かくれんぼ




広々とした自然に囲まれるカノコタウンには、少々足を伸ばすと青々と生い茂る緑の森がある。

その緑の中に、小さな少年が木漏れ日の溢れる心地よい森の木々に背を預け、周囲の環境をさらさらと観察しては手元の用紙に筆を走らせていた。

淀みなく綴られる文字の羅列は時折手を休めながらも淡々と白紙を埋めていった。少年の脇には簡素な布の上に並べられた分厚い図鑑がどっしりと構えられ、少年の研究対象を参照される度に位置が交互に変わっていく。

まだ年端のいかない少年にしては些か異様な光景ではあったが、秀才かつ努力家の彼は他人が下した自身の評価など露とも気にしてはいなかった。重要なのは如何に知識を得て己を磨くのか、その一点に尽きた。

都会から離れて早一月。
少年は街とは異なるポケモンの観察に余念がなく、表情には出さないものの嬉々としてレポート作成に勤しんでいた。

土の匂い、草の香り、澄んだ空気に豊かな実り。

これほど心の休まる時間があっただろうか、と少年は手を休めずに思う。

「あっ! チェレンみーつけた!」
「チェレンいたー!」

―――たった一つの問題を除けば、の話だが。

がさがさと草葉の陰から這い出た少女たちが、満面の笑みで少年―――チェレンに駆け寄ってきた。

一人目の少女ことホワイトは、ゆったりと伸ばされた黒髪と動きやすさ重視のシャツとズボン。二人目の少女はベルであり、フリルのついた可愛らしい白のワンピースだ。

しかし所々で緑の葉が付着していることから、きっと今日も元気に駆けずり回ったであろう姿が脳裏に浮かび、チェレンは深々と溜め息を吐いた。

「チェレンは、かくれんぼ上手だね!」

ホワイトの花の咲くような笑みを一瞥し、チェレンは再びレポート作成に集中する。また見つかった、という不満は呑み込んだ。口に出せば彼女のペースに巻き込まれ、作業どころでは無くなる確信がチェレンにはある。

どうしてこうなったんだか。
黙々と自身の研究を白紙に綴りながらチェレンは固く結んだ口の奥で呟いた。

チェレンの気性は激しくはなく、かといって穏やかではない。ただ淡々と物事を見極めて没頭し、それを表面化させずにいるだけである。それを理解しない者は彼から離れ、彼も積極的に交流しないからこそ一人で独立していたにも等しかった。

が、そんなことはお構い無しとばかりに関わるのが彼女たちなのである。

「あれ、チュチュ?」

きょろきょろとホワイトが周囲を見渡す。自分の家族にも等しい存在がこの場にいないことに首を傾げ、やがて小さく隠れている後ろ姿を見つけた。

ふ、とチェレンが視線を動かすと。

「…………」

不貞腐れている黒い瞳とかち合った。完全に敵視されている。チェレンは何の感慨もなくレポートに視線を戻し、書き溜めた資料を束に纏め始めた。

「ほらチュチュ、おいでー」
「……ピィ……」

唯一信頼するホワイトの優しげな仕草に招かれて漸く姿を現したのは、ここイッシュ地方には生息しないはずのピカチュウであった。

チェレンも最初は個体数が少なく珍しいポケモンであるピカチュウに興味津々だったが、自分以上に複雑な気性を持つことを悟って以来は避けている。何時、何処でホワイト家に加わったのか詳しい経緯を問うのは野暮というものだとチェレンは幼心なりに気を配っていた。

「……ピ」

ぎゅっとホワイトの胸に収まるピカチュウ。よしよしと背中を撫でられ、不満そうな空気が霧散していく。そのまま眠ってしまいそうな安堵感が伝播していくようでもある。

呑まれてはならない。
チェレンは先ほど束に纏めたレポートをリュックサックに詰め込み、重い荷物を抱えて撤退するべく立ち上がった。

「どこいくの?」
「……場所を変える」

無邪気に尋ねたベルへの存外に冷たいチェレンの一言。本来はそのように意識していないのだが、気難しい性格の彼は訂正することもない。

言葉通りに場所を変えたいのは事実である。一人で作業することが効率の良い彼にしてみれば乱入という不確定要素は回避すべき事柄であった。

そのために人目につかない森の木陰にひっそりと息を潜めていたというのに、ホワイトとベルは呆気なく予定を壊してくれる。いくら場所を転々として逃げ回っても発見され、チェレンは諦念の域に達していた。

しかし、不思議と不快ではなかった。その理由は自分ですら理解できない。

「そっか。じゃあ一緒に行こう! ね?」
「ねー!」

今もこうして去ろうとする自分の背中についてこようとする。

だというのに、迷惑ではない。

何なんだ、いったい。
まったくもってチェレンは自分が理解できなかった。


―――彼は既に“呑まれていた”。


「……好きにすればいいよ」

観念した少年の呟きに、少女たちは歓声に近い無邪気な声を森に響かせた。






 三人と一匹の、
 小さな冒険の始まりの“始まり”。





   


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