いたいのいたいの、あのこのほうへ
風邪っぴき幸村と妹



 囁くような声で交わされる会話を、戸口の陰でかれこれ5分以上聞いている。一階から持ってきたスポーツドリンクを抱え直し、部屋の中には聞こえないように、そっとため息をこぼした。結露した雫で胸元が濡れてしまっている。2リットルのペットボトル。……お兄ちゃんが、持ってきてって言ったのに。

「──から、くれぐれも無理はするなよ。いいな」

 よく通る低い声がそう言って、ぎしりと床が鳴る。やっと終わったのか、とも思わない間に足音はずんずんとこちらに近づいて戸が開き、私は視線を上げた。
「……」
 兄の友人のことをどう呼べばいいのか、私はずっとわからないでいる。背の高いその人に小さく礼をすると、白いマスクをしていた彼はそれを取ってきっちり折りたたみ、私に顔を向けてなんだかもごもごと口元を動かした。そのまま、なんだか、見つめ合う。──と、小さな声が部屋から飛んできて、私たちは同時に部屋の中へと視線を向けた。

「大げさなんだ、みんな」

 かすれた声だった。唇をきゅっと引き結んで、彼は──真田さん、は兄へと、今度は体ごと、振り返った。
「大したことないのに。こんなの、この程度」
 わかるだろう、と、兄が言う。真田さんは、「阿呆」とつぶやいて黒い帽子のつばを引き、最後に私を一瞥すると廊下をのしのしと歩き去った。兄の友人。仲間。小学生の頃は、兄の目を輝かせる一番のライバルだった。そして私はその頃、母に倣って彼のことを、「弦一郎くん」と呼んでいたのだった。
 定規でも立てているかのようなまっすぐな背中が階段に消えるのをぼんやりと見送ってからやっと、もしかしてさっきのは微笑もうとしたのか、と思い至る。


   ×


 幸村精市という少年は別段身体の弱い子どもではなかった。私が記憶している限りではめったに熱など出さなかったし、インフルエンザも毎シーズン予防接種をして回避していたしで、兄がベッドでうなされている姿なんて、私にはまったく見慣れないものだったのだ。ほんの少し前までは、ずっと。
 ベッドサイドに置かれたおぼんにボトルを乗せて、お兄ちゃん、と声をかける。視線だけを動かした赤い顔に冷えた手をぺたりと当てると、兄は少し驚いた顔をして、それから気持ちよさげに目を細めた。

「冷たいなぁ」
「ずっと持ってたからね」

 唇を少しとがらせて答えると、意図が伝わったのか小さく口元を緩ませる。「待たせて悪かったよ」
「あいつの話が長かったから」
 そう言ってかすかな笑い声を漏らした口が次の瞬間に苦しげに歪んだのを見て、私はあわてて頬から手をはがした。空っぽのグラスに持ってきたばかりのスポーツドリンクを注いで差し出すと、緩慢に起き上がった彼は眉を寄せたままもう一度笑う。

「ほら、やっぱり過保護になった」
「……そんなことないよ」

 どうしてか、返す言葉が小さくなった。兄はグラスを飲み干すとすぐに横になって目だけを私に向け、ただの風邪じゃないか、と呟くように言う。

「心配するのは当たり前でしょ」
「母さんみたいなこと言わないでくれよ……」
「だって、」

 お兄ちゃんは。
 言いかけて、続ける言葉が見つからずに口を閉じた。──兄が何を厭うているのかわからないはずもない。
 本当に、平均程度には体が強い人間でも年に一度くらいはうっかりかかるような、ただの季節性の風邪なのだ。それが、熱が出ていることに気づいたとたん病院に連れ出され念には念をとかなんとかいわれながらよくわからない検査をして、家で寝ていれば友人が大仰に見舞いに訪れるわ妹にやたらと世話を焼かれるわ、あげく回復して学校に行っても腫れ物扱いが待っている。うんざりするに決まっていた。それでも、心配せずには居られないのだ。
 だって、あの、お兄ちゃんだから。
 それを誰よりも知っているのは兄で、だからこそ兄は嫌な思いをしていて、私は何も言えなくなる。

 だってもしかしたら再発したのかもしれないじゃない。
 これをきっかけに再発するかもしれないじゃない。
 お兄ちゃんが病気でベッドに寝てるってだけで、こわいよ。

 こんなこと口が裂けても言えない。
 言えるわけが、ない。

「くだらない」

 兄がぽつりとこぼした言葉に、びくりと肩が跳ねる。うつむかせていた顔を上げると、兄は予想外にほほえんでいて、私はあっけにとられて目を見開いた。
 お兄ちゃんは、おだやかな表情のまま言う。

「本当に、大丈夫なんだよ。このくらい何でもない。そういう風に感じるんだ。だから」

 にこり、と笑う。おそらく私を安心させようとして放たれた言葉はしかし、とっさには理解できないものだった。私は口をぼんやり開けて、兄の言ったことを反芻する。大丈夫。このくらい。
 たぶん、あの頃に比べれば、という意味だ。真田さんとの会話を思い出してそう解釈し、私は笑顔を作った。

「うん、──ごめんね、お兄ちゃん」

 もう寝た方がいいよ、と続けて立ち上がる。兄が答える声には反応せずに部屋を横切り敷居を越え、後ろ手に扉を閉めて、息をゆっくりと吸う。吐く。──そうして、その場に座り込んだ。
 わけのわからない苦しさで胸がいっぱいになって、息もできなかった。


 私が最後に学校を休むほど体調が悪くなったのは3年近く前のことだったように思う。たしかただの風邪で、それでも割合重い方だったのだろう、熱が出て、体中の関節が痛くて、頭が重くて、普段病気と縁が薄かったのもあり、あまりの苦しさにこのまま死ぬのではないかと本気で思ったくらいだった。結局3日休んだらすっかりよくなったのだけれど、当時健康優良児だった兄は私のことをずいぶんと心配して、学校から帰ってくると真っ先に私の顔を見に来て、それから食事や風呂で離れる以外は寝るまで私のそばでそわそわしていた。苦しかった。体が動かせないという未知への恐怖に終始半泣きで兄の手を握っていた。彼はあの時のことを覚えているだろうか。忘れてしまっただろうか。私は今でも覚えている。痛い死んじゃうとぐずりながら寝ていたこと、兄の心配そうな八の字眉のこと、味の感じないスポーツドリンクのこと、母が呆れ半分だったこと、それからあの、苦しさ。


 あれが本当に「何でもない」のだとしたら、本当に兄にとっては苦しいという一言すら漏らすまでもないものなのだとしたら、私は、それこそが、他の何よりも悲しくて、苦しい。
 さっき、言ってしまいたかった、私の勝手でもなんでも、意味がわからなくっても、お兄ちゃんが戸惑うとしても、もしかしたら傷つくとしても。


「痛い」って、
「苦しい」って言ってよ、と。


20140621/いたいのいたいの、あのこのほうへ(あとがき
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