tns | ナノ
よく降る雨だ。
昨日の夜から降り続いた雨は、日をまたぎ夕方になった今も止むことはなかった。
小降りになったのを見計らって買い物に出たのだけれど、帰る頃にはまた本格的な雨に変わってしまった。
バス停の屋根の下で雨をしのぎつつ、鉛色の雲を見上げていた。
「……みょうじ?」
呼ばれた声の方を見ると、見慣れた人影。スラリとした体躯に、ネイビーのシャツに白のパンツ。彼らしいシンプルかつ大人びた装いだ。
「手塚」
「奇遇だな」
彼はシャツと同じ色の傘を畳んで、バス停の屋根の下にやってくる。
「そうだね。買い物?」
「ああ、グリップテープを買いに行っていた」
「そっか。よく降る雨だねー」
「そうだな」
彼も、空を見上げる。
その横顔は見ているだけでいたたまれなくなるくらいに美しくて、じっと見ていることはできそうになかった。
彼から目を逸らし、同じようにまた空を見上げる。
雲が、速い。
彼も私も口数の多い人間じゃない。だから私たちの間に会話がないことなんて珍しくもなくて、かといってその沈黙を苦痛に感じたこともない。
しばらく空を眺めていると、横から視線を感じて手塚をみる。すると、やはり彼は私の方を向いていた。
「なに?」
「濡れたままでは風邪を引く。使うといい」
差し出されたのは、綺麗に折り畳まれたハンカチだった。
言われて自分を見たけれど、どう見たって私よりも手塚の方が雨に降られているようだった。
「私はいいよ、それよりも手塚の方が濡れてる。ほら、肩とか……っ」
そこまで言いかけて、はっとした。
手塚の肩は、片方だけが濡れていた。
大きめの傘を差していたはずの彼の肩が、片方だけ濡れている理由。私の頭で思いつく可能性は、一つだけだった。
誰かを、傘に入れていた……?
その可能性に至った瞬間、思わず彼から目を逸らしてしまう。
「みょうじ…?どうかしたのか」
「う、うんん。とにかく私は大丈夫だから、手塚が使いなよ」
手塚は、何も言わない。
急に態度の変わった私を不審に思っているのだろう。
けれど無理だ。
彼はその美しい姿で声で仕草で、どんな風にどんな人をその傘の中へ招き入れたのだろう。そしてどんな会話をして、どんな表情をしたのだろう。
彼を見ると、どうしてもそんなことを考えてしまうから。
嫉妬、だろうか。
嫉妬という言葉は、その文字と持つ意味の通り酷く醜い感情だ。その傘に入っていた、名も姿も知らぬ人物に対して嫉妬なんてする自分に、嫌気が差した。
すると。
「…っくしゅ」
「え…」
「……すまない」
自己嫌悪に苛まれていると、隣から控えめなくしゃみの音が聞こえて。思わず見ると、手塚は気まずそうに視線を逸らした。
「……、だから使いなって言ったじゃん」
私は買い物袋の中から、今日買ったばかりの新品のタオルを取り出す。
「ほら、じっとして」
「いや、しかし」
「新品だから水はけは良くないけど我慢してよ」
手塚の声を遮って、彼の頭にタオルをあてがう。髪についた水滴を軽く拭き取って、その後首や肩も拭いてやる。
彼は戸惑いながらも私にされるがままになっていた。
そうだ。
嫉妬なんてしている間に、私にはもっと思いやらなければいけないことがあった。彼が風邪を引いてしまってはいけない。
「よし、終わ…っ」
「みょうじ」
終わったよ。
そう言って手を離そうとしたけれど、彼の手がそれを許さない。離しかけた手首を、掴む手。その力は白く細いその見た目からは考えられないくらい、強くて。
けれど掴まれた手首よりも、胸の方が痛い。
「手塚…?」
「何を、考えている」
「…、なにが?」
「こっちを見ろ」
はぐらかそうと俯きかけ、しかし有無を言わせない彼の声に、視線を上げる。見上げた彼の瞳に、怒りの色はない。ただ、その瞳は訴えかけるように揺れている。
彼も、不安に思うことがあるのだろうか。
そうな風に勘ぐってしまう、瞳だった。
「お前の様子がいつもと違うことくらい、俺にもわかる」
何を考えている。
彼は、再度繰り返す。
「今日、誰かと一緒だったのかな……って」
長い静寂の後、ようやく私は問いかける。これが私が口にできる精一杯だった。
「なに?」
彼は、心から不思議そうに問う。
聡い人ではあるけれど、人の感情には敏感な方じゃないのだろう。言葉が足りなかったようだ。
「……肩、片方だけ濡れてる、から」
願う。
どうか彼が、私の嫉妬に気づきませんように。醜い感情を、隠し通せますように。
「ああ、これは」
さあ、彼の口から語られる物語は、私にどんな感情を与えるだろうか。
悲しみか、嫉妬か、怒りか。
はたまた安堵か、喜びか。
出来ることなら、その話が終わった時、彼と私の心に引っかかるものがなくなっていればいいと思う。
降り続く雨。
けれど雲の間からは、所々優しい陽光が差し込んでいた。
雨が止む時は、そう遠くない。
青に焦がれる
←
|