彷徨うワンセンテンス


高校生活最後のバレンタインデーは月曜日ということもあってか、朝のHRが始まる前の教室では、昨日彼とお泊りしちゃった、なんて色っぽい声がどこからともなく飛んできて、傍で聞いてるわたしまで顔を赤くしてしまう始末。きっとこんなこと、琉夏の耳に入りでもしたら、今からでも遅くないから自分たちも…って言い出すだろうな。もっとも、わたしたちには頬を赤らめて初体験を語る初々しさは、もうないのだけれど。

「彼もわたしも初めてだったから、二人して緊張しちゃってさぁ」

それは、クラスメイトの一人が始業前の周囲の慌しさに紛れ呟いたセリフ。自身の席に着き、カバンの中に忍ばせたアクアブルーの包装紙に包まれた小箱を目視しながら、思わず彼女たちの会話に聞き入り、ふと考え込んでしまった。

(彼も、初めてだった…から?)

どこで結ばれたとか、どんな感じだった…とか、そんなことはいっさい耳に届かない。ただ、たったその一言だけが、琉夏にチョコレートを渡す約束をしたお昼休みまでの間じゅうずっと、頭の中でこだましていた。

「あ、ミナコ!こっちこっち!」

琉夏が待ち合わせ場所にと指定してきた屋上は、当然この時期はとても寒くて。冬が苦手な琉夏にはどこより避けたい場所なハズなのに、きっと人避けのために仕方なく選んだんだろう。毎朝かかさず作っている二人分のお弁当と小さな紙袋を抱えて、貯水タンクのはしごに足を掛け、こちらに向かって高く掲げた右手を大きく振り続けてる琉夏のもとへと急ぐ。

「教室まで迎えに行こうとしたんだけどさ。クラスの女子に捕まりそうだったから引き返しちゃった」

フェンスを背にした真白いコンクリートの段差、太陽の光を透かして見せる金色の髪を冷たい風になびかせながら腰かけた琉夏に、はい。と、持ってきた彼用のお弁当箱を差し出す。

「おっ、サンキュー。いつも悪いね」
「今日はハチミツ入りの玉子焼きと、デザートのリンゴをウサギ型にしてみました」
「マジ?やった。俺、ミナコの玉子焼き、ホットケーキみたいに甘くてフワフワで大好きなんだ」

そう言って、屈託のない笑顔で微笑みかけてくれる琉夏の横顔に、ついさっきまで脳裏にあったあのフレーズが音もなくよぎる。“彼も、初めてだったから”---じゃあ、琉夏は?こんなこと気にしてみても今さらどうしようもないってわかってるけれど、琉夏と一緒にいるときはいつだって意識していたこと。

---琉夏は…琉夏の“初めて”は、わたしじゃないよね?

言葉にすれば、バカバカしいって怒鳴られちゃいそうで…怖くて、とても言い出せない。だけど、わたしが焼いた玉子焼きを美味しそうに食べてくれる唇、指先が、そんなに遠くない過去には他の誰かのものだったなんて信じたくない。

(どうして…、わたしじゃないの?)

わたしの“初めて”は、なにもかもみんな琉夏に捧げたのに。わたしだって琉夏の持ってるぜんぶが欲しかった。ファーストキスも、初エッチも、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ。自分とはなにもかもがまるで違う、愛したひとに触れる初めての経験ならではの悦びと戸惑いを共有したかったと思うのは、ワガママなのかな。

「ミナコ?」
「…っ、えっ?」
「ボーッとしちゃって、どした?」

呆然と正面を見据えたっきり、一向にお箸を動かさないわたしを不審に思ったんだろう。とっくに空にしてしまったお弁当箱の後片付けはそのままに、屈んだわたしの前に立ちはだかることでその視界を塞いだのは、息がかかるほどに近づけられた琉夏の顔。

「あ、ゴメンね」
「弁当、食べないの?食欲ない?」
「ううん、大丈夫。食べるよ」
(---バカみたい、わたし)

いま目の前にいる琉夏は、わたしだけを見ていてくれてる。好きでいてくれている。その事実だけでじゅうぶんじゃないの?

「やっぱり、ココじゃ寒すぎたかな」

他のところにすればよかったね。声のトーンを落とし、申し訳なさげに呟いた琉夏がわたしの肩に羽織らせてくれたのは、彼のぬくもりが残る制服のジャケット。

「っ、いいよ琉夏!寒くなんてないから、わたし…っ!」
(---違うの)
「俺、お腹いっぱいであったまってきちゃったからさ。ミナコが着てて?」
「ダメだってば!琉夏が風邪ひいちゃう…!」
「平気。そんなヤワじゃねぇよ」

---ウソ。唇が微かに震えてる。琉夏がくれた強がりなウソが嬉しくて、わたしの体より一回りも大きなジャケットの袖口から漂うアクアマリンの香りに、そっと頬を寄せた。

「今日は…、寒いのに人が多いなぁって…見てただけなんだよ?」
「ん?あぁ、それはさ、ほら。バレンタインデーだから?」

目線をフラフラとさ迷わせながら、再びわたしのとなりへ腰を下ろす琉夏。もう何度も目にしてきたからわかる、これが彼流の催促の仕方だ。

「そっか、そうだね。…じゃあ、わたしからも琉夏に…。はい、どうぞ」

腰元に携えてあった紙袋を両手に乗せて差し出すと、「ありがとう。半分こして、二人で食べようね」---今年も、琉夏と迎えたバレンタインデー。同じ笑顔を見るのは、これで三度目だね。

「開けていい?」
「うん、いいよ」

鼻歌を歌いながら、四角い箱にかかったリボンをスルスルと解いてゆく細くて無骨な指先。まるで、小さな子供が欲しかったオモチャを買い与えてもらったときのような、無邪気な笑顔で…

(わたし以外の女の子にも…、微笑みかけたの?)
「お、今年はトリュフだ。しかも手作り」
「……」
「スゲェウマそう。よし、食べちゃえ」

---わたしはなんて心が狭い女なんだろう。姿かたちのみえない影に嫉妬して、打ちひしがれてる。となりにいる琉夏は思いもしないだろう。自分の彼女が昔の恋人に理不尽なヤキモチを妬いているなんて…。

「…ん、ウマい。やっぱりショコ人だろ?オマエ」
「ショコラティエだってば」
「あれ、そうだっけ?あ、ミナコも食うだろ?」
「っ、…うん。じゃあひとつだけ…」
「俺が食べさせてあげる。あーんして?」
「あーん…」

琉夏が促すとおりに口を開けてそこにトリュフが投入されるのを待っていたわたしの唇だったけれど。チョコより先に触れたのは、冷たく柔らかな感触だった。

「ッ、るか…っ?」
「一足先にチュウでお返しだ。ごちそうさまでした」

それが琉夏の唇だったと気付いた瞬間に、コロンと口の中に転がり込んできた甘くて丸い固まり。そして、わたしを見つめる慈愛に満ちた琉夏の笑顔。周囲の目を顧みない突然のキスに、怒る気力も失せてしまうほど幸せだと…思う。心から。だけど、だからこそ贅沢にもなるの。

(どうして…どうして…?)
「わたしが…、琉夏の初めての女の子じゃないんだろう…」
「えっ?」

琉夏への愛をめいっぱい込めて作ったチョコレートは、ほんのりラム酒のきいた大人の味がした。でも、わたしはまだまだ大人の女性にはなれそうにもないよ。

「琉夏のカタチも、癖も、匂いも、わたしじゃない他の誰かの記憶の中に残ってるなんてやだ…っ」

琉夏のことを困らせてしまうとわかっているのに、さっきのキスが起爆剤になって、胸の奥で渦巻いていたわだかまりが口をついて零れ落ちてしまう。

「ねぇ、やだよ…琉夏…っ」
「ッ、ミナコ?どうし…」
「やだぁ…っ!」

何の前触れもなく訳のわからないことを言い出したわたしを見下ろす琉夏の双眸は、明らかに動揺の色を浮かべている。だけど、感情がたかぶり溢れ出した涙を覆い隠すようにして肩を抱き寄せてくれた腕は、冬の北風にさらされたせいで冷えきってしまっていたけれど、醜い嫉妬で凍てついたわたしの心を溶かしてゆくにはじゅうぶんすぎるぬくもりを与えてくれた。

「なぁ。ひょっとしてさ、ヤキモチ妬いてくれてる?」
「ッ、もう…っ、冷やかさないで…っ」
「……ゴメン」

第二ボタンまで外されたシャツの襟元からのぞく肌を、温かな水滴が濡らす。寄り添ったわたしの腰を抱きしめ、やさしい手付きで髪を撫でてくれる琉夏の後ろでチャイムが鳴り響いた。お昼休みはこれでおしまい。急いで教室へ戻らなきゃ、次は確か氷室先生の授業だったはず…。そんな風にちゃんと頭の中ではわかっているのに体が動こうとしてくれない。

「……同じものなんて…、何ひとつないぜ?」
「っ、え…?」

そうしておもむろに呟いた琉夏の吐息が、額にかかる前髪を揺らした。

「オマエを抱くときの俺、キスだって、誰かのときといっしょだなんてありえないんだ」
「……?」
(どういう…意味?)
「いつだって、正気でいられなくなるくらい欲しいと思う女は、…オマエだけだったから」

これから確認してみる?そう言って、わたしの顔を覗き込み口角を上げた唇が、鼻先にキスをする。

「俺、ミナコになら24時間発情してられるもん」

舌を出してイタズラに笑う琉夏の、その言葉の奥には、どんな言い訳よりも確かな説得力があったから。

「……して…」
「…して?」
「みても…、いいよ?」

ここは学校の屋上で、午後の授業も始まってしまうのに。これから琉夏が“シようとしていること”を素直に受け入れてしまう自分がいた。

「や…んっ、琉夏の手、すごく冷た…ッ」
「ミナコは…、あったかいね」

ためらうことなくブラウスの隙間から胸元めがけて滑り込んできた琉夏の手のひらは、当然氷のように冷たくて。

「ホントはさ、寒くて死にそうなんだ。だから、ミナコが俺をあっためて?」

ハッピーバレンタイン。箱の中に残る食べかけのトリュフより甘いものは、---キミのぬくもり。



単純に非童貞な琉夏に強くこだわるバンビが書きたくて、なら折角なんでバレンタインに引っ掛けてみようということで出来上がったお話でした。私的には、某遊び人琉夏シリーズ(笑)の「ためらいの息吹」よりずっと後のお話だと思っていたりします。







「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -