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桜の木は、いつだって美しく、どの時代も人々を魅了してきた。けれどきっと、その誰もがこの木に思い出を重ね、過ぎ去った日々を思い返しては、感傷的になることがあるだろう。

氷帝学園に入学してから見る、二度目の桜だった。

この日が来なければいいのにと、何度思っただろう。そんな願いも虚しく、何の感情も持たず全ての人に平等に流れる時間は、ゆるやかに過ぎる針を止めてはくれなかった。

そのことを恨めしく思いながら、誰もいなくなってしまって静けさだけが漂う桜の木々の間を、歩く。

すると、この学園で一番大きな桜の木の下に、あなたは立っていた。

まだ学園の中にいたことに驚きながら、その姿に私は釘付けになる。
咲き始めたばかりの桜であるはずなのに、彼の周りにだけは、ひらりひらりと花びらが舞っていた。

「跡部、先輩……」

一目惚れだった。
きっと多くの女の子がそうだったように、私もまた、跡部先輩を一目見たその瞬間から、彼の虜になってしまった。

一度も話したことはない。でも跡部先輩を見られることが嬉しくて、ただその姿を見られるだけで私の毎日は幸せだった。
欠かすことなくテニスコートに通って、その姿を眺めて。大勢の女の子の中に混じることもできなかった私は、心の中だけで応援をする。試合の時も同じだった。話すことなんてなくても、その眼に映ることなんてなくても、跡部先輩は見る人に勇気を与えてくれる人だった。

力強さも、優しさも、厳しさも。全てをちゃんと人を魅了するに相応しい割合で備えている人。

でも、明日からその毎日もなくなってしまう。先輩をこの学園で見ることも、もうない。

ポケットに左手を入れて、右手にはテニスボール。そして周りの桜には目もくれずに、伏せがちの瞳はそのボールを眺めていた。
けれど跡部先輩は、すぐにそのテニスボールをその場に転がして、背を向けて歩き出してしまう。

思わず急いで駆け寄った私は、そのボールを片手に跡部先輩の後を追った。

「あのっ、」

すぐに見つけた背中。
そして私は、初めてその背中に声を投げかけた。

立ち止まり、振り返る。
その双眸には、強いアイスブルーの輝き。その瞳が、私を捉えた。

「アーン?何か用か」

「こ、これ、良いんですか?大切な物かなって……」

跡部先輩は、不機嫌でもなく笑うでもなく、ただ私とボールを交互に眺めた。
知らず知らずの内に、ボールを持つ私の手は小さく震えてしまっている。

それに気づいたのか、跡部先輩は小さくふっと微笑みを零した。

「大切な物、か」

ほんの一瞬、跡部先輩の瞳が揺れたように思えた。

「跡部、先輩……?」

けれど、それは気のせいだったのではと思えるほどすぐに、先輩はまた笑っていた。私に、向かって。

「やるよ」
「え?」

「それは、みょうじにやる。二年間、応援ありがとよ」

「!!……なんで、」
「じゃぁ、な」


跡部先輩は、去っていく。

私の視界は、涙で滲んでいく。そのせいで、大好きな人の背中が見えない。追いかけたいと思うのに、私の足はふるふると震えて、その場に膝をついてしまう。嫌だ。行かないでほしい。叶うならずっと、一生だって先輩を見ていたかった。話すことなんてなくてもいい、ずっと見ているだけでもいいから、ただ、ただ、ここにいて欲しかった。


どうして、私の名前を。

そう思いかけて、すぐに理解する。
私の大好きな人は、うんん、この学園の誰もが愛したあの人は、そういう人だった。

当たり前のように、人々の上に立つ人。でも、自分を支える一人一人を、決して軽んじない。そんな強い優しさを、誰もが愛していた。

いつの間にか遠く離れてしまった、その背中に。私は今までで一番大きく、その背中に届くような声で、叫ぶ。


「ご卒業!!おめでとうございます……!!」


跡部先輩は、振り向かないまま右手を軽くひらりと振って、角を曲がった。

静けさと私の微かな泣き声と、そして桜だけが、私の周りにはあった。
祝うように舞っていた桜が嘘のように、今はもう、一枚の花びらも舞ってはいない。

私は、今日を絶対に忘れないだろう。来年も、その次の年も、その先もずっと、桜を見るたびに、今日を思い出す。そしてあの優しい微笑みを思い浮かべては、チクリと胸を刺すこの痛みに襲われるのだ。

叶うことのない恋だった。多くの人が同じように彼に恋をして、同じように叶わぬままその恋を終えるだろう。

けれど、私は確信する。
その誰もがきっと、彼を愛した日々を後悔なんてしない。

この先他の誰を愛しても、彼を愛した記憶を忘れることはない。そう思うくらい、強く、重く、心から跡部先輩が好きだった。あんなにも素敵な人を、愛情深い人を、好きになれてよかった。


「氷帝にきて、よかった…っ」


握り締めたテニスボールには、淡い花びらが一枚、ふわりとその身を委ねていた。




(誰にだって、忘れられない恋がきっとある)
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