コーリング 3

 ある朝、いつものように身支度をして寝室から出ようとした時に、ベッドサイドのテーブルの上で何かが光っているのを見つけました。それはまだ古くないシルバーリングで、試しに着けてみると人差し指から薬指まではどちらの手でもはまります。買った覚えももらった覚えもないことに朝っぱらから少し切なくなりつつ部屋を出て、居間で朝食の準備をしていた津崎カケルに指輪のことを聞きました。
 その時の彼の表情だけは、私は一生忘れたくありません。けれども、いっそ、一番に忘れ去りたくもあります。

「……この間出かけた時に街で買ったものですよ。お気に入りなのに、忘れちゃったんですね」

 そう言いながら彼は笑いました。しかし私は細められた瞳が──呆れた声を出したというのに──例えようもなく悲しそうな色をしたのをはっきりと見てしまいました。束の間、私は言葉も出せませんでした。何か大事なことを忘れてしまったのだと確信して、泣きそうになったのでした。

「ごめんなさい」

 ──そう言った声さえひどく震えました。

「カケルさん、私、これをどの指にはめればいいのかも、わかりません」

 目の前の顔がみるみるぼやけていって、私はおそらく彼と暮らすようになってから初めて声を上げて泣きました。彼がばかみたいに取り乱したのはその証拠だと思います。いつものゆったりとした振るまいはどこへやら(私のせいですが)、敬語も使わず彼は私に一生懸命謝りました。私は何も悪くないのだと、忘れていくのは仕方のないことなのだと、膝をついて私を見上げ繰り返し言ってくれました。そうして、カナタさん泣かないで、と私に言う声が普段の穏やかさを取り戻した頃、私も泣いてしまったことを恥ずかしく思える程度には落ち着いたのでした。
 しばらくすると彼は私の部屋から細い鎖を持って来てくれました。受け取ったそれは指輪同様新しそうなもので、昨日までの私はこの指輪を鎖に通してネックレスにしていたのだということを聞きました。別々にして置いていたら寝ている間に落ちてしまったのでしょう。津崎カケルはテーブルのそばの床で拾ったと言いました。指輪を鎖に通して首にかけると、なるほどそれはそこにあるのがふさわしいように感じられます。安心して私が笑うと彼も笑って、今朝はいつもの質問をしなかったけど覚えていましたね、と言いました。

 それでも、何かを忘れてしまったのだという事実は消えません。

 津崎カケルが悲しんでいたことが何よりの衝撃でした。今までも、私が見ていないか覚えていないだけでああやって目を細めていたのかもしれないのです。──彼には、私に忘れてほしくないことがあるのです。苦しいの悲しいのと言いながらもまぁ能天気に構えていた私ですが、そう思うとこの頭から記憶がこぼれていくことが怖くなりました。

「カケルさん、私がカケルさんにできることは何でしょうか」

 だからと言って記憶をなくしていくことを止めるのは容易ではありません。ならばせめてささやかにでも恩返しがしたくて、私は彼にそう訊ねました。
 彼は驚いたようでした。

「どうしたんです、急に」
「……恩返しです」
「恩返し?」
「恩返し。」

 キョトンとしておうむ返しをするのでさらにそのまま繰り返すと、彼はいつものように笑いました。

「そうだな、──」

 そうしてとても優しい目をしました。


「じゃあ、僕がカナタさんを呼ぶ声に応えていてください。僕の名前を呼んでいてください、全部忘れてしまうまで」


   ×


 おはようございます、おはようございます。あなたの名前は何ですか、私の名前は、逢沢カナタです。うん、じゃあ、僕の名前は何ですか。……あなたの名前は、津崎カケル、です。

 津崎カケル。

 私はゆっくりと彼の名前を呼びます。カケルさん。カケルさん。いちばん大事なものとして、彼の名前を唇に乗せます。彼はやっぱり笑います。相変わらず色々なものをぽろぽろ落としながら歩いてゆくような日々ではありますが、彼が悲しくなく笑ってくれることが、今では私の何よりの希望です。ポケットに入れているものはうっかり落ちたとしても手に握ったものはそうそう落ちないのだと思うのです。津崎カケルにそうたとえて言ってみたら微妙な反応をされました。そこは笑ってほしかった。
 ……それから、首にかけたものも落ちません。結局本当のところはどこで手に入れたどんな存在であるのかが判明していない綺麗なシルバーリングは、今日も私の胸元で光っています。


 私が津崎カケルを呼ぶ、そのゆっくり具合が──彼に好ましく感じられるものであることを、私はひそやかに願っています。


20121205/コーリング



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