背骨に眠るばけものの

幻肢痛な後輩とおおざっぱな先輩の前年度IH直後





 背中というか腕というか、肩というか。

 なかばどうでもよさげな声でふんわりとした範囲を示し、真波山岳は右腕をぐるりと回した。新開は、着替えるためにロッカーを開いた真波の背中を眺めながら、まあまあ真面目に相槌を打って、「それで」と声をかけた。
「いつから痛むんだ?」
「えーっと、」
 なんか最近肩のあたりが痛いんですよね、と言い出した時そのままの、そしていつも通りのふわふわとした声で真波が指を折って数え始める。妙なことになったと思い、新開は手持ちぶさたに頭をかいた。事の発端は10分ほど前、新開がちょうど補習が始まろうという時刻にその科目で必要とするいっさいを部室のロッカーへ置いているということを思い出し、慌てふためいて部室に駆け込んだことだった。そこで自転車競技部の練習等の振り替えで同じように補習を受けなければならないはずの真波が汗みずくでシャツを脱ごうとしているところに出くわし、その上そんな風に話しかけられた瞬間に遠く鳴り響くチャイムの音を聞いたもので、元々補習にそこまでの熱意を持っているわけもない新開は、ここまでの必死さはどこへやらもうすっかりサボタージュを決め込んだ体勢となっているのだった。一方真波はといえば、どうやら行かないと決めてはいないものの、いつものように坂に呼ばれて走ってきたところであるようで、やはり今から懸命に教室へ向かうほどの熱意はないようだった。二人でまともに話をするのはほとんどはじめてのことであるのにどうしてか気まずさの一つも感じないのは、互いにそこまで興味を持っていないからだろうか。
 新開がそんな風に、それなりに失礼なことを考えていると、
「こっちに帰って……次の、次の日くらいからかな」
 汗を吸ったために脱ぎづらかったらしいシャツをようやっと体からはがして、真波が言った。
「……ってことは、もう一週間か。結構だな」
 言いながら無意識にポケットを探り、パワーバーを取り出して、袋の口を切ったところで「おっと」とこぼす。
「カロリーの塊なんだから必要もねえのに食うなって、こないだ言われたばっかなんだよな……食うか?」
「あ、いただきます」
 シャツの下に着ていたタンクトップを首元に引っかけたままで、真波は手を差し出した。
「あんまり続くようなら、背中、誰かに見てもらうなりした方がいいかもな」
「うーん……」
 じゃあ、ちょっと見てもらってもいいですか?
 袋を裂き、パワーバーを口元に運びながらそう言うなり、真波は新開に背を向けてベンチへすとんと腰を降ろした。新開はさすがに少し戸惑って、「ちょっとって」と、傷一つない背中に呼びかける。
「……綺麗なもんだぜ」
「ですよねえ」
 笑い声の上がるのと連動して、肩が小刻みに揺れた。そして声が止むと同時に、細い肩はことりと落ちて、大人しくなる。当たり前の動きであるのに、身体というのは不思議だと、新開はどうでもいいことを思う。そうこうしているうちに、……夜になると、と真波が話し出した。
「夜になると、特に、嫌な感じで痛むんですよね。そういう時も今も、別にすごく痛いってわけじゃないんで、気にならないって言えば気にならないんですけど。ずきずき……や、ぎしぎし? なんか、そんな感じで」
「今は?」
「……ちくちく?」
 笑いまじりにそう言って、それからしばらくは、もぐもぐと咀嚼する音だけになる。新開は何とはなしに手を伸ばし、ゆるく丘陵を描く背中にそれをぺたりとつけた。ぴくりと肩が小さく反応して、けれども真波は何とも言わなかったので、そのままそこを撫でてみる。肩胛骨のあたりを、てのひら全体で、あたためるように。表面にはとがった骨が浮き、内側は未発達ながらも筋肉に満ちていることが伝わってくる。決して華奢ではないはずなのに、どうしてか細すぎるほど細く見える、どこか頼りなく、そうしてただ真っ白い、背中。真波山岳が坂で風を味方にとった時、この背には羽根が生えるのだという。新開は、いまだかつてそれを見たことがない。
 ……小さい頃は病気がちで、幼なじみが自転車を教えてくれて、と、何かの折に真波が話していたのを、新開は思い出していた。真波は自分の話をする時、いつもどうでもよさげな声音であるけれども、その時は少しばかり違ったように思う。
 自分が生きてるって、実感できる痛みとか、苦しさがあったから。たしかそう言って真波は笑った。坂を登りきって、誰もいない頂上の景色が目の前に開けた瞬間、訪れるまっさらな視界と、途端存在を主張し始める身体の悲鳴、せわしなく落ちる汗とままならない呼吸と軋む筋肉、早鐘を打つ心臓を打ちつけた拳に感じながら高く広い空を見上げて、ああ、と、真波山岳は思うのだ。自分はこのためだけに生まれてきたのだと。
 それを聞いた時、その感覚はなんとなくわかるような気がするな、と思ったのを覚えている。誰よりも速く駆け抜けるために。何もかもを置いて行くために。すべてを抜き去って、たったひとりになるために、そのためだけに、この脚を持って生まれた。新開は幼い頃からそう感じていた。容易には言葉にならない、身体の奥底で──声がしていた。
 頭よりも心よりもずっとずっと早く、身体がすべてを知っていた。身体こそが、何よりも自転車を求めていた。自分の持つものすべての中で。頭よりも。心よりも。身体が自転車を呼んでいた。速くなることは必然だった。新開隼人は、そういう人間だった。
 真波と新開は、そういう意味では、ひょっとしたら正反対にある存在だったのかもしれない。真波山岳という容れ物の中で自転車を呼び求めたのは、弱さにあえぐ小さな身体にいっそ不釣り合いなほどの強さで、生きたい、と叫び声をあげる心だった。これ以上なく似ておらず、道を共にすることもなく、行き着く先だけが同じ場所だった。そういう二人だった。おかしな話だと思いながら、新開は真波の背中を撫でていた。
 腕のような、肩のような、背中のような。真波の言葉をなんとなく反芻し──ハッとして、手を止めた。どうして今の今まで気づかなかったのだろう。……それは。
 それは、そこは、つまり、──羽根が、痛むということではないのか?
 真波が不意にこちらを振り返る。「あ、」丸い目に、言葉に詰まった自分の顔を見て、新開はとりあえず口を動かした。「……どうだ、何か変わったか?」
 まっすぐに新開を見据えているはずの瞳は、なんだかガラス玉のようだった。ただ新開を映しているだけだ。真波のことをよく知っているとは言いがたいけれども、少なくともこんな瞳をするようなヤツではなかったはずだと、思いながら、新開はなるべく軽く笑いかけた。
「そうですね、少し」
 新開から視線を逸らし、平気な顔をして、真波は不思議そうに呟く。
「和らいだというか。……変だなぁ」
 それはやはり、いつも通りのふわふわとした声だった。こんな狂言を言い出すようなタイプでもないから、きっと心の問題なのだろう、と思う。──そういえば、靖友が前、真波を形容してふわふわだとかそういう柔らかい表現を使うことに文句つけてたな。そんなことを唐突に思い出す。アイツはそんなカワイイモンじゃなく、もっと気味悪いイキモノだろが、とのことで、別段真波のことをカワイイと思っているわけでもない新開は、けれどもその主張に関してあまりピンと来なかった。靖友が言うならそうなんだろうかとぼんやり思っただけだ。学年が離れている上、スプリンターとクライマーという環境から特別に親しくなるようなきっかけもなくここまできたので、『よく知っているとは言いがたい』どころかむしろ真波のことなどほとんど知らないと言った方が正しい。
 IH最終日のあの日、ゴール直後に姿をくらましてボロボロのまま自分達三年の前に現れた真波があっけらかんと自分が泣いていたということを話し、その後実際に涙をこぼすところまでを目の前に見て新開が抱いた感想といえば、そうか、泣くのか、というなんとも馬鹿らしいものだった。闘争心があることはわかっていたけれど、負けたことが悔しくて涙が出たのを他人に見られないよう一人になる、という、真波でなければ至って普通の流れであるはずの行動が、新開の中の真波山岳とまっすぐに繋がらなかったのだ。……けれど、そう、こんなにも強く、その経験は刻まれている。真波山岳という少年に。ひとりきりで泣きに泣き、それでもまだ心も身体も前を向かない、そのことに、気づいてすらいない。そうか、とまた新開は一人で納得して、最後にてのひら全体で軽く背中を押すようにしてから立ち上がる。そうして少し思案してから、この際どこまでも無責任で構わないだろう、と勝手な判断を下して、言った。
「さすって和らぐなら、成長痛とかかもな」
「……背中にですか?」
「そういうこともあるさ」
 きっと、羽根の。そう思ったけれど言わなかった。真波はおかしそうに小さく笑って、ありがとうございました、とつぶやく。
「ひどくなったりしたらちゃんと調べろよ」
 手が自由になったとたん無意識に取り出していたパワーバーを、我ながらさすがに病的だと思いながらもう一度ポケットにねじ込み直して告げると、真波がその動作を見て、答えるでもなく言った。
「新開さん、その味好きですよね」
「ん? ああそうだけど、どうしてわかったんだ?」
 さっき真波に渡したものとは別の味だった。きょとんとして聞くと、おんなじようにきょとんとした顔で答える。
「え、だって、しょっちゅうそれ出してないですか?」
「……そうか、」

 案外人のこと見てるんだなと思ったけれど、新開は、やっぱり言わなかった。





 まるで象牙のような、
 白木蓮の花弁のような、
 色をしたそれは天使の羽根でなく、
20150207/背骨に眠る、ばけものの(あとがき



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