tns | ナノ
※社会人設定


「どうしたの?みょうじさん」

聞き覚えのある声だった。そんなはずはない、と思いながら顔を上げると、そこには期待通りの人がいた。持っている濃いブルーの傘を私に傾けながら、心配そうに私を見ている。最後に彼を見た日から、10年の月日が経っていた。それでも彼の双眸は、今も優しい輝きを放っていた。


思えば最悪な一週間だった。週の初めに、女性社員に人気のある同僚に告白された。そいつは、悪い噂が絶えず、仕事もいい加減な男で。だから、私は迷わず断った。すると、そのことがみるみる会社に広がり、仲のいい同僚からは質問攻めにあい、そいつのことを狙っていた女性社員からは軽蔑の眼差しを向けられ、陰口をたたかれた。

それだけならまだよかったが、ある企画でペアを組んでいた同僚もその男のことを狙っていたらしく、八つ当たりをしてきた。共同の企画のクライアントからの連絡事項を私に伝達しなかったのだ。おかげで今日のクライアントを交えた会議は見事に失敗。準備不足、確認不足として、全てを私の責任にされ、その失敗を取り返すために日付が変わる直前まで残業をした。

もちろん終電なんてとっくになくて、タクシーもこんな日に限って捕まらない。明日は仕事が休みだし、歩いて帰ろうと決意した直後、雨が降ってきた。


非情なまでに冷たい雨が私を濡らす。

何で私はこんなみじめな思いをしているんだろう。悔しいから、絶対泣くもんかと決めていた。会社でも、皆が帰って静まり返った部屋で、一人堪えながら残業をしていた。
でも、もういいや。どうせこんなひどい雨だ。私の涙に気付く人なんていない。

立ち止まって顔を覆ったところで、冒頭に戻る。



「佐伯、くん…」
「よかった、覚えててくれたんだね」

10年前と変わらない、爽やかな微笑みが眩しい。
佐伯君は、中学の時のクラスメイトだった。

「家、どこ?」
「え?」
「傘無いんだろ?それにこんな時間に女の子一人じゃ危ない。送るよ」
女の子、なんて呼ばれる歳じゃない。そう思ったけれど口にはぜず、家の住所を告げる。
「結構遠いね。だったら俺の家においで。そんなにびしょ濡れじゃ風邪引いちゃうよ」
「そんな、悪いよ。私なら平気だから」
「あ、もしかして彼氏とかいたりする?流石にこんな時間に男の家に上がるのはまずいかい?」

彼氏、という単語で彼氏がいたら今週の一連の出来事は起こらなかったかもしれないな、なんて考えた。

「彼氏なんて、いない」

そう告げると、佐伯君はそれならよかった、と言って少し強引に私の腕を引いた。けれど歩調はゆっくりで、私が濡れないように、傘を私の方に傾けてくれた。散々な一週間を過ごした私の胸に、その優しさが沁み渡った。


佐伯君の家にお邪魔し、風邪をひくからとシャワーを貸してくれた。そればかりか、大きいかもしれないけど、と言いながら着替えのスウェットまで用意してくれて、お世話になってばかりでなんだか居たたまれない。

「シャワーと着替え、ありがとう」
「それくらい全然かまわないよ」

こっちにおいで、と言われて佐伯君の隣に座る。

「なんか辛いことでもあった?」
「どうして、そう思うの?」
「泣いてただろう、さっき」

顔を覆っているところを見られてしまっていたんだろうから、ばれているとは思っていた。でも、それを告げる佐伯君の表情があまりにも辛そうだった。


思えば、あの時もそうだった。

中学の時、私は今回と同じようなことがあった。人気はあるが軽そうな男に告白され、断った。学校中の女子が敵にまわり、いじめられるようになった。そして、誰もいない教室で声を殺して泣いていた。

『どうしたの?みょうじさん』

声に驚いてドアの方を見ると、額から汗を流した佐伯君がいた。切羽詰まったような表情で私の傍に寄り、何度もどうしたの、何か辛いことあった?と声をかけ続けてくれた。けれど、当時佐伯君も人気者で、佐伯君に事情を説明すると、余計女子の神経を逆撫でしそうで怖かった。だから私は、ひたすら何でもない、大丈夫だと繰り返した。

その度に、佐伯君が辛そうな顔をしていたのを、はっきりと覚えている。


そのことを思い出し、私は今週の出来事を佐伯君に打ち明けた。

どうしてだろう。ただ抱えていたことを口に出しただけなのに、言葉にするたびに心が軽くなる。話しているうちに心は落ち着きを取り戻し、佐伯君は聞き上手だなぁなんてことを思っていた。

「そんな一週間だったの。でも、佐伯君が声をかけてくれて、こうやって話を聞いてもらったら、なんかどうでもよくなっちゃった」

だから、ありがとう。
そう告げると、佐伯君の顔からは先ほどの辛そうな表情は消え、優しい微笑みに戻っていた。

「でも、10年振りくらいにあんなタイミングで再開するなんて、驚いたよ」
「俺も。俺、なんだかみょうじさんの泣いてるところに出くわしてばかりだ」
「覚えてるの?あの日のこと」

佐伯君と話したのは、後にも先にもあの1日だけだ。女子を刺激したくなかったという後ろ向きな理由と、泣いているところを見られてしまった気まずさで、話すタイミングを失ったまま卒業してしまったのだ。

だから、あんなたった1日の会話なんて、覚えていないと思っていた。

「もちろん。今日は泣いてた理由を話してくれて、安心したよ」
「あの時はごめんね。でも、声をかけてくれてすごく嬉しかった」

もう一度ありがとうと告げると、佐伯君は気まずそうに顔を逸らして、まずいな、と呟く。

「どうかした?」
「ねぇ、みょうじさん」


なに、と聞こうとしたところで、視界が反転する。ソファーの上に押し倒されているとわかるまでに数秒かかってしまった。


「…明日、休みなんだろう?だったら、泊っていかないかい?」


そう言う佐伯君は、やっぱり格好いい。けど、中学の時みたいな爽やかで好青年なだけの格好よさじゃなかった。今の佐伯君は、紛れもない男の表情だった。良いところはそのまま残し、更に色気みたいなのが加わって、とてもじゃないけど直視できない。

「どうして、突然…」
「何もしないつもりだったんだけど、そんな無邪気な笑顔を向けられると、ね」

私が何も言えずにいると、佐伯君の手が私の頬から首筋をゆっくりと撫でた。ただ撫でられているだけなのに、背中がゾクゾクして、思わず体が小さく跳ねる。

「君が、欲しい」
「佐伯君、……んっ」

気付いた時には唇が重なっていた。そのキスが余りにも優しくて、自分の心臓がドクドクと脈打つのがわかる。上唇を佐伯君の唇で挟まれて、リップ音と共に離される。キスもそうだけど、その音ですら腰にくる。

激しいキスじゃなかったのに、呼吸が乱れる。上手く息を吸えない。普段私はどうやって呼吸していたんだろう。

「驚かせちゃったかもしれないけど、本気だよ。もちろん、お付き合いするのを前提で、ね」
「お付き……え!?」

お付き合い、という言葉に私は驚いて、あんなキスの後なのに、色気のない声を上げてしまう。すると佐伯君はクスクスと優しく笑った。

「俺がみょうじさんに、今夜だけの相手なんてさせると思ったのかい?」
「だ、だって、佐伯君は私と付き合うことになってもいいの?」
「俺はずっとみょうじさんとそうなれたらと思ってた。あの時も、だよ」

今度は、驚きすぎて声も出なかった。


佐伯君は、10年前のあの時のことを話し始める。

「女子にいじめられてるの、気づいてたよ。あの日、忘れ物を取りに教室に戻ったら、みょうじさんが一人で泣いててびっくりした。普段はいじめられてても、堂々としてるように見えたからね。でも、あぁ、こうやって誰も知らないところで一人で泣いてたんだなって思ったら、放っておけなかった。」

でも、結局どうすることもできずに卒業しちゃったけどね、と話す顔は、とても寂しそうだった。そんな風に思ってくれていたなんて、全く気付かなかった。佐伯君の優しさは、皆に平等だと思っていた。

「今日、道で泣いてるみょうじさんを見つけた時、神様がもう一回チャンスをくれたんだって思った」

どうだい?と私を見下ろしながら佐伯君は言う。


10年前のあの時。佐伯君だけが、私の涙を知っていた。あの佐伯君の優しさが、私だけに向けられていると知っていたなら。佐伯君と過ごす10年間が待っていたんだろうか。

「私、もったいない10年間、過ごしちゃったな」
「そんなこと言うと、俺、自惚れるよ」

返事の代わりに今度は私から、佐伯君の唇に自分のそれを押し付けた。佐伯君のキスとは違い、乱暴になってしまったのが恥ずかしくて、すぐに唇を離す。佐伯君が小さく笑ったような気がする。けど、すぐにまた佐伯君の唇が重なった。佐伯君に全てを委ねて目を閉じた私には、その表情は確かめられなかった。

君の想い出が手放せない
(あの日の出来事が、明日からの幸せへと繋がっていますように)


Thanks! たとえば僕が
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -