アイ・リメンバー

百合っぽい



 私は覚えている。十年前、高校を卒業した日に、正門へと続く桜並木の中で鹿子(かのこ)がどんな風に笑ったか。私に向けられたその笑顔をかき消すような桜吹雪、あのうつくしき光景も。覚えている。長袖のセーラー服の紺色、履き潰した茶色いローファーの皺。あの日の鹿子のすべて。
 私は今でも、目を閉じるだけで、それらを鮮明に描き出せるのだ。

   ×

 戸谷鹿子は転校生だった。父親の仕事がどうとかで二年の三学期というなんとも中途半端な時期に現れた彼女は、田舎町の小さな高校でいつまでも指定服である灰色のブレザーとは違うセーラー服を着て背筋をすっと伸ばし、どこかとおくを見ているばかりで一向に他人と交わろうとしなかったので、その服装が浮くのと同じようにいつまでもクラスでなじまないままであった。いっそ人間味を感じられないほど整った顔立ちと、女子の中でずば抜けて高かった身長も、それに拍車をかけていたように思う。
 クラスの中でただ一人かろうじて友人と呼べる程度には日常的に言葉を交わしていた私も、だからと言って彼女を他の学友よりも解していたとは言いがたかった。私は、鹿子がいかにも憂鬱そうにしては嫌いだと言っていたスカーフのそれとまったく同色に見える深紅の傘を学校へ持って来て置き傘にしていた理由だとか、真夏でも重苦しい長袖のセーラー服を着て来ては暑い暑いとこぼしていた理由だとか、はたまたクラスで友達を作らない理由や、ついでに私とだけはまともに口を利く理由も、何ひとつ知らなかった。いくつかはたずねてみたこともあるけれど、納得し得る答えなど当然返って来るはずもなかったのだ。
 長袖を暑がる彼女へ脱げばいいのにと呟けば半袖を持っていないと返されたし、行事でクラスに混ざろうと提案すれば輪から連れだされ一緒にサボタージュする羽目になる。文化祭も、体育祭も、クラスマッチもそうだった。咎める気にもなれず遠い喧噪を気まずげに聞いている私に、鹿子は平生の無愛想はどこへやらやわらかく破顔して、ありがとう環(たまき)、と言ったもので、私はいつもそれだけで鹿子を許してしまっていた。女子である私でさえうっかりすると赤面しそうになるほど、鹿子は、本当にうつくしい少女だったのである。
 鹿子が物憂げにしていると、その伏し目がちな横顔はまるで一幅の絵画に見えた。鹿子の笑い方はいつだって百合の花が開くようであったし、鹿子が声を発する時それは玻璃のように響いて私の耳を打った。鹿子は私と共にいれば人並みをふたまわりほど控えめにした程度には笑いも喋りもする女子高生であったけれど、どこかで誰にもゆるさないかたくなさをずっと携えていたように思う。透きとおらんばかりの白い肌はいつでも拒絶をまとっていた。彼女にはどうしてか、何をしていても、淋しさや悲しみや孤独がひたりとついて回っていたのだ。
 淋しさは温度となって鹿子の背中に貼りつき、その背筋を冷たく正していた。悲しさは色となって鹿子の瞳に宿り、その黒さをますます深めていた。孤独は匂いとなって鹿子の髪を揺らし、かたわらに座る私の胸をいっぱいに満たしては切なさを押し寄せさせていた。そして私は鹿子のそんな、鼻がすんとするようなうつくしさをこそ、一等愛していたのだ。

 高校最後の一年間、つまりちょうど出会ってから卒業するまでの間だけ、私と鹿子はずいぶん懇意に付き合っていた。大学へ進学してからもしばらくは連絡を取り合っていたけれど、彼女の方から手紙が途切れるとそれっきり、気づけばもう十年になる。鹿子の所在はもはや知りようもない。探す気にもならないのは、手紙をもう一度送らなかったのは、鹿子とずっと友達でいたいなんて願いよりも、あの日のうつくしさの方が勝ってしまったからだった。──卒業式の日のことだ。

 式がすっかり終わったあと、別れを惜しむ集団からやはり早々に抜けて来てしまった鹿子は、長袖のセーラー服を着て、ヴェールのような長い黒髪をいつも通り髪飾りひとつ付けずまっすぐに垂らし、卒業証書を詰めた真新しい筒を右手に、置き傘にしていた赤い傘を左手に持って桜並木を降りていた。立ち並ぶ満開の桜が、春を思わせる風に淡い色の花びらを散らしていた。風が吹いては鹿子の重たいスカートを揺らし、黒髪をなぶって、花びらに彼女を見失わせる。鹿子、と私が彼女を呼ぶと、鹿子は振り返って笑った。常になく、屈託のない、子どものような笑顔であった。スローモーションのようにゆっくりと開かれた口が、動く。

「環」

 ゆるやかなその声に終わりを感じて泣きそうになる。そんな私へ、鹿子はおだやかに、いつもの言葉を、最後の言葉を、告げた。

「ありがとう、環──」

 ……ああ、これでお別れだ。
 そう思って目を閉じ、もう一度開いた時、鹿子の背中はもうずっと小さくなっていた。
 揺らがないまっすぐな背中。揺らげない細い背中。なかば呆然として見送る私の視界を覆うようにまた桜吹雪が舞い、それが晴れた時、とうとう鹿子の背中は、消えてしまったのだった。夢のような光景だった。けれども、私は確かにこの目で見たのだ。覚えている、完成された別れの日を、夢のようなその日を、十年が過ぎた今でも。

   ×

 鹿子と再会した時、私は恋人と暮らしている狭いアパートに重たい足を引きずって帰っている最中だった。足が重ければ気も重く、夜勤明けであるのも手伝ってとかく思考に影が射していたその朝、三月になっても一向に春の訪れを感じない並木道が母校の桜並木と少しだけ似ていることにふと気がついて、うつむかせていた顔を上げた。その、瞬間。運命というのはこんな風にはたらくものなのだと知った。
 前方から、七、八歳くらいの男の子と、母親らしき若い女性、という取り合わせの二人が手を繋いで歩いて来ていた。その若い母親、どこか疲れた顔をしながらも穏やかに息子と言葉を交わす彼女が、私が視界に二人を認めたちょうどその瞬間にふっと視線を前へやったのだ、そうして──魔法のように──目と目が合う。ぱちり、と、音がしたように思った。どちらのタイミングがずれていても、素通りしていただろう。気づかなかったはずだったのだ。

「 環 」

 彼女の口にした真綿のようなその響きが、目をみはる私の耳に届いた。


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