tns | ナノ
それは、珍しい光景だった。
机に片肘をつき、ペンを持ったまま目を閉じるその姿は、普段の彼からは想像できないくらい穏やかだった。
差し込むオレンジが彼の横顔を優しく照らし、睫毛の影を落とす。
息を呑むほど美しく、時間を止めてしまいたいと思った。
生真面目な彼がうたた寝をするということは、余程疲れているのだろう。起こしてしまわないよう、そっとその場を去ろうとする。
「待て」
しかし、それを阻む声と、私の手首を捕まえた彼の手。
「ごめん、起こした?」
「どこへ行くんだ」
「え?」
「どこへ行くつもりだと聞いている」
まるで会話が成り立たない彼は、私のよく知る彼とは別人のようで。私を見上げる瞳は、ノンフレームの眼鏡の奥で空げに揺れている。
「別に、家に帰ろうとしただけだけど。手塚、寝ぼけてるの?」
そう問うと、彼は驚いたように目を開き、瞬きを数回。
「……、俺は、寝ぼけているのか」
真顔で聞き返され、彼の意識がまだ完全に覚醒していないことを私は確信した。
「寝ぼけてるよ。ほら、目覚まして」
白く滑らかな頬に手を添えて、軽く数回ぺちぺちと叩いてやる。次に目を開いた時には、彼の瞳はいつものように凛とした輝きに満ちていた。
「そうか、俺は眠ってしまっていたのか」
「ウトウトしてたみたいだね。それで?変な夢でも見てたの?」
事態を把握し納得したような彼に尋ねると、彼は考え込むように一度目を伏せた。そして今度は、チラリとこちらを一瞥する。
「お前が、突然いなくなる夢だった」
手首をとらえたままだった手の力が、きゅっと僅かに強くなった。
「私が?」
「ああ。ある日突然、何も告げずに姿を消したんだ」
思わず言いかけた言葉を、私はとっさに飲み込んだ。
「……手塚でもそんな夢見るんだね」
心の中の、僅かな動揺を悟られないように、誤魔化すように。私はなるべくいつも通りに微笑んだ。
未だに伏せ目がちな手塚は、いったい何を考えているのだろう。
「手塚は、寂しかった?」
私がいなくなって。
私の腕を捕らえる、彼の手。何を思って、どんな気持ちで私を捕らえたの。
私たちはきっと今、迷っている。
お互いに何を口に出し、何を告げるべきなのかと。その迷いの分だけ、沈黙は少しだけ重く、そして少しだけ優しい。そう思ってしまう私は、自惚れているのかもしれない。
けれど、手塚の葛藤を、私は正確に読み取った自信がある。この沈黙の意味を、私は正しく理解している。だからこそ、自惚れるくらいは許されるだろうと思った。
「手塚」
重なり合う視線。
冷たい目をしているくせに、誰もを拒むような鋭さを纏っているくせに、どうして手塚の瞳はこんなにも綺麗なんだろう。皆よりも色素の薄い瞳。琥珀色と飴色を混ぜたような、どこか温かみのある色。
「去っていく方と、残される方なら、きっとどっちも同じだけ寂しいよ」
上手く、笑えている自信はない。
でも、涙は流れなかった。
だって私たちは、きっと同じだけ寂しいでしょう?
少なくとも私は、そう信じているから。だから、手塚が流さない涙は私も流さない。ただのエゴでもいい。手塚の前でだけは、泣き顔は見せないと決めている。
「俺は、謝らない」
長く重くほんの僅かに優しい沈黙の後、手塚がようやく口を開く。その言葉に、今度は心からの笑顔になれた。
よかった。
私が愛した手塚は、こういう人だ。
私がどんな言葉を紡いでも、手塚の決意を揺るがすことなんてできないし、そんなことしたいとも思わない。
先ほど言いかけた言葉を飲み込めたことにも、心から安堵した。手塚を傷つけてしまうかもしれない、鋭利な言葉だったに違いないから。
「謝らなくていいんだよ」
謝罪も、甘い言葉も、陳腐な約束も、いらない。
今はただ、掴まれた手の熱さに溶かされていたい。この熱を一秒でも長くこの身に刻んでいたい。
冷たげな彼が好きだ。そしてその身に余る程の熱さを秘めた彼が好きだ。
「ありがとう」
「それは、何に対してのお礼?」
「おかげで、目が覚めた」
揺るぎない決意を潜めるその瞳には、今、確かに私が写っていた。
それはいつも、
あなたの方。
(いつも、いつも、置いてけぼり。)
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