アイ・リメンバー 2 男の子がオレンジジュースをストローで泡立てているのを、鹿子が小さな声でたしなめる。フウタ、遊ばないの、という言葉に、私はアイスティーをかき混ぜていた手を止め男の子へ笑いかけた。 「フウタ君っていうの?」 一瞬私と目を合わせた彼は眉を寄せてうなずくと、鹿子に隠れるように身を縮めて顔を伏せる。やはり顔立ちはきれいだけれど、垂れがちな細めの目も、がっしりとしたかたちの鼻も、鹿子には全然似ていなかった。目に宿った強い光だけが学生時代の彼女を思わせるものだったけれど、それは受け継がれたものというよりはむしろある種の生き方を享受した人間に共通する類の鋭さで、つまりは幼い彼は私の目にすでに孤独に見えたのだった。鹿子はうつむいたフウタ君の頭に手のひらでそっと触れると、困ったように笑って私に答える。 「風に、太いって書くんだ。『風太』。」 「いい名前ね。いくつ?」 「今年で七才かな。月末に誕生日があって、四月から三年生。」 ふうん、とうなずこうとして、不意にマドラーを持つ手が止まった。どう数えても鹿子が大学生である間に産んだ計算となることに気がついたのだ。鹿子は見透かしたように目を細めた。 「変わらないね、環。すぐ顔に出るんだから。」 「……鹿子は変わったね。」 鹿子の真っ黒な瞳の中でそう言った私は、情けないほどに困った顔をしていた。結露したグラスが私の左手を冷たく濡らしている。机の上でゆるく握られた、指輪のひとつも光らない荒れ気味な手を開いて、鹿子は静かに言った。 「色々あるもの。」 人生、ね。 そう続けるくたびれた目には、泣きたくなるくらい優しい光が灯っている。 「……男の人が逃げちゃってさ。勝手に産んで、勝手に名前を考えて、ずっとこんな風に。」 ──生きてきてしまった。 穏やかに、簡潔に、鹿子が語ったのはそれだけだった。大変だったね、という私の声は清々しいほど空っぽで、鹿子はやはりわかっている風にうなずいた。 「環は? 結婚とか。」 「うーん……するような、しないような。」 なにそれ、と鹿子が笑う。それにあいまいに笑い返して、少し迷い、再び口を開いた。 「しばらく前から暮らしてる人がいるんだけど、最近、こう……年齢が年齢だしね、結婚とかそういうの、ちらつくようになったのが──」 重たくて、という言葉は出てこなかった。鹿子は軽く首をかしげて聞いている。ああ、これは昔からのくせだ。私の知る鹿子。目の前にいるのは、本当に鹿子なのだ。 「──ちょっと、疲れちゃって。今は二人とも働いてるから、それがどうなるのかとか、子どものこととか。」 話せば話すほど場違いになっていくのがわかる。子ども、というワードに反応してか、鹿子はちょっとほほえんだ。 「子ども、はね、いいものだと思う。私は。」 「そう?」 「冒険してるような気分だよ。何が起こるのか、わからなくて。」 ──思わず、目を逸らした。 不自然に見えていませんようと思いながらアイスティーを口に運ぶ。氷の溶けた上澄みが口の中に広がって、味はほとんど感じなかった。話がしたいという鹿子に連れられてきた、コーヒーが売りらしい喫茶店で、これといって特筆すべき感想はないアイスティーを飲みながら急に、恋人の待っているであろうアパートへ今すぐ帰りたいという衝動に駆られる。 どうなるかわからないものに生身で突っ込んでいって、それでもなんとか生きていく、なんて……生きてきただなんて、そんな子じゃあ、なかったのに。 「私は、」 ぽつりと呟いた私に気づいて、鹿子がまた首をかしげる。 「たぶん、そのうち結婚するよ。」 「……そう。」 「仕事もきっとやめてしまって、子どもを産んで、育てて、」 「うん。」 「……普通に、このまま、生きていってしまうよ。」 「それが一番、幸せだよ。」 鹿子は、伏し目がちにそう答えた。 ぞうっとするほど人間らしい表情だった。 ……そう、だろうか。 普通に結婚して、普通に仕事をやめて、普通に子どもを育てて、──何だろう、私は一体、何がこんなにも引っかかっているというのか。 「どうかした?」 黙り込んだ私に鹿子がたずねる。ううん、と首を振って、笑顔を作った。 「ちょっと眠くて。夜勤明けなの。」 「あ──ごめん、引き止めちゃって。帰るところだったのか。」 「ううん。鹿子こそいいの?」 「私達は別に。公園行こうとしてただけだから。」 話せてよかった、と言う鹿子にほほえみ返して伝票を手に取る。鹿子はあわてたように腰を浮かせた。 「お金、」 「おごるよ。誕生日プレゼントだとでも思って。」 それにしてはずいぶんと安いものだけれど。 もうすぐでしょう? とたずねると、どうしてかポカンとした顔になる。そうして、覚えていたの、と小さな声。 「そりゃね。卒業式の日、まだ一七歳だったの、鹿子だけだったし。」 「そっか……なつかしいな、卒業式。」 「うん。桜がすごかった。」 「……えっ?」 鹿子が怪訝そうに眉を寄せた。 「え?」 「桜なんて咲いてた?」 「えっ、だって……」 「三月のちょうど今頃だったでしょう。あの辺りって、四月の中旬でようやく八分咲きだったから、桜並木が寒そうでさ。」 「……そう、だったっけ。」 そういえば、ずっとそうだった。卒業式に桜は咲かない。ちょうど今頃。喫茶店の大きな窓から見える景色もひどく寒々しい。さっきもそう思ったばかりだった。でも。じゃあ、私が、 「私が転校してきたばかりの四月に、お花見に誘ってくれたでしょう。その時のことと混ざってるんじゃない?」 「……でも……」 私が見たのは、私の記憶のあの鹿子は、一体何だ? 心臓が重く脈を打つ。あれが夢か何かだったなんて、そんなはずはない。鹿子の髪が風で揺れる音さえ覚えているのに。──けれど、ああ、確かにおかしいのだ。あのうつくしき光景の、何もかもが。 耳の奥、脳髄の底で、どくりどくりと音がしている。 「どうしてそんな顔するの?」 どくり。 「……鹿子、私、覚えてるんだ。」 きっと、世界の終わりが鳴っているのだ、と思った。 ──どくり。鹿子は笑う。どくり。どくり。幕が引かれる。私の中の、褪せない鹿子の記憶に。 ああ、これでお別れなのだ。 覚えている、覚えている、私だけがずっと思い出し続ける。追憶の果てにある一生の記憶。孤独な、うつくしい、私の鹿子。ありがとう、さようなら、春はこういう季節だよ。そう告げる玻璃の声。私は覚えている。私の見ていた「戸谷鹿子」のことを。 すなわち──私の愛した、偶像のことを。 20130724/アイ・リメンバー 友人が書いた詩のイメージを小説にさせてもらいました。 ひとつだけ解説; 「玻璃」はガラス、「真綿」は文字通りのもので、 少女→母親っていう印象の変化を表そうとした結果の表現です。 ←[back]→ |