光降る日の半時間

処女作なのかもしれない話


 彼女は、歌が何より好きだった。
 ──そのひとと出会ったのは、蒸し暑い六月の初めの、雨の日のことだ。私は突然の天気雨に嘘をついた予報をのろいながら、鞄を頭上に掲げて走りバス停を目指していた。ようやくいつも利用しているバス停に着いたものの目当てのバスには三十分以上あり、とにかく雨宿りは出来る、と屋根の下で肌にまとわりつくポロシャツをつまんでいた時、私の隣に髪を揺らして女性が並んだのだ。

 それが彼女だった。

 顔を少しうつむかせて何か知らない歌を小さく口ずさんでいて、それも奇妙だったのだけれど、何よりもおかしく思ったのは傘を手に持っているのにほとんど全身が濡れていたことだった。薄桃色のシャツと白いブラウス、水色のロングスカートという出で立ちに、へそのあたりまである黒髪。それらすべてが濡れて、かすかに色を変えていた。しかも彼女はかけらもそのことを気にかけていないようで、パステルカラーの水玉がとりどりに印刷された傘を時折こつこつと地面に打ちながら、相変わらず小さな声で、私の知らない歌を口ずさんでいるだけだった。
 変な人だな、と思った。結構綺麗なのに、とも。
 そんな失礼なことを考えていたせいか、じろじろ見ていたからだろうか。不意に歌が止まったかと思うと、彼女はこちらに視線を向け、私にほほえみかけてきた。
(……げ)
 目を合わせてしまった、と思う間に彼女は口を開く。
「素敵な天気ですね」
 ああ、やっぱり変な人だ。──思いながらもたずねた。
「……どうして傘を差さないんです?」
 なぜだか鞄を持つ手に力が入る。ちらりと腕時計に目をやった。あと十五分。バスが一緒だったらどうすればいいのだろう?
「差したら空が見えないでしょう?」
 聞きたいのはそういうことじゃない。……そう言えるほどの度胸も、持ち合わせていない。服が濡れることも髪が濡れることも、彼女にとっては些末な問題らしかった。馬鹿なのか、はたまた真性(の変人)なのか。
 両者にたいした違いが無いということなのかもしれないが。
 ふと、彼女が右手を返して手首の時計を見た。先が浮いてぶらぶらと揺れる傘をなんとなく視界に入れたまま、つられるように左手を上げる。あと五分。
 もう歩いて帰ろう、とため息をついて屋根の下から出た。瞬間、雨樋(あまどい)からこぼれた水が背中に落ちる。冷たい水がじわ、とシャツへ滲む感覚に眉が寄った。つくづく、タイミングが悪い。小雨にはなったけれどまだ雨は降っている。なのに周囲は不自然なほど明るい。……こういう感じは、好きじゃない。歩き出した私に彼女はあ、と焦ったような声を上げた。
「そのまま行ったら濡れちゃうよ」
 一体どの口がそんなことを言えるのか。
 いよいよわけがわからなくなって黙ると、彼女は私の訝しげであろう視線をものともせず一方的に続けた。「これ貸します。いつか会ったらその時返してくれればいいから」
 敬語と口語の混ざったちぐはぐな口調で彼女は言い、私の手に傘を握らせる。何を、と言いかけた声はバスが到着した音にかき消されてしまった。
 思わず口をつぐんだ隙に彼女は軽やかにステップに上がり、それじゃ、と笑う。……扉が閉まり、ゆっくりと車体が動き出すのを、私は彼女の傘と交互に、ぼんやり見ていた。
 バスが遠ざかっていく。全身が冷たいことに今更気づいた。当たり前だ、私もなんだかんだと長い間雨に降られていたのだ。手の中の物は使っても最早何の意味もなさないだろう。それ以前に人前に出られる状態かどうかすら怪しいかもしれない。ふと、足下できらりと何かが光ったのが見えて、私は目の前の水たまりを見下ろした。しばらくして太陽が反射していたのだと気づき後ろを振り向く。瞬間的に目へ飛び込んできたまぶしさに思わず目を細めた。おそるおそる、という表現に近い感覚で、目を開く。
 ──灰色と白の雲が切れ切れに空に浮かび、その隙間から差し込んだ太陽の目映い光を次々に反射して、雨が、踊るようにひかっている。
 小さな光が降っているようだ、と。
 がらにもないことを考えて、傘を握りしめた。なんとなく負けた気がして悔しくなる。少しだけ、ほんの少しだ、彼女の気持ちがわかったように思った。
(……もしかしたら。)


 また、会いたいかもしれない。


20120711/光降る日の半時間
続き物の予定だったせいで冒頭に妙な文があること以外は、
割と気に入ってる。



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