tns | ナノ
「何の本を読んでいるんだ?」

突然かけられた声に、息が止まってしまったかと思った。突然人に声ををかけられたからではなく、それが他でもない彼だったから。

「て、手塚君!?」
「ああ、そうだが」

驚いて、思わず大きい声でそういうと、天然なのか違うのかよくわからないような答えが返ってくる。手塚君だなんてことは百も承知なのだけれど。

「すまない、驚かせてしまったか」
「う、うんん。大丈夫だよ。……読んでるのは、ミステリー」

そういうと、そっと私の手元に視線を移す手塚君。視線を下に向けたことで、伏せ目がちになった目元にドキリとした。

「隣、いいか」
「え?」
「少し、本を見せてもらえないか」
「う、うん。どうぞ」

早鐘を打つ鼓動を悟られぬよう、なるべく平静を装って答える。手塚君が隣にトサリと腰掛けた瞬間、思わず逃げ出してしまいたくなるくらいに緊張した。

風に乗って、手塚君からほのかに爽やかな香りがした。何ていい香りなんだろうと思うと同時に、頬が赤くなるのが自分でわかる。


私の日課は、お昼休みには誰も来ないような校舎裏のベンチで本を読むことだった。私が手に取る本は8割がミステリーなので、必然的に学校で読むのもミステリーに偏る。

教室の中の、独特の喧騒が苦手だった。集団に縛られることが憂鬱だった。学校という空間が、嫌いだった。だから、休み時間には教室を出ることにしていたのだけど、持て余した時間を消費するには読書が一番手軽で有意義だった。

手塚君とは1年と3年とクラスが同じだけれど、それほど多くの会話をしたことはない。

けれど。
私はもうずっと、手塚君に恋をしていた。

「あの……よかったら、読む?」

隣で興味深そうに表紙や背表紙のあらすじを読む手塚君に、勇気を振り絞ってそう尋ねる。すると手塚君の視線が私に移る。

「しかし、みょうじが読んでいる最中だろう?」
「私、もう2回くらい読んでるから。お気に入りのとこだけ読んでたんだ。だから、気にしなくていいよ」
「そうか。ありがとう」

どういたしまして、と告げたところで、予鈴が鳴る。その音にホッとしたような気もするし、少し残念なような気もした。

「そろそろ次の授業が始まるな。俺は先に戻ろう。本、ありがとう」
「うん。私もすぐに戻るね」

ああ、と短く言うと、手塚君はベンチから立ち上がって、校舎へと戻っていく。


手塚君は、どうして私に話しかけたりしたんだろう。あの時のことを気にしているのは私だけなのだろうか。あれから、手塚君とは本格的に話すことがなくなったように思う。



それは、1年生の時のことだった。

私は、クラスでは完全に浮いた存在だった。元来の気の強い性格と、良くも悪くも意見をはっきり主張する性分がクラスには馴染まなかった。
そして、クラスでも目立つ存在だった男の子の告白を断ったのを機に、私は、完全な嫌われ者となっていた。

陰口や地味な嫌がらせが続く日々に、私は疲れ切っていた。

けれど、そんな私の唯一の楽しみが、手塚君だった。彼は私とは違って良い意味で、皆と一線を画していた。整った顔立ちに大人びた言動、そして凛とした姿勢。
そんな彼は、休み時間に頻繁に本を読んでいる。クラスに雑談をする相手もいなかった私は、読書をする手塚君をこっそりと眺めるのが好きだった。

手塚君は学校の図書館をたまに利用している。そのことを知った私は、もともと読書は好きだったこともあり、図書館に通い始めた。するとそれが功を奏し、たまに図書館で遭うと、手塚君は私に声をかけてくれた。何を読んでいるんだとか、共通して読んだ本の話だとか、内容は様々だったけれど、彼はクラスに馴染めなかった私にも、他のクラスメイトと同じように接してくれていた。


けれど、ある日を境に、そんな私の楽しみは失われてしまう。

席替えの日だった。私は強いくじ運で、手塚君の隣の席を引くことができた。昼食の時間は、席を向かい合わせにし、グループの形にするのがクラスの習わしで、当然その日も私たちはそうした。手塚君の正面に座ることになり、私は緊張で昼食の箸が全く進まなかった。

「どうかしたのか?」
「ううん、何でもないよ」

思えば、教室で手塚君と話すのは初めてかもしれない。そのなんとも言えない恥ずかしいような嬉しいような感覚が、恋であることを私は知っていた。

その時、私が告白を断った男の子が、大きな声で私に話しかけてきた。


「みょうじって手塚が好きなの?」


その声に、教室中が静まり返る。口にしたことはなくても、私の行動を観察していれば、気づくことは不可能ではなかったのかもしれない。動揺で何も言えない私に、男の子は嘲笑を向ける。そして今度は、手塚君に向かって話しかける。

「手塚も可哀想だな、その席になって。良かったらこっちに来て一緒に食べるか?」

陰口も、嫌がらせも、どうでもいい。手塚君だけが、私を嫌わずにいてくれれば良い。想いが届かなくてもいい。ただ、手塚君を遠くからそっと眺めて、たまに図書館で出会ったら、少しだけ他愛もない話をして。それだけで、よかったのに。

学校や、クラスという閉鎖的な空間は、そんな私の唯一の願いも叶えてはくれない。

再び訪れた教室中の沈黙が、私には永遠のように思えた。手塚君は、何と答えるのだろう。身体が震えるのがわかった。手塚君の反応を見るのが怖くて、私はただ俯くことしか出来なかった。


長い、長い沈黙の後。



「俺の席はここだ。昼食はここで摂る」



それからどうやってその日を終えたのかを、私は覚えていない。けれど幼稚な集団の注目は私から手塚君へと変わり、その日からしばらく”手塚はみょうじのことが好きだ”と騒ぎ立てた。ありもしないことを噂されて、手塚君には迷惑をかけてしまった。

そんな引け目から、私は図書館通いをやめたし、手塚君の顔を真っ直ぐ見ることが出来なくなった。避けて、しまった。
手塚君もそれを感じ取ったのか、教室内で私に話しかけることはなくなった。


2年になりクラスが変わると、私へ嫌がらせをする人はいなくなり、手塚君ともクラスが離れ、読書以外の接点もない私達は関わることもなくなった。クラスでほとんど誰とも交流を持たない私は、浮いた存在であることには代わりは無いけれど、1年の時に比べれば平和な時間を過ごした。


3年になって手塚君と同じクラスだった時は、嬉しさ半分戸惑い半分だった。1年の時の噂を覚えている人はほとんどいないだろうけれど、それでも手塚君に話しかけられるほどの勇気は私にはなく、また更に大人びて美しく成長した手塚君と話すには、私の恋心は膨らみすぎてしまった。



それなのに。
まさか、手塚君から話しかけてくれるなんて思わなかった。

あの頃から消えることのない手塚君への想いが、私の胸を締め付けるようで。けれどその痛みは、例えようがないくらい甘かった。

本当に私はどうしようもなく、手塚君に恋をしていた。



それから、数日が経って。

お昼休み、いつも通り私が校舎裏のベンチで本を読んでいると、再び手塚君がやって来た。

「隣、いいか?」
「うん…、どうぞ」

数日前と同じように、手塚君が私の隣に腰掛ける。そして今日も、手塚君からは爽やかな香りがして。それはほんの僅かな香りなのに、目眩がするようだった。

「本、ありがとう」
「もう、読んだんだ」
「ああ。みょうじが選ぶ本は面白い。集中して読んでしまった」
「そう、かな?」

「ああ。……あの頃から、みょうじの選ぶ本が好きだった」

動揺と緊張を隠して会話をしていたのに、手塚君は核心に触れることを言う。

「1年の、時のこと?」
「ああ」

あの時、私はあんなに手塚君に迷惑をかけてしまったのに。手塚君を避けるようなことをしてしまったのに。手塚君はまたこうして、私に話しかけてきてくれた。


謝りたいと思った。
あの時の私の弱さを、未熟さを。

私は顔を上げて、久しぶりに手塚君を正面から見た。手塚君も真っ直ぐに私を見ていた。色素の薄い髪も、シャープな眼鏡から覗く同じ色の瞳も、通った鼻梁も、結ばれた薄い唇も、何もかもが綺麗だった。

「手塚君、あの時は、私…」

「待て」

謝ろうとした私を、手塚君が制する。先ほどまでは凛としていた瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。

「俺から、言いたいことがある。先に言わせてもらってもいいか?」
「う、うん…」

手塚君は刹那瞳を閉じて、すぐにまた開く。今度はもう、その瞳は揺れてはいなかった。


「守ってやれなくて、すまなかった」


そう言って、頭を下げる。
私には、手塚君の言外の意図を汲み取れなかった。

「ど…どうして手塚君が謝るの?」
「あの時、みょうじが俺を気遣ってくれていたことは知っていた。そうすることで、お前が傷付いていることも。だが俺は、何もしてやれなかった。どうすればお前が傷付かなくて済むのか、守ってやれるのかが、わからなかった」

だから、すまない。
ずっと謝りたいと考えていたのに、こんなにも遅くなってしまった。

手塚君はとても辛そうに、後悔を滲ませてそう言った。
聡明な手塚君は、私の考えや手塚君を避けていたことの意味を、全部わかってくれていた。わかってくれた上で、私が傷付かなくて済む方法を、きっと一生懸命に探してくれていた。

「私こそ、ごめんね。迷惑をかけて、弱くて、ごめんなさい」
「みょうじが謝ることなんて、何もない」
「手塚君はそう言うと思った。でもやっぱり、ごめん。それと、ありがとう」
「何に対して、だ」

「あの時、私の前にいてくれたこと」

そう言うと、手塚君は眉間に皺を寄せる。きっと、私の言葉の意味を図り兼ねているのだろう。

「手塚君は守れなかったって言うけど、あの時、私はすごく救われたよ」

男の子に冷やかされ、長い沈黙がクラスを支配したあの時。手塚君が私の前から去らないでくれた時。手塚君の言葉は、きっと思ったことを口にしただけで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだろうけれど。手塚君の毅然とした態度に怯えたのか、それからクラスからの私への嫌がらせはほとんどと言って差し支えないほどになくなった。
手塚君の意思に関係なく、手塚君の言葉は、私をクラスから守ってくれたのだ。
今まで伝えられなかった感謝を、伝えたかった。話しかけることができずにいた時間、もし手塚君に話しかける勇気が出たら、言いたいことがたくさんあった。

「それに、嫌われ者だった私にも、手塚君だけは他の皆と同じように接してくれたよね。だから私、手塚君と話している時間が、学校で一番楽しい時間だったんだ」

けれど、私がそう言うと、手塚君は気まずそうに視線を逸らす。何かまずいことを言ってしまったのかと不安に思ったけれど、手塚君の様子は気分を害しているという風では無かった。

「そうじゃ、ないんだ」
「そうじゃないって、何が?」

手塚君は、言いにくそうに言葉を濁す。けれどやがて、私が思いもしなかったその本心を語ってくれた。

「俺は、他のクラスメイトと同じようにみょうじに接したことは一度もない。下心が、あったからだ」
「した、ごころ…?」
「ああ。俺は元々、ミステリーはそんなに詳しい訳ではなかった。だが、お前がいつもミステリーを読んでいたから、読むようになった。お前が訪れると知ってからは、俺が図書館に訪れる目的は、読書ではなくなってしまっていた」

だから、お前の俺に対する評価は過分だ。
私から視線を逸らしたまま、そう告げる手塚君。


そんな。その言い方では、まるで。

「もう一度お前に話しかける決意をしたのも、謝りたかったというのは嘘ではない。しかしそれは口実だろう。本当はただ……お前と過ごしたあの時間に焦がれ、もう一度と願ったに過ぎない。俺は、お前が思うような出来た人間では、ない」

手塚君が私に話しかけてくれていたことには、下心があったという。そしてその時間をもう一度と願って、また私の元へ来てくれた。


それは、つまり。
辿り着いた一つの可能性。

けれどそれはあまりにも都合が良くて、にわかには受け入れられずにいた。

「手塚君、そんなこと言われたら、期待しちゃうよ…?」

私は恋愛に慣れていない。
経験不足が、こんな都合の良い思考に至らせているのではないかと思った。だから、確認の意味と、私の考え通りであればいいという祈りを込めて、手塚君に問う。


もし。
もし手塚君の答えが、私の想像通りであったのなら。きっとその瞬間私は、世界一の幸せ者となる。

友達も彼氏もいらない。学校という狭い世界の中での地位も人望も、必要ない。
けれど、あの頃から、そんな世界でたった一つだけ輝くものがあった。けれどそれはあまりにも眩しくて、欲しいと望むことがおこがましい程で。でも、本当はずっと求めていた。


あの時の私達は、きっとまだまだ幼かった。けれど今なら。あの頃出来なかったことが、出来るかもしれない。

例えばあなたのそばにいて、同じ時間を共有すること。例えば周りの力に流されることなく、自分を強く持つこと。例えば、好きなものを好きだと言うこと。

そんな強さを、私達は手に入れられただろうか。

愛しくてたまらない人の言葉を待ちながら、私はそんなことを思っていた。

ミステリー少女の恋情
(少女は美しくも弱かった。その美しさに対する羨望に耐え切れないほどに。けれど、長い孤独は彼女を強く逞しく育み、たった一つの願いを叶えんとする)
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -