ガール 2



 目を閉じる。研究室を出て行ったなつめの後ろ姿が目蓋の裏にちらついた。被って映るのは、鍵の壊れた扉から屋上を去る、細い背中だ。垢抜けないセーラー服。白い肌と黒い髪、覆われた左腕、包帯の下の無数のケロイド、それをなぞるような赤黒い切り傷。
『死にたいの?』

『死にたいよ』
 死なないでと、いつか僕は彼女に言った。握った右手の絡まる指と、冷えた小指と、ぬるい手のひら。首の後ろを滑り落ちた、冷たい汗。その感触がよみがえる。彼女が頑なに長袖を着続けていた理由を知った日のこと。彼女の返答は同じだった。丸い吊り目で僕を捉えて、どこか、面倒くさそうに。
『死にたいよ』
『どうして?』
『どうしても』
 意味を持たない問答と、価値を持たない僕の言葉と、理由を持たない希死念慮。彼女は包帯の巻かれた手首を紺の袖で隠して、そこから生えた左手に、いつも文庫本を持っていた。退屈そうな顔で僕の言葉に答えて、僕の話を聞いて、それでも時々、本当に時々だけれど、笑った。諦観にまみれた、情けない笑い方だった。

『死んでも、いいよ』

 そう告げたときも、彼女は同じ笑顔を浮かべた。ナツメ色をした革製のブックカバーがかかった文庫本を僕に渡して、消えてしまった人。日に焼けた、『夜間飛行』。



 僕に本を貸してから一週間後、なつめはふらりと研究室に現れた。僕が驚いて目を丸くしていると、研究室の隅のあちこちわたがはみ出たくすんだ黒いソファにすとんと腰かけて、視線をすい、と僕のそれに合わせる。胸の中に渦巻く感情を押し込めて、僕は端的に呟いた。
「……あぁ、本、」
 なつめはこくりとうなずいた。読みましたか、と唇が動くのをやはり僕は眼で追う。無意識のうちの、癖だ。
 机の隅の見慣れた抹茶色を手に取り、少しためらって隣にあった本も一緒に掴む。その二冊を差し出すと、なつめは黙ったまま自分の方を受け取り、僕と残った本を交互に見比べた。家に置いていた『夜間飛行』だ。革のカバーをまじまじと見つめたなつめは仕舞いにそれを受け取り、ぺらりと広げて扉の題を読む。目が細められた。渇いた口で「お返しと言ったらなんだけど」、と切り出す。
「読んでみるといい」
 なつめは黙って革に指を滑らせる。そうして、ゆっくりとうなずくのを見た。


「──……なつめ」


 無意識に零れた声が他人事のように耳に入って、はっとする。なつめは顔をあげた。瞳が一瞬揺れて困惑を映すのがわかって、しまった、と思う。……しかし、僕が謝罪を口にする前になつめは戸惑いを消して、僕を見据えたまま「はい」と応えた。僕は続く言葉を見つけられずに少しの当惑と安心を抱く。妙な話だ、と不意に思った。
 昔同級生だった少女とほんの少し似ている気がするだけだったはずなのに──それで気になっていただけだったのに。なつめは天体模型に手を伸ばしながら、横顔で僕をとらえていた。
「……死にたいと思ったことがあるだろう」
 そう口に出したとき、僕の目は彼女を見ていた。本を返すことが出来なかったのが心残りだったんだと、気づく。彼女が僕に遺した愛読書。死んでもいいと告げたその日の帰り際、僕に黙って差し出した、あれは──彼女自身を僕に遺そうとしたんじゃないか。ずっとそう思っていたのだ。彼女を忘れられなかった理由。なつめが僕を窺うような視線を寄越した。手を離された模型が数回、ゆっくりと空回りするのが目の端に入る。やがてその視線はゆるゆるとやわらいだ。

「いいえ。」

 なつめは言って、目を見開いた僕にはっきり笑ってみせた。なつめの長袖の内側にはあの白い包帯はないのだと、僕はようやく宣告される。



──All were 'past'.

20120310/ガール



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