肩越しに。
瞳に、飛び込んで来たのは、
蒼い蒼い、空 だった。
終
晴 れ す ぎ た 空
土沖←斎
逝ってしまった君へ、
もう一度誓おう、
永久に友だ と、