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炎天下。
目眩がするほどに照りつける太陽の下、私は一人の男の子を眺めていた。

この歳になると日差しの強さも気になるし、それでなくても汗でベタつく肌が既に不快だ。
それでも、私は近ごろ毎日のように彼を見ている。

日差しも、流れる汗も、気にとめる様子もなく無我夢中に、いや一心不乱にという方が正しいくらいに、ひたすら練習に励む彼を。


毎日、大学の帰りに彼の姿を眺めて、暑さに耐えられなくなったらそっとその場を後にする。

今日も、そのはずだった。


しかし、連日に比べ高温多湿な気候のせいか、彼がフラついているように見えて。その姿を見るに堪えず、彼に近付く。



この選択が、私たちの始まりだった。



「いい加減にしたら?」



背後からそう声をかけると、彼はラケットを振っていた手を止め、私に振り返る。逆光で日差しが眩しいせいで、彼の表情は見えなかった。


「失礼ですが、あなたは?」


そうか、君はこんな声をしていたんだね。冷たく突き放すようでいて、でもどこか優しい声だった。うん、彼の外見にとても合っている。


「近所の大学生。それより、いくらなんでも無茶しすぎ。ちょっと座ったら?」

「いえ、問題ありませんので」

「九州の暑さなめてんの?これだから東京の人間は。ほら、とっとと座る!」

「っ!」


何か言いたげな彼の腕を無理矢理に引いて、近くのベンチに座らせる。

そして先程買ったばかりのスポーツドリンクを、彼の首元に押し付けた。

「っ、これは?」

「買ったけど君の方が必要そうだからあげる。でも飲むのは首元冷やしてからにしなよ」

「ありがとう、ございます」

「別に。ちょっと待ってて。ちゃんと座ってるんだよ?」

そう一言告げて、私は近くの水道に向かう。持っていたタオルを濡らして、軽く絞る。

迷惑そうだったなあ、余計なお世話だったんだろうなあと、改めて思う。けれど私は彼を放って置けなかったし、何より彼の練習に励む後ろ姿が、不安そうに見えてしまったのだ。

ベンチまで戻ると、彼は私の言いつけを守ったのか、もしくは自分の体調を自覚したのか、大人しくベンチに腰掛けていた。

「お待たせ」

私は彼の前にしゃがみ込んで、赤くなった彼の腕を濡らしたタオルで冷やす。赤くなった、というのは腫れているわけではなく、陽に当たって赤らんでいる皮膚のことだ。毎日あれだけ練習していても白い肌を見ると、どうやら彼は、日に当たると焼けるのではなく赤くなるタイプらしい。

それでも赤い肌が痛々しくて、思わず冷やしてしまいたくなった。

「真っ赤じゃん。毎日どれくらいここにいたの」

「わかりません。ランニングをした後日が暮れるまでは、大体此処に」

「無茶するなあ」

「あの、失礼ですがあなたは…」

彼は、まだ戸惑いを含んだ声で先程と同じ問いを口にする。顔を上げて彼を見る。

初めて近くで見た彼の顔は、直視するのが恐れ多く感じるほどに整っていた。ノンフレームのシャープな眼鏡の向こうに、世俗を拒絶せんばかりの冷たい輝き。けれどその奥には、静かな熱がちらついている。

男の子、と表現するにはその呼び方はいささか幼稚すぎるし、男性と呼ぶにはほんの少しだけ及ばない、完成しきっていない危うげな美しい顔だった。


胸の奥の、一番柔らかい場所を握られたような、気がした。



「…近所の、大学生だよ」



その日から、私と彼の奇妙な関係は始まった。私は彼に名乗らない。彼も私に名乗らない。

私がここに寄って彼がいれば、とりとめのない会話をしたり、練習風景を眺めたり。他人ほど無関係ではなく、友人というほど親密でもない。


「お疲れ様」

「ありがとうございます」


私が声をかけた日から、あまりにも無茶な練習は控えているようだった。休憩に入る彼に、今日もまたスポーツドリンクを差し出す。暑さのせいで水滴を纏うそれを、彼はあの日のように首元に押し当てる。


「少し、焼けましたね」

「そりゃ、夏だからねー」

「なぜ、」

「ん?」


「なぜ、俺のことを知っていたんですか」


生暖かい風が吹く。
見上げた空には雲はほとんどなくて、今日もまた望まない日焼けは避けられそうにない。


彼の言う通り、私は彼のことをここで出会うよりも前から知っていた。顔だけではなく、名前と、所属校と、学年も。


「なんで、わかったの?」

「初めて会った日、あなたは俺のことを”東京の人間”と呼びました。標準語というだけでは東京とは限りません」


無意識だった。そんな一言に疑問を感じられるなんて、彼は外見や言動から推測できる通り、聡明な人なんだろう。


「手塚君、青春学園の三年生」


彼は、何も答えない。私の言葉の続きを待っているようだ。


「終わりだよ」

「はい?」

「私が君について知っていること。あとは顔と、そうだね、テニスをやっていて……」


そこで、一瞬言葉に詰まる。
その先を言ってしまったら、私と彼の微妙で曖昧な関係が消えてしまいそうな気がした。けれど、彼は続きを話さなければきっと納得はしないのだろう。



「テニスをやっていて、関東初戦で肩を痛めてしまったってことくらい、かな」



鮮明に思い出す、あの試合。
美しく、厳かで、長い長い試合だった。


たまたま教授の学会の付き添いで赴いた東京。その会場の近くで行われていた、中学生のテニスの試合。昔テニスをしていたこともあって、気まぐれで立ち寄ったテニスコート。

そこで、君は凄惨な試合を戦っていた。
後半はその整った顔を痛みに歪めながら。それでも私は確信した。あの時の君は誰よりも美しかった。



そしてこの場所で君を見たとき、私は全てを悟った。そこにはあの日のように上手にテニスをする君はいなかったけれど、それでも全てを背負い込む姿は、間違いなくあの日の君だった。



「全て、ご存知だったんですね」

「何をもって”全て”と形容しているのかわからないけれど、今話したことは知っていたよ」


そこで君は、空を仰いだ。
私もつられて、見上げる。

君を観察しているうちに気づいた。
これは、君の癖だ。練習中も、ふとした瞬間に空を仰ぎ見ていた。



それが、飛べなくなってしまった鳥みたいに、見えたのだ。

もう一度あの青に向かって飛びたいと、羽を広げて足掻いているように見えた。



「仲間が」

「ん?」

「仲間が、待っているんです」

「うん」

「約束もしました。必ず、全国へ導くと」

「…うん」

「だから俺は、」


そこで彼の言葉は、途切れる。


ああ、そうか、そうだよね。


ラケットを握ったままの彼の手のひらに、私は、自分のそれを重ねた。彼は一瞬ピクリと反応したけれど、手を振り払われることはなかった。


不安そうに見えた背中は、きっと気のせいではなかったのだろう。彼はこんなにも強く美しいけれど、その心には確かに弱さや脆さを抱え、不安にもなり葛藤もする、どこにでもいる15歳の男の子なのだから。


そんな当たり前のことに気づいた時、ラケットを握る彼の力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。







「んー、やっぱり肩が上がらないんだねえ」

「はい。医師によれば、精神的なものが関係しているかもしれない、と」

「そっか。だったら私にはなにもしてあげられないな…」


彼に本当のことを話した日からは、ほとんど毎日のようにここでテニスの練習に付き合っていた。昔テニス部だったこともあって、軽いラリーくらいなら相手になれると思ったのだ。


「どうして、あなたはここまでしてくれるんですか?」


休憩中、彼が不思議そうに尋ねる。最初の頃に比べれば、彼の眼差しも随分と柔らかくなった。最初の刺すような彼の冷たさも嫌いじゃなかったけれど、今の彼はもっと魅力的だった。


「もう、無茶して痛がる手塚君なんてみたくないからね」


そう言えば、バツが悪そうに視線を逸らす。こういう反応は中学生らしくて少し安心してしまう。


彼に対する感情は、きっと恋情ではない。恋と呼ぶにはあまりにも儚く淡い。でも、どうだろう。もし彼が私ともう少し歳が近ければ、この気持ちは変わっていたのだろうか。たらればの話をしても仕方ないけれど。



彼と過ごす毎日。
穏やかで、優しくて、けれど彼の苦悩の分だけほんの少し苦い。刹那とわかっている時間だからこそ、こんなにも胸を震わせる。



「そろそろ、あなたの名前を教えていただけませんか」

「私の名前?」

「はい。何度尋ねても、近所の大学生であるということ以外は教えてくださらないので」

「それだけじゃ不満なの?」

「俺だけ名前も身元も知られているなんて、不公平でしょう」


拗ねたような台詞を真顔で言うものだから、思わず笑ってしまう。彼が私に興味を抱いてくれている、なんて自意識過剰なことを思うつもりはないけれど、さすがにこれだけ毎日顔を合わせていると、名前くらいは知りたいと感じてもらえたようだ。


「そうだなー、手塚君がもっと強くなったら教えてあげるよ」

「はい?」

「私なんかと互角にラリーしてるような下手くそには教えてあげなーい」

「……挑発とは、悪趣味ですね」

「乗ってくれないの?」

「……わかりました、乗りましょう」


呆れたように、けれど少しだけ嬉しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか。彼も、私との時間をほんの少しでも有意義に感じてくれているのなら、私たちが出会った意味はきっとあった。

それだけで、私は充分だ。







別れの気配は、突然だった。



その日、いつものようにいつもの場所へ向かった私は、いつもとは違った光景を目にする。


コートの中、地元の中学生に囲まれる手塚君と、一人の少女。

その少女を庇うようにして立つ彼の肩は、しっかりと上がっていて。そこにはもう、もう一度空を飛びたいと足掻く彼の姿はなかった。彼は、翼を取り戻すことが出来た。



「さよなら、だね。手塚君」



彼はもうじき、ここを離れるだろう。
寂しくないといえば嘘になるけれど、それでも強がりを言わせて欲しい。

良かった。
彼は、間に合ったのだから。
仲間との約束を、果たすことができるのだから。

彼が自分を犠牲にしてまで守りたかったものを、守れるのだから。

だから私は、嬉しい。

さよなら、手塚君。



それから間もなく、なんとなく気になって開いたテニスの雑誌には、彼の学校が全国大会で優勝したという記事が掲載されていた。


トリコロールカラー。
初めて彼の学校のジャージを目にした時、青は空に、白は雲に見えたことを思い出す。

では、赤は。
赤はきっと、彼らの中に宿る情熱と、絆の色。

彼が、守りたかったもの。



おめでとう、手塚君。







数年が経ち、私は就職をして仕事に忙殺される日々を送っていた。

そんな中で、久しぶりに持ち帰りの仕事もない、休日。



なぜだか今日は、あの日々が鮮明に思い出された。

夏が始まるからかもしれない。私にとっての”夏”は、美しく不思議な魅力を持った彼と刹那の時間を過ごした、あの日々だ。


日傘を差して、炎天下の中あの場所へ向かう。お休みの日や悩みがある時、また気分転換をしたい日は、あそこへ行くのが私の習慣だった。

仕事での悩みは尽きないし、帰りに寄ることもあるから週に数回は訪れていることになるけれど。



あの日々と何も変わらないように見えるこの場所も、木々の色や訪れる人々と共に、ゆったりと少しずつ変わっているのだ。


あれから、彼からの連絡はない。
私は名前を名乗らなかったし、住所だって大学だって口にはしなかったのだから、当然といえば当然だ。


彼とラリーをしたテニスコート。
よく利用した水道。
壁打ちをする背中を眺めた、木陰。

順番に、彼との思い出を一つ一つ振り返りながら巡っていく。



彼と私の間には、何があったのだろう。友人ではない、恋人でもない、言うなればただの顔見知りといった程度で、何も繋ぐものはない。それでも瞳を閉じれば、そこには彼の姿が蘇る。

初めて彼を見た日の、苦痛に顔を歪めながらも戦う姿。一人壁打ちをする、不安そうな背中。初めて声をかけた時の、怪訝そうな表情。からかえばムッとしたように眉間にしわを寄せ、照れた時や気まずい時は視線を逸らし、仲間を思う時には空を仰ぐ癖、頬の筋肉を少し持ち上げただけの不器用な彼なりの微笑み、日に当たると真っ赤になる肌、重ねた手のひらは骨ばっていて思っていたよりもずっと華奢だった。


何もかもを、思い出せる。
離れてから何年も経つのに、顔を合わせていた期間はほんの数週間に過ぎないのに、なぜこんなにも忘れられないのかな。



そして、彼と一番たくさん言葉を交わした、ベンチへとたどり着く。

いつものようにそこに腰掛けようして気づく。いつもと違う違和感に。


ベンチの木と木の間に、白い封筒が挟まれていた。



それを見た瞬間、私は確信に似たものを感じて、駆け寄ってその封筒をそっと抜く。


震える手で、恐る恐るその封筒を開ける。



そこに入っていたのは、複数のチケットだった。

ドイツまでの飛行機のチケットと、そこで開催される、テニスの大会のチケット。


私はこの大会を、知っている。
雑誌で見て、出来ることなら観に行きたいと思っていた。


彼の、手塚君の、プロとしてのデビュー戦となる大会なのだから。



試合のチケットには、小さな付箋が貼られていた。几帳面な字で、一言だけ。



涙が溢れる。
彼は、覚えてくれていた。

私のことを、私と過ごしたあんな僅かな時間を、私が忘れられずにいるあの夏を、そしてあの約束を。

覚えてくれていた。


忘れられたっていいと思っていた。
けれど心のどこかで、彼のこれからの人生でほんの少しでも思い出してもらえたら嬉しいなんて、図々しいことを考えていた。

全部、全部覚えてくれていたんだね。



私たちの間には、繋ぐものは何もない。

たった一つ、交わした小さな約束以外は。



暑い夏が、また始まる。
けれど今年の夏は、密かに待ち焦がれていた、あの夏の続きだ。



今なら、素直に思える。

彼に会いたい。

彼が、愛おしい。



『お名前を、お伺いに上がりました』




(今度は、愛おしげに私の名前を呼ぶ彼がいる)

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