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走り出す夏の続き
※ほぼ陸上のお話



400m。
それは、陸上という競技では短距離に分類される。そしてその短距離の中では、最も長い距離を走る競技である。

短距離の、限界距離。


辛い競技だ。走り終える頃には肺も足の疲れも限界を迎え、ゴール後過呼吸を起こしたり暑さと相まって嘔吐感を催す選手も少なくはない。


私は、そんな競技の選手だった。



「そういや、お前インハイいつだっけ?」

「今週末」

「お、なら俺たちと同じだな」


金曜日の帰り際、寄り道の計画を立てる生徒や部活に向かう生徒たちの会話で、ざわつく教室。

私と宍戸は部活の準備をしながら、来週に控えたお互いの大会の話をしていた。


「へえ、テニス部もなんだ。関東大会?」

「おう。お互い勝って来週には祝勝会だな」

「うん!頑張らなきゃね」


会話をしながら靴箱へと向かい、そこで宍戸はテニスコートへ、私はグラウンドへ。
それが私たちの日課だった。


しかし、今日は。



「あの、よ」

「ん?」

「あー、もし、俺が勝ったら、」


目線を外しながら、言いにくそうにする宍戸。いつもハキハキと物を言う彼にしては珍しい。


「?」

「……、あーやっぱなんでもねえ!」

「え、気になるよ」

「いい、忘れてくれ。勝ったらその時に言う」

「う、うん。わかった」


そして彼は、決意のこもった燦然と輝く瞳で、またなと告げる。

宍戸は、爽やかだ。
嘘はつかないし、自分を偽りもしない。テニス部でレギュラーをしているくせに「俺は平凡だからな」と笑って、陰で人一倍の努力を重ねるような真面目な人。
上品ではないけれど、氷帝では珍しい庶民的でさっぱりとした性格が、女子には密かに人気だった。

体育大会でのことがあってから、私と宍戸は話す機会も増えたし、少し距離を縮めたように思う。

私もまた、多くの女子と同じように、宍戸に惹かれているのだった。





インハイの日。

準決まで進んだ私は、この1本で上位2着に入れば決勝進出だ。決勝では8人中6着までが次の大会への出場権が与えられるから、この準決の結果は自分がその6人に入れるかどうかの目安の一つになる。

奇しくも、同じ組には3年連続顔合わせとなった子の姿もある。彼女には、3年連続400mで直接対決をしながら、ただ一度として勝てたことはなかった。

後輩が作ってくれた、校章入りのハチマキを巻き、トラックに向かう。


『On your mark』


スタートブロックをセットし、両足を乗せる。

もしここで負ければ、この400mが中学最後になる。

けれど、そんなことは関係ない。


『set』


ただ、いつも通り走るだけだ。


弾けるような雷管の音が響き渡り、一人のフライングもなくレースが始まる。


不思議だ。
どんなに悩みがあるときも、練習が嫌で嫌で仕方ないときも、走っているこの瞬間はその全てから解放される。周りも見えない。声も聞こえない。体の疲弊も息苦しさも感じない。ただ、意識がふわふわと漂うようなのだ。

私が何もしなくても、全てを覚えたこの脚と腕がゴールへと誘ってくれる。


この感覚が、たまらなく好きだった。
自分の身体が、愛おしく感じるのだ。辛い練習を乗り越えた体は、私の思い通りに私の体を運び、この感覚を与えてくれる。


気付けば、ゴールは目の前だった。
ラインを割り、流れに身を任せて、勢いがなくなったところで止まる。

走っている最中は襲ってこなかった苦しさが、遅れてやってくる。荒い息。肺が酸素を求めているのだ。けれどこの苦しさすらも、達成感として快感を与える。



けれど。

ゴールする瞬間に、そのラインの向こうにいた選手の数は2人。

つまり、私は3着。

敗退、だった。



終わり、なんだなあ。


目頭が熱い。
けれどまだ、まだ泣くな。


トラックに向き直り、見渡す。
そこには泣き顔が溢れている。夢が費えた者たちの、涙。今日、どれだけ多くの選手の涙が流れたのだろう。

そのすべての涙を知っている、トラック。

精一杯涙を耐え、私を包み込んでくれたトラックに一礼する。


そこで、限界だった。
両目からは堰を切ったように涙が溢れ、整わぬ呼吸と相まって嗚咽が漏れて顔が上げられない。

私は、精一杯やった。努力は怠らなかった。
それでも、悔しさは消えない。


足音が聞こえ、肩を叩かれる。
チームメイトかと思って顔を上げると、そこには一度も勝てたことのなかった彼女の姿があった。顔や名前は知っていたけれど、話したことは一度もなかった。

私がゴールする瞬間、彼女がゴールの向こうにいる姿が見えていた。また私は、負けてしまったのだ。


「……結局、あなたには一度も勝てなかったね」


涙を拭いながら、自嘲めいた言葉をかける。
彼女は少し寂しそうな目をしていた。


「でも、こんなに辛い種目を、あなたほど綺麗なフォームで楽しそうに走る人を、私は知らない。……いつも、かっこいいなって思ってた」


そう言って彼女は、掌を私に差し出した。
ずっと負け続けた私だけど、彼女のように速く走れる子の心に、残る走りができたんだな。

悔しさは消えないけれど、どこか清々しい気持ちでその掌を握る。


「……ありがとう。決勝、頑張ってね」

「待って。…ねえ、そのハチマキ、もらえないかな?」

「え?」



「あなたのバトンは、私が必ず繋ぐから」



決意を宿した強い瞳で、彼女はそう言った。

多くの敗者達。
けれど、その敗者一人一人に夢や目標があった。皆努力を重ね、いろんなことを乗り越えながら陸上に向き合った。だからこそ、悔しい。

でも、ここで終わりじゃないんだね。


私は、拭ったはずの涙をまた一つ零しながら、彼女にハチマキを託した。頑張れと心の中でもう一度エールを送って。

私のバトンは今、彼女に繋がったのだ。


仰ぎみる空。
そこにはただ美しいだけの青と、焼くような日差し。


宍戸、ごめん。
祝勝会、あげられなくなっちゃったよ。





「そっか、お疲れだったな」

「宍戸こそ」


週が明け、宍戸と学校で顔をあわせる。
テニス部は関東の初戦で、同じ東京の学校に敗れたらしく、校内はその話題で騒然としていた。


「これで引退、なんだねえ」

「ああ、なんか、実感わかねえよな」

「本当にね。練習漬けの毎日送ってるとさ、もう走りたくないなって思うの。練習休みたいなーって」

「おう」

「でも、いざ引退ってなるとさ……、走りたくて堪らなくなる。もっともっと、走っていたかったな」


辛い練習の日々にいると、忘れかけてしまう。
私が、陸上を、走ることを愛しているということを。


教室の片隅で、そんな会話を交わす。
私も宍戸も、さすがに全快とは行かないけれど、お互い全力を出し切っただけに悔いはそれほどない。


「また、走ればいいじゃねえか」

「え?」

「高校、どうせ陸上続けるんだろ?」


そう、当たり前みたいな表情で告げられる。
何も陸上は中学で終わるわけではない。トラックとスパイクさえあれば、いつだって私は走ることを許されている。


「……そっか、そうだね。その通りだ」


また、頑張ればいい。
高校でも続ければ彼女にまた会えるだろうか。

私の夢を、繋いでくれた彼女に。



「そういえば、大会の前に、何言おうとしてたの?」

「ん?」

「宍戸、何か言いかけてたでしょう?」


気になっていたのだ。
すると宍戸は、バツが悪そうに視線を逸らす。


「あー…、負けちまったんだから、言わねえ」

「でも宍戸のダブルスは勝ったんでしょう?教えてよ」

「うるせえよ。何言われても俺は負けた。だから、言えねえんだ」


今は、これで勘弁してくれ。
そう言って差し出される、購買のチーズサンド。


「んん…誤魔化したね?…でもまぁ、いっか。ありがとう」

「おう」


また私達の、日常が始まる。
いつも通りの、けれど少しだけ物足りない日常が。

でも、その日常に宍戸がいることが嬉しい。
彼と私の物語は、もう少しだけ交わっていけるのだから。


(それらを背負う覚悟があるものだけが、勝者となることを許される)


氷帝テニス部が、開催枠として全国大会への出場権を得るのは、もう少し先の話。
私のバトンは、こんな形で宍戸にも繋がっていたのだった。
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