tns | ナノ
帰宅。
リビングから洩れる明かりと、ふんわりとした卵の香り。それらを五感で察知したと同時に、鼻の奥がツンとする。
ああ、ダメだ。泣いてしまう。
涙が目に溜まるのを感じながら、リビングへと繋がる扉を開く。
そこには、やわらかな笑みを浮かべながらフライパンを片手に料理をする、侑士の姿があった。
「おかえり。遅かったなあ。もう完成するから待っときや」
侑士はフライパンに視線を向けたまま、そう私に告げる。
私はそんな侑士の言葉はほとんど耳に入らず、涙が頬を伝った瞬間、その背中に思い切り抱きついた。
「侑士っ」
「うわっ、ちょ、どないしたん」
侑士は細身だけど、こうして抱き着くとやっぱり男の人だ。そのしっかりとした背中に抱き着くと、落ち着くし安心する。胸いっぱいに息を吸い込むと、侑士の香り。私と同じシャンプーとボディーソープを使っていて、香りには慣れてしまっているはずなのに、侑士からはこんなにも優しく香ってくる。
何も答えない私に、侑士は続けて「何か嫌なことあったんか?」と尋ねてくれる。
嫌なことは、あった。
どうしようもなく腹が立っていたし、悔しくて、泣きそうで、やるせなくて、何が正しいのか、私が間違っているのかもわからなくて、侑士に愚痴を聞いて欲しくて、帰ってきた。
けれど。
私は首を左右に振った。
「何でもない、よ」
けれど、もう、良い。
涙を我慢して、侑士に愚痴を聞いて欲しくて帰ってきた。
でも、家に帰ってきて、明かりが灯っていて、いつものように侑士がいて、おかえりと言ってくれて、美味しそうな香りが漂っていて。
そして流れた涙は、我慢していた涙とは違っていた。
幸せだなぁと思ったのだ。幸せで、嬉しくて、泣いてしまった。いつも通りの侑士が愛おしくて、思わず抱きついた。
「まぁ、なまえがそない言うんならええけどな」
侑士は全てを見通したような優しい溜め息を零した。そして火を止め、フライパンから手を離すと、お腹辺りに回した私の手にその手を重ねる。じんわりとした温もりに、私のささくれだった心はゆっくりと撫でつけられ、癒されていく。
「夜ご飯、なに?」
「オムライス。卵ふわっふわにしといたで」
「ほんと?うわ、急にお腹減ってきちゃったなー」
ふっと吐息で笑う声が聞こえ、侑士が体勢を変えて正面から抱きしめられる。すっぽりと侑士に包まれ、視界も頭の中も侑士でいっぱいになる。
「ほな、一緒に食べる前に充電させて。なまえが帰ってくるまで寂しかってん」
ぎゅっと痛いくらいに抱きしめられる。その痛みも、言葉も酷く甘い。
侑士は、私が話さないことは聞かない。
聞かないけれど、私を甘やかして、悩みを話すよりもずっと楽にさせてくれる。幸せにしてくれる。
「よっしゃ、充電完了や。運ぶの手伝うてくれるか?」
「もちろん」
「ほなサラダ頼むわな」
侑士は黄色くてふわっふわのオムライスの乗ったお皿を二つ持ち、キッチンからリビングへ向かう。
その背中に、私は名前を投げかけ。
「侑士、ありがとう」
この胸にある様々な想いは、言葉をいくら重ねても足りない。だから、侑士のくれる全てに対して、お礼を。
すると侑士はお皿を両手にゆっくりと振り向いた。
「オムライスくらいいつでも作ったるやん」
零れた言葉とその笑顔は、やっぱりとびきり甘い。
悩む日も、泣いてしまう日も、立ち止まる日もあるけれど。
帰る場所に侑士がいる。
私はそれだけで充分頑張れる。
願うのは、こんなに私を大切にしてくれる侑士に、私も何かを返せていればいいのだけれど。
すっかり涙の乾いた私は、侑士の作ってくれたオムライスに食欲をくすぐられながら、駆け足でリビングにサラダを運んだ。
とろけるような
(その甘さに、ずっと溺れていたいから)
忍足、誕生日おめでとう!
2014.10.15.
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