ためらいの息吹



高層階にあるその部屋はシンプルでモダンな家具で装飾され、室内に漂う花の香りさえも高級感に満ち溢れている。弾力性に富んだひとりで眠るには大きすぎるベッドの上、キメ細やかな白肌を惜しみなく晒し背中を隠すほどに長い黒髪を散らばせ横たわる女もまた極上だった。---これから俺が抱こうとしている女。俺よりもずっと年上で、当然恋人なんかじゃない。ただ、セックスをしたいときにだけ会う関係。カラダは重ね合わせても、心が交わることは決してない。

「……琉夏くん?どうしたの?」

今夜も俺は、このひととセックスしたいからここへ来た。キスをして、見るからに高そうな下着を剥ぎ取りまたキスをする。心の準備は万端だった。なのにカラダが反応しない。勃たないんだ。

「疲れてるのかな?少し時間…おいてみる?」
「……ゴメン」

気にしなくていいのよ。彼女はグロスで濡れた唇の口角を上げ柔らかに微笑んだ。目下でしなやかな肢体を開いているのは抜群のスタイルを保ち、モデル並みの美貌をもった美しいひと。だけど俺が本当に欲しいのは、抱きたいのはこの女じゃない。性欲は満たされてもいつだって気持ちが追いつかない。追いつけるハズがない。そんな夜を度々過ごしてきたけれど、それも今夜で終わりみたいだ。

「やっぱり俺、帰る」
「えっ?」
「もう会わない。……バイバイ」

吐き捨てるように呟きシーツから抜け出すと、床に脱ぎ捨ててあった衣服を拾い集め身に纏う。そして誕生日プレゼントにと貰ったばかりの名の知れたブランドの腕時計とこの部屋の合い鍵をガラス製のサイドテーブルに置くと、後ろも振り返らずに部屋を出た。---あっけない。簡単すぎるんだ。始まりも終わりも、男女の関係なんて。こんな別れ方、なにも初めてのことじゃない。でも自業自得とはいえやっぱりそれなりに後味は悪い。だからもう、これっきりにしなければ…。カラダにまで支障を来たすほど頭の中を埋め尽くしてしまっている絶対的な存在がある限り、俺は(遊びであっても)二度と他の誰かを抱くことなんてできない。たとえそれが、一方通行の想いだったとしても。

(我ながらシュールかましすぎだ…)

それからどこかへ立ち寄ることもせず単車を走らせ家に帰ると、だらしなくダイニングソファーに腰掛け雑誌をめくるコウと目が合った。

「よぉ。お早いお帰りで」
「……」
「また女遊びか?」

蔑むようなコウの眼差しが、隣を横切る俺を追う。

「…んなこと…、テメェに関係ねぇだろ?」

きっとコウは俺のすべてを見透かしている。俺がいままでどこにいて、何をしようとしていたのかも。だからこの時も妙な気恥ずかしさを隠せなくて、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをコウに背を向け一気に飲み干した。

「クッ…。図星かよ」
「……」
「アイツが知ったらどう思うだろうなぁ」

---どうしてオマエがそれを言う?頭の血管がブチ切れそうだった。俺がどんな思いでここへ戻って来たのか、知り得ているハズもないコウはさも面白おかしく声を上げ俺をあざ笑う。そして気が付いたとき…俺は、握りしめていた空のペットボトルを力任せにコウに向かって投げつけていた。

「---っぶねぇなおいッ!」
「……何も…知らねぇくせに…」
「あぁ!?」
「アイツが興味あんのは…、俺じゃねぇよ」

当然、それはコウには当たらない。そうならないように狙いを外して投げたからだ。もしもこれでまたコウが怪我でもしてしまったら、アイツが…ミナコが悲しむだろうから。

「おい、聞いたか?オマエ、コイツのために何時間も待ちぼうけくらってんのにな」
(えっ…?)

呆れたようにそう言い放ったコウの目線が見つめる先、階段を途中まで上り詰めたその場所に小さな影が。

「……ミナコ?」
「あっ…、ごめんね?わたし…っ」

俺とコウのこれまでのやり取りを、そこにいて全部見てしまったんだろう。明らかに動揺し上ずった声をあげたミナコが、階段の段差を駆け下りて来る。

「今日、琉夏の誕生日でしょう?だからこれ…どうしても今日中に渡したくて…」

---待ってたの。そう言って、いまも冷蔵庫の前に佇む俺の傍まで歩み寄り、色鮮やかな青い包装紙に包まれた正方形を差し出し微笑んだミナコの表情がどこか悲しげだったのは、俺の思い過ごしだろうか。

「ミナコ…」
「……じゃ、また明日ね」

この包みの中身はたぶんCDだろう。俺の手の中にそれがしっかりと納まった瞬間を見届けたミナコは、少し疲れた笑顔を浮かべて踵を返すと、出入り口に向って足早に駆けていく。

「待てよ!俺、送ってく…!」

カウンターの向こう側から咄嗟に掴んだ手首だった。

「いい!…彼女に、恨まれたくないし」

でも、簡単に振り解かれてしまった。取り返しの付かない誤解を背負ったまま、ミナコはココから立ち去ってしまったんだ。

「……ルカ」
「……」
「何ひとつマトモにわかっちゃいねぇのは俺じゃねぇ。テメェだろ?」

コウの呟いた言葉にどんな意味があるのか、俺には到底信じられなくて真正面から受け止めることなんてできない。それでも本能だけは、自分の想いに忠実だった。地面を踏みしめていた両足が、アイツを追いかけたいって言ってる。

「待て。バカルカ」
「っ…?」
「アレだ。女のニオイがするモンは、全部脱いでけ」

---さすがはおにいちゃん。今夜は特別冴えてるな。普段は女心をまるで理解できないくせに、このときだけは的確なアドバイスをくれたコウの肩口を一度だけ叩くと、派手な香水の香りが纏わりついたシャツを脱ぎ捨てWest Beachを飛び出した。

「ミナコ!」

海面を映す月の光が僅かに明るく照らしだす闇の中を、たったひとつの存在を求めてひたすらに走る。向かう方向はこちら側しかないとわかっているのに、なぜかアイツの姿が見つからない。

「なんでいねぇんだよ…っ!」

苛立ちが疾走する両脚をさらに軽くさせる。こんなことなら単車で追えばよかったな。あの時の俺にスロットルを開ける余裕なんてとてもなかったけれど。夏の夜とはいえ、上半身素っ裸で全力疾走してる俺ほど青春を謳歌してるヤツもそういないだろう。

「ミナコ…ッ!」

不意に打ち寄せる波間に目線を流したときだった。砂の上をユラユラと歩く人影がそこに。

「ミナコッ!!」

きっとそれなりの高さがあるだろう防波堤を飛び越え、無事着地した砂浜をおぼつかない足取りでミナコの背中を目指し駆けだす。

「っ!や…ッ」
「待てって!なぁ!ミナコッ!」
「やだっ…!いやぁっ!」
「---うわ…ッ!?」

追いかける俺を拒み走り続けるミナコの腕を安易に掴んでみせたけれど。柔らかな砂にもつれた足がバランスを崩しミナコごとその場に倒れ込んでしまった。

「ッてぇ〜…」

転んだ衝撃でミナコの上に乗り上げていた上半身を腕の力だけで起こし見下ろせば、顔じゅうを砂と涙(汗かも)でまみれさせ咳き込む彼女が横たわっている。

「ゴメン。…でも、……やっとつかまえた」
「っ…」

その、俺を睨みつける目元と頬を濡らしているのが涙だとしたら。

「どうして泣いたの?」
「ッ、泣いてなんかないも…っ」
「ウソ。目真っ赤だし。…そんなにショックだった?」

辺りは真っ暗で目の色がどんなかなんて把握できるワケがないのに。まんまと俺の口車に乗ったミナコの双眸がじわりと潤む。

「……頼むからさ…、言い訳くらいさせて?」

---彼女なんかいない。俺が欲しいのは、好きなのは、オマエだけだって。



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