tns | ナノ
「足、痛いんやろ?ついてきい」
うずくまる私に声をかけてくれたのは、浴衣を着ていつもと雰囲気の違う、忍足君だった。
氷帝学園の花火大会の日。
屋上には屋台がいくつか並び、校庭から打ち上がる花火を見ることができる。
友達に誘われ、一緒に浴衣を着て髪をまとめたりと準備を整えてきたは良いのだけれど。
慣れない下駄で学校まで歩いてきたせいで、花火が始まる前に私の足は限界だった。
友達にお手洗いに行くと告げて屋上を後にしたのだけれど、あいにく保健室は閉まっていてどうしようかとしゃがみ込んでしまったところで、冒頭に戻る。
「どこに行くの?」
「部室。あそこやったら近くに水道もあるから冷やせるし救急箱もあるからな。ちょっと離れとるけど歩けるか?」
「大丈夫」
「よっしゃ、ほな行こか」
忍足君はふわりと私の手をとって、歩き始める。私を気遣ってくれているのか、その歩調は不自然じゃない程度にゆったりだった。
「みょうじさん、浴衣めっちゃ似合うなあ」
少し歩いたところで、ふいに忍足君がそんなことを言う。言われて、自分の浴衣を見る。
淡い水色に大きな金魚の柄。
「ありがとう。おばあちゃんにもらったお気に入りだから嬉しい」
袖を通すだけで明るい気分になれるそれは、私の持っている浴衣の中で一番のお気に入りで、素直に嬉しかった。
だからお礼を告げたのだけど、忍足君は不思議そうな顔をした。
「ん?俺は浴衣やのうてみょうじさんを褒めたつもりなんやけど、まぁええか」
「え、ごめん!浴衣、気に入ってたから、つい」
眉を下げて笑う忍足君に思わず謝ると、彼は気にすることないで、と笑う。
思えば、私は彼の穏やかな笑顔しか見たことがないなあと思った。テニス部で、天才と呼ばれていて、頭も良くて、顔だって整っている彼。同じクラスにいて、会話だって何度かしたことはあるけれど、その表情はいつも微笑みを浮かべている。
でも、明るい教室で見る忍足君と、暗い外で見る忍足君では、同じように笑っていても少し雰囲気が違う、気が、する。どうなんだろう。浴衣のせいなのかもしれない。なんというかとてもセクシー、だ。そう感じた瞬間に、軽く繋がれただけの手が妙に熱を持つ。
「俺、金魚好きやで。ひらひらしてて綺麗やんな」
「う、うん」
好き。綺麗。
私に向けられた言葉ではない。言われたのは金魚だ、金魚。そう言い聞かせても、勘違い野郎な私の心臓はいつもより早鐘を打っていた。
テニス部の部室に到着すると、鍵を開けて中の椅子に座らせてもらう。忍足君は水を汲んでくると部室を後にした。
失礼かなあと思いつつも、手持ち無沙汰になって部室をキョロキョロと見回してしまう。広くて綺麗な部室は、運動部なのに汗の香りひとつしなかった。奥にはシャワールームがあるようで、今更ながらうちの学校はすごいなと感心してしまった。
「待たせてすまんな。ほら、下駄脱ぎ」
戻ってきた忍足君は、バケツくらいの大きさの容器に入った水を運んできてくれて、それを私の足元へと置く。
「い、いいよ、自分で出来る」
「浴衣、着崩れしてしまうやん。ええからそのままおり」
足元にしゃがみ込んだ忍足君は、私の足首を持って、するりと下駄を脱がしてくれる。
「めっちゃ赤なっとる。痛かったなあ、歩かせてすまんかった。俺が運んで着崩れてしもたら、着せたれへんしなあって思ったんやけど」
冷やり、容器の中に足が浸かる。鼻緒ずれをしてじんじんしていた箇所が冷やされて、気持ちが良かった。
「浴衣、自分で着たんじゃないの?」
「ちゃうちゃう、姉貴が面白がって着せよんねん。この歳なっても姉貴の着せ替え人形や」
「でも、すごく似合ってる」
「え?」
心からの感想を告げただけ。会話の流れ的にもおかしくなかったはずなのに、忍足君は急に顔を上げて私を見る。多分、多分だけど真顔で。
初めて見下ろす忍足君の顔は、窓から差し込む月の明かりが逆光になってよく見えない。え、あれ、そういえばなんでこの部屋は電気が点いてないんだっけ。あ、部活の時間じゃないから電気通っていないのか、そういえば校内もほとんど電気がついてなくて、そう、そう、そうなんだ、だから、きっと私の顔だって、忍足君からはよく見えない、はず、だ。
一目瞭然で狼狽えているであろう私を見て、くすりと笑う微かな声が聞こえた。良かった、忍足君は今笑っている。
「それは、浴衣とちごて俺が褒められとるんやんな?」
くすくすと笑いながら、冗談めかしてそう尋ねられる。
「う、うん。もちろん」
「さよか、ありがとうな。ほな、もう片足な」
容器に浸けていたのと逆の足からも下駄を脱がせ、また水に浸ける。さっきは冷たく感じたはずの水が、今は全く温度を感じない。でもそれは決して私の体温が上昇しているとかではなく、ただ、ただ私の体温に触れて水がぬるくなってしまっただけだと信じたい。
「なあ、みょうじさん、今日は誰と来てたん?」
「クラスの友達と、だよ」
「いつも一緒にいる子ら?」
「うん」
「そうか、良かった」
どうして?と、聞こうとして。
ぱぁんと弾けるような音と、きらきらした光が忍足君の後ろにある窓から差し込む。
「あ」
「花火、始まってしもたんか」
「うん、ほら、後ろの窓から見えるよ」
「さよか」
次いでいくつもの花火が打ち上がり、私は窓からその光景を見ていたのだけど。
ふと忍足君を見ると、忍足君は真っ直ぐに私を見ていた。
「な、なに?花火、始まったよ?」
「知っとるで」
「見ないの?」
「後でな。今はみょうじさんの足が最優先や」
「あ、ごめん。やってもらっておいて私だけ花火見ちゃって」
「構へんよ。そのまま見とき」
「で、でも」
「それより」
ちゃぷん、と容器から私の足を上げた忍足君は、そのまま足に自分の顔を近づけて、甲に唇を寄せる。
途端に全身の血液が逆流したのではと錯覚するくらい、私の体はぶわっと熱を持った。
「忍足、くん!」
「みょうじさん、脚めっちゃ綺麗やなあ」
慌ててどけようとするけど、浴衣で動きにくい上に身体が硬いせいで上手くいかない。だからといって蹴ってしまうわけにもいかず、軽い抵抗を繰り返していると、忍足君が今度は踝あたりにキスを落とす。
そして次は、脛。足を支える右手と、浴衣を退けていく左手。ゆるゆると露わになっていく私の脚。時折控えめなリップ音をたてながら、徐々にキスの位置は上がっていく。
「っ、おしたり、くん」
トクントクンと、壊れてしまうのではないかというくらいにうるさく鳴る心臓。忍足君は、何も言わない。表情も、見えない。私だけがバカみたいに狼狽えていて、私がおかしいように感じてしまうけど、そんなことはない。私はおかしくない。断じてない。
するすると浴衣ははだけて、キスをされている方の脚の膝が露わになる。そこにもちゅっとキスを落とされて、今まで浴衣を退けていた手が、さわりと太ももをひと撫でする。
「んっ、…っ」
思わず上ずった声を洩らしてしまった時、ぴたりと忍足君の動きが止まる。どうしたのだろうと思ったのもつかの間、私の脚から顔を離した忍足君は、落ち着いた手つきではだけた浴衣を直してくれる。
「忍足、君?」
「あかんわ」
「え?」
一言呟いた忍足君は、私の浴衣を直した後、私の隣に腰掛ける。
そこで久しぶりに、忍足君の表情が見える。
困ったようでいて、少し不満げな、複雑な表情だった。珍しくその顔に笑みはない。むしろほんの少し眉間にしわを寄せているように見えなくもない。
「忍足君?」
「これ以上はあかん。途中で止めれんくなってまうわ」
困っていたわけでも、不満なわけでも、怒っていたわけでもなく。堪えて、いたのか。
「俺な、みょうじさんのことずっとええなあって思っててん。けど普段そんな話さへんやん?でも今日、屋上で見かけて、浴衣姿とか、普段とちゃう髪型とか見たら、いてもたってもおられへんようなって」
そんで、屋上から出て行くみょうじさん追いかけてんと、ぽつぽつ話し始める忍足君の言葉は、驚くことばかりで。けれど、先ほどまでの行為でぼうっとしてしまっている私は、大したリアクションもとれずただ相槌を打つだけだった。
「けどあかん。花火大会ってシチュエーションもあつらえたみたいやし、そんな色っぽい姿見とったら変な気おこしてしもた。怖がらせてごめんな?」
最後は、私の目を見て、そう告げられる。
その切なそうな表情を見て、私は思わず忍足君の手に自分のそれを重ねる。ぴくっと反応した彼だけど、その手を振りほどかれることはなかった。
花火の光できらきらと瞬く忍足君の顔はやっぱりいつもよりもセクシーで、私には直視できない。だからわざとらしいほどに勢いよく視線を花火の方に向ける。
「びっくりはした、けど。……怖くはなかった、よ」
だって、忍足君の手つきもキスも、どこまでも優しかった。私を労わるように、慈しむように。
忍足君が、何か言いかけた気配を察知したけれど、私はそれを遮ってまくしたてるように続ける。
「そっ、それに、私も、今日の忍足君を見て、せ、セクシーだなあって、思ったもの」
最後の方は、小さく、花火の音にかき消されてしまいそうなほどのボリュームになってしまった。でも、正直な私の気持ちだ。
だから、だからそんな顔をしないで欲しかった。いつもみたいに穏やかに笑う忍足君がいい。
ふっと。
隣で微かな笑い声がしたかと思うと、重ねていた手は優しく振りほどかれて、その手はゆったりと私の肩を抱き寄せる。
もう片方の手は、さわさわと私の髪を優しく撫でた。
表情は見えない。
でも、きっと忍足君は今、私の大好きなほっとする微笑みを浮かべているんだろう。
「ほな、これからも俺がこうするん、許してくれる?」
「うん」
低くて穏やかな、けれどたっぷり色気を含んだ声が、私の耳を掠める。間近できくと想像以上にぞわぞわする。頷いたけれど、忍足君とこんな時間を過ごすうちに、いつか私は爆発してしまうかもしれない。
花火がきらきらと夜空を照らす。
たくさんの花火が弾けていたのに、好きや、と呟いた忍足君の声は、確かに私の耳に届いていた。
全ての音は世界の外側でなっていた
(ここには、わたしたちの声と鼓動だけ)
落ち着き払ったゆーしもいいけど、中学生らしいのもたまには。
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