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「悪い、今日生徒会関係で用事がある。日直の仕事少し遅れる」


彼から声をかけられるのは、初めてのことだった。


「そっか。私一人でも平気だから、大丈夫だよ」
「悪いな。なるべく早く戻る」


そう言って、教室を後にしていく後ろ姿。その姿が見えなくなった後も、ぼうっとそこから視線をそらせずにいた。

彼と私の人生は、おおよそ交わることのないものだった。ただ、同じ学校に通っているだけで、生きる世界は別物で。

全てを持った彼は、全ての中心だった。
誰もを魅了し、常に多くの人の注目を集め、答えてみせる。この学校は、彼を中心に回っている。
比べて私は、本当に、どこにでもいる平凡なだけの女で。そのことを悲観するつもりもないけれど、つくづく彼とは生きる世界が違うのだ。

だから、同じ学校に通っていても、たまたま同じクラスになっても、たまたま日直の当番が同じ日になっても、交わらない。


誰もいなくなった教室。
日誌を書きながら、そんなことを考える。

当番の名前を記入する欄で、私のシャーペンは止まる。

跡部 景吾

彼の、名前。
知っている、誰もが知っている名前。珍しい漢字が使われているわけでも、特別な名前というわけでもない。

それでも、その名前を書くシャーペンが少し震えてしまうのは何故だろう。

彼の名前の下に、自分の名前を記入する。

不思議だ。
彼と私の名前が並ぶだけで、奇跡のような気がしてくる。


「なんて、ね」


自分の愚かな思考に自嘲的な笑みをこぼし、日誌の記入を終えた私は、日直の最後の仕事である黒板の掃除に取り掛かる。

黒板消しを持ったところで、教室の扉が開いた。


「悪い、遅くなった」


そこには、先ほどまで私の思考を埋め尽くしていた彼が立っていた。
急いで来てくれたのか、その髪型は少し乱れているようにも見える。


「大丈夫だよ、来てくれてありがとう。でも、あと黒板掃除だけだからいいよ?部活あるでしょう?」


正直なところ、彼と二人だなんて間が持たない。彼のような人を相手に、私が会話を成立させられるとも思えないし、何より鮮やかすぎる彼は私には眩しすぎる。

けれど。

「日直も俺の仕事に変わりはないだろ。貸せ」

当たり前のようにそう言って、私の手から黒板消しを奪って、掃除を始める。

そうされてしまっては私には止めることもできないし、もう一つ黒板消しを持って彼と反対側から消していく。

案の定彼との間に会話なんてなくて、ただ黙々と黒板を消していくだけの時間。退屈させているだろうかと思わないこともないけれど、生憎話題は浮かんでこなかった。


黒板の高い位置に書かれた文字を消そうと背伸びをすると、横から伸びてきた黒板消しにそれを阻まれる。
その黒板消しは、あっさりと高い位置の文字を消していった。

「ありがとう」

「いや、別に構わね、……おい、」

「なに?」

お礼を言った私に向き直った彼は、呆れたような表情で私を見ていた。

「髪に、チョークの粉がついてるぞ」

「え、ほんと?」

席に戻って、鞄から鏡を取り出してみると、なるほど。確かに上の方を消した時に振ってきた粉を被ってしまっているようだ。
手で軽く払い、もう付いていないことを確認する。

すると、跡部くんは私の前の席の椅子に後ろ向きに座って、私の書いた日誌を見ていた。

俯いた表情と、長い睫毛の影が落ちる目元、その奥からチラリと覗くアイスブルー。斜めに差すオレンジが照らすその光景が余りにも綺麗で、思わず息を飲む。


「みょうじ、字綺麗なんだな」


そしてその口が、言葉を紡ぐ。
名前を呼ばれたことも、日誌を見られていることも、字を褒められたことも、何もかもが私の体の自由を奪っていって、緊張で筋肉が固まってしまったみたいだった。

「そんなこと、ないよ」

咄嗟に否定して跡部くんをちらりと窺うと、先ほどまで日誌を見ていた瞳が、私を真っ直ぐに捉えていた。


トクン、と。
鼓動がひときわ大きく鳴る。


すると、彼の唇は優しい弧を描き、ふっと微笑みをこぼす。


「だが、緊張すると字も硬くなるんだな」


トントンと指で叩かれた場所は、日直の当番の欄だった。

その瞬間、全身の血液が逆流したかのように、熱くなる。見られるなんて思わなかったし、まさか緊張を悟られるとは思っていなくて、いたたまれない気持ちになって俯いた顔を上げられなかった。

きっと恥ずかしさで赤くなっているであろう顔を見られたくなくて、思わず顔を両手で覆う。


「だ、だって、その、跡部くんの名前書くの、は、初めてだったから…」


くつくつと喉を鳴らして笑う声が聞こえて、再度ちらりと彼を窺う。

彼が、愉快そうに笑っている。
嫌味でもなく、ただ楽しそうに笑っている。

「何でそんなに緊張してんだよ。ただの名前じゃねえか」
「だ、だって跡部くんだよ?緊張もするし手だって震えるよ」
「そういうもんかねえ…」

そう言って、机に置かれた私の筆箱から、消しゴムとシャーペンを取り出した彼は、消しゴムで文字を消して、そこに新しい文字を書き始める。

書き終えると、自分の字をまじまじと見つめて、日誌を私へ差し出してくる。


私とは違う字で、私の名前が書き直されていた。

”みょうじ なまえ”

癖はあるけれど、男の子にしては滑らかで美しい字だ。
驚いて彼を見ると、彼は椅子から立ち上がったところだった。見上げた彼は、また笑う。



「確かに、緊張するもんだな」



鍵返しに行くぞ、と。
扉に向かう彼の後ろ姿。

今日2度目となるその光景は、何故か私には、1度目とは全く違って見えた。


もう一度、日誌に視線を落とす。

彼が書いてくれた、私の名前。
その文字に宿った僅かな緊張は、彼と私の人生がほんの少し交わったことの証明に思えて。


日誌を胸に抱きながら、彼の後を追った。


(あなたは、驚くほど軽やかに笑う人でした)



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1日遅れだけれど、おめでとう。
平凡な女の子も、きっとこうやって跡部を好きになる。
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