Mamma 2 彼女──ナツと私は、高校のころ同じ部活に所属していた同級生だ。 私達が当時入っていたのは部室でカードゲームをしたり寝たりお菓子を食べたりするのが主な活動のような、することが全くと言っていいほどない文芸部で、気まぐれに部室の戸をくぐってはたむろするという今思うと時間の無駄遣いもはなはだしい行為が私たちの日常だったのだけれど、そんな日常の中で私にはたった一つ、誰にも言えないできごとがあった。私だけの秘密があった。 ……その時、珍しく私たち以外に部員がいない部室で、滅多にない文芸部の『正式な』活動──部員の作品を集めた配布冊子作り──の原稿のために徹夜したというナツは部室に着いた瞬間崩れ落ちるように眠りにつき、私は仕方なくそのそばで本を読んでいた。それがいつごろのことだったのかは正確には覚えていないけれど、彼女に母親がいないということを知ってからはもうだいぶ経っていたと思う。 (最初こそ意図的に家族の話題や何かを避けたりしたものの、彼女自身が父親との二人暮らしについておもしろおかしく話したりしてあまりにあっけらかんとしていたので、下手に気をつかう方がむしろ不快になるかもしれないとそのころには意識するのをすっかりやめていた。たしかそのあたりに初めて会ったナツのお父さんは、朗らかで不器用な彼女とよく似たおじさんだった。彼女に聞かされていた『お父さん』の話から浮かぶイメージとぴったり合う人だった。二人はとても自然で、平和な親子なのだ。それは、今に至るまでずっとそのままだ。) 本を一冊読み終えてふと目を上げた時だ。ぼんやりと開いていたナツの目と視線がかち合って、一瞬心臓が止まるかと思った。まだ寝ているとばかり思っていた。ナツは昔から寝ている間ほとんど音を立てない。 「……起きてたの?」 本を閉じて脇に置き、無言でこちらを見ている彼女にそうたずねる。彼女は何も答えなかった。目が、いつもと違う、と漠然と感じた。「ナツ?」と問いかけるように呼ぶとやはり無言でこちらににじり寄り(ほふく前進をしているようで少しだけ面白かった)、私の腰に手を回して顔を伏せる。ねぼけてるのか、とまた声をかけようとした時、彼女が何事か口ごもった。ま、と聞こえたので、マドカと言われるのだろうと思っていた。 「 ── ママ 」 その言葉が耳に届いた時だ。どうしてか、鮮烈に記憶に残っている。 赤ちゃんの匂いが、した。 ミルクと、肌と、ビスケットとシーツと──とにかくあたたかい白さのなにもかもをごちゃまぜにしたような、ひたすらに甘い匂いだ。私はひどく泣きそうになって彼女の名前を呼んだけれど、ナツはもう眠っていた。たぶん初めから起きてはいなかったのだろう。……でも、私はどうしても、寝ぼけて母親と間違えられたのだとか、そんな単純なものとは違うとしか思えなくてずっと泣きそうなのをこらえていた。彼女がときたま母親について言及する時、いつでもナツは「お母さん」と言っていたからだ。それは、彼女の父親と話しをする時でさえそうだった。 ──それから一時間近く後、今度こそ本当に起床した彼女は自分と私の体勢に気づくとばかに狼狽したものの、どうしてそうなっているのかは何も覚えていなかった。 私は、何も言わなかった。 「まぁ、でも、要は慣れだよね。きっと」 「……ナツのそういうところ、ほんといいと思う」 「そう?」 彼女はやはりのんびりと、目を細める。 彼女がこの先「お母さん」と呼ばれるようになっても、「皆本さん」と呼ばれるようになっても、私にはその呼び名を彼女のものとして飲み込むことはできない気がしていた。もうずいぶんと長い付き合いだけれど、生の彼女に触れた瞬間というものがあったとするなら、それはあの時だったのではないか。 まだ「久坂」夏だった、私を『ママ』と呼んだ、高校生だった彼女に、私の中の彼女はいつでも、いつまでも帰結してしまうのだ。 20121026/Mamma ←[back]→ |