水色ヒーロー


「お疲れさまでしたー」

今日のアナスタシアは沢山のお客さんで終始賑わっていて、忙しさにかまけているうちに気付けば定時を2時間もオーバーしてしまっていた。お店を後にしたとき、外はとっくに日も暮れてしまっていて、来るときは澄んだ青をしていた空からは絶え間なく雨雫が落ちてくる。

「……最悪だ。傘なんて持ってないよ…」

ここからバス停までは歩いてもすぐの距離だけれど、バスを降りたところから家まで全力疾走したとしても、着いた頃には全身ずぶ濡れなのは目に見えてる。仕方ない。もう一度戻って店長に傘を借りて帰ろう。立ち仕事の上に残業でクタクタになった足を引きずりお店の裏口のドアノブに手をかけたそのとき、だった。

(---え?)

突然フッ…と、それまで肌に受けていた冷たい雨の感触が途絶え、背後からは鼻に馴染んだシトラスの香りが。そこに誰がいるのか、わざわざ後ろを振り返らなくてもわたしにはすぐにわかってしまう。

「琉夏?」
「当たり。ヒーロー参上。なんちて」

放課後、バイトの時間になるまでずっと一緒にいて、確かにあのあとWest Beachへ帰って行ったはずの琉夏が、今度は私服に身を包み目の前に立っている。

「どうして…?」
「オマエ、昼間傘持ってなかったろ?結構降ってきたし、迎えに来た」

そう言って差しかけられたブルーの傘の下、わたしに向けられたのは、国道を行き交う車のライトに照らし出される琉夏の無邪気な笑顔。

「ずっと…、待っててくれたの?」

3月の雨の中、いつもより2時間も長く…?「オマエのためならなんだってする」微笑む琉夏の頬に触れた指先から伝わる温度はとても冷たくて…。

「バイクで行こうとしたらコウに止められちゃって…バスだけどいい?」
「……うん。全然いいけど…。来てたなら声かけてくれればよかったのに。風邪ひいちゃうよ?」
「平気。こう見えて俺、頑丈にできてるから」

それに…と、琉夏は言葉を続ける。

「頑張って働いてるオマエ、超カワイかった。あんな顔されたら、今日からケーキも俺のライバルだ」

そう言って、こめかみに触れたくちびる。ふいに伸ばされた腕が、雨に濡れたわたしの肩を抱き寄せた。どうしてこのひとはいつだって、わたしの喜ぶことをこんな風に簡単にやってのけるんだろう。(本人に自覚はないだろうけど)これも才能なのかな。

「あ、ねぇ。傘、わたしが持とうか?」

琉夏の笑顔に今日一日の疲れがぜんぶ吸収されてしまったから、せめてそれくらいは…と、隣に並んで歩きだした彼の顔を見上げてみたけれど。

「いーって。こーいうのってさ、背の高い方が持つもんだろ?」

ああ、まただ。またキュンってしてしまった。

「ん?どした?」

肩を抱かれていることでより至近距離にある端正な横顔を、黙ったままじっと見つめてるわたしの視線に気付いた琉夏が首を傾げる。

「ううん。なんでもない」
---大好きだよ、琉夏。これが最後の恋になってもいいくらい。言葉にしなくても伝わるようにと、彼の上着の裾を握りしめた手のひらにぎゅっと力を込めた。

「あ、もしかして。チューしたくなっちゃった?」
「もうっ。琉夏はすぐそーいうことを言うっ」
「あれ、違うの?残念」

だけど、そうだね。今日くらいは---

「琉夏」
「なに?---」

名前を呼ぶことでわたしを振り返った琉夏のパーカーの襟元を思いきり自身の方へ引き寄せ、引力に負けてしまったせいで体勢を崩した琉夏、その隙に。背伸びをしなくても届く、少し冷えたくちびるに軽く触れるだけのキスを落とした。

「ッ…、ミナコ…」
「こうして琉夏が来てくれたこと、本当に嬉しかったから。お礼です」

いくら夜だからって、こんな街中でキスしちゃうとかどんなバカップルだろうね。今もしとしと降り続いてる雨のせいにして、鬱陶しがられるくらいもっともっと琉夏にくっついてたい。すこしくらい遠回りしてもかまわないから、バスはやめて、歩いて帰ろうと言ったら、琉夏はいいよって言ってくれるかな。





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