Mamma

 たずねたことがないから、聞いたこともなかった。彼女が自分から話そうとしたことはなかった。彼女の、『お母さん』のこと。



「重いね」
 安定しない首をどうにか支え、落ちやしないかとひやひやしながら赤ん坊を抱き上げて、ようやく出た言葉がそれだった。彼女は赤の他人の腕に抱かれながらも涼しい顔で眠っている我が子をのんびりと眺めていた。
「でしょう?」
 命の重さってやつよ。にこにこ笑ってそう続ける。少し太ったようにも、やつれたようにも見えた。それでも健康そうだ。笑顔が、ぴかぴか光ってるみたい。遠目にはずいぶん小さいと思っていたのに思いの外体重がある彼女の子どもに目を落として、私は言った。
「思ったより元気そうで安心したよ」
「皆本さんってば、ナツが調子悪そうなんだってすっごく深刻な声で電話してきたんだよ、知ってた? 『産後は不安定になるっていうし、お祝いもかねて様子を見てくれないか』なんて言っちゃって」
「何それ」
 鈴を鳴らすような声。おかしくてたまらないらしい笑い声をBGMに、震えてきた腕に逆らうことなく赤ん坊を下ろした。慎重に、慎重に、──真新しいベビーベッドから香った子どもの匂いに、一瞬、胸の中が真空になったような感覚をおぼえた。ミルクか、肌か、とにかくあたたかい、真っ白な、なにかの匂いがする。
 てのひらにぼんやりと残った温度がいつまでも消えない気がした。……腕が、じんじんとしびれた。
 ぼんやりと赤ちゃんを見つめる私の頭に、不意に彼女の声が割り込む。「……ていうか、そういえば、今は私も皆本だけどね」。

「……なに、いきなり。まだ自覚ないの?」
 皆本、夏さん。なじみのない彼女のフルネームを唇にのせると、小学校で点呼をとっているかのような快活な返事が聞こえてきた。少し呆れて、笑みを漏らす。
「はいはい、元気で何より」
「……でもね、だって、そうじゃない?」

 彼女はふと声のトーンを落として言った。何を指して言ったのかがわからず、私は首をかしげる。

「これから私もどこかで『皆本さん』って呼ばれるようになるのかなってちょっと思って、そしたらなんかおかしくて」

 そう言ってかすかに眉を寄せた彼女から、つい目を逸らした。私にはそんなこと想像できない。きっと、いつまで経っても、できない。
 視線は合わせられないまま、のろけないでよ、と中途半端に笑って言ってみても、彼女はきちんと笑った声で言葉を返した。気づいているのか、いないのか。ため息を飲み込んで話題を逸らす。
「そういえば、皆本さん──としか呼べないわ、私には、やっぱり……皆本さんは、今日は?」
「ん? あぁ、そうそう、邪魔したくないって言ってマドカが来るちょっと前に出かけていったの。いつもはそんなことしないのにね」

 納得がいった、と言わんばかりに肩をすくめた彼女に、
「でも、心配されてたってことは元気ないように見えてたんだろうし」
「無理しないようにね」なんてなかば茶化すようにそう私が言うと、あきれたような顔をしていた彼女はどこかあいまいに微笑んだ。そうね、と相槌を打った声が、小さかった。
 そうしてぽつりとつぶやく。

「不安があるとしたら、たぶん、『お母さん』っていうものを他人より知らないってことだけなんだよね」

 ──胸の中が、今度こそ真空になった。


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