真田君の場合


「弦一郎君」

 幸村の目は彼の母親のそれとよく似ている。病室の戸を閉めて顔を上げ、今まで気がついていなかったのか俺を認めると一瞬目を見開いた彼女はしかし、とりつくろうようにすぐその表情をほころばせた。軽く頭を下げ幸村の所在を問えば「中に」と言葉少なに答え、彼女は戸に手をかけたまま俺の目を見据える。
 よく知ったものと瓜二つなまなざしが気遣わしげに揺れるのを、思わずいぶかしげな視線で返すと、彼女はやがて目を伏せ何も言わずに俺の横を通り過ぎた。慌てて振り返ったものの、遠ざかる背中にどうとも声をかけることができず、いつになく小さく見えたそれにそういえば背を越していたのだな、などという当たり前のことをぼんやり思った。



 病室の戸を開けると幸村が手にしていた文庫本から顔をあげる。一瞬意外そうに目を丸くし、「なんだ。真田か」と笑ったその表情は普段と同じものに見えた。むしろ、いつもより少しばかり調子が良さげだ。あの揺れる瞳が何を思っていたのかが気にかかって、「なんだ、とは何だ」と反射的に顔をしかめながらも何か変わったことでもないものかと邪推してしまう。
「母さんが戻ってきたのかと思ったからさ」
 幸村は閉じた本を枕元に置くと、涼しい顔をして言った。文庫本のぎざぎざとしたページのすき間から細いリボンの先が飛び出しているのが見える。挟まれたしおりは妹からプレゼントされたものなのだそうで、青い花(矢車菊というらしい)が描かれたそれを、幸村は大層大事に使っている。
「あぁ……先ほど外ですれ違った」
 そう言って椅子を引けば幸村は眉をつり上げた。「母さんに何か言われなかった?」若干あきれたような響きを、声に滲ませてそうたずねる。首を横に振ると静かにため息をついて、幸村は何事か言いたげに俺を見た。
「……、心配そうな顔をしてはいたが。何かあったのか?」
 やはり杞憂ではなかったらしい。うーん、と唸ってやり場の無さそうに視線を彷徨わせた幸村は、やがて自身の膝にそれを落ち着けて話し出す。
「何か、ってほどの話でも無くて……リハビリやり過ぎだってちょっと怒られたんだ。それだけ」
「……それだけか?」
「……今日、調子が良かったから、多めにしたのもあるんだけど。そんなに必死で苦しい思いをして、テニスを取り戻した時何を思うのって聞かれたんだ。どういう意味なのかよくわからなくて……きっと、母さんもわかってないんだろうなとは思うんだけど、何か引っかかって」
 取り戻した時、何を思うの。
 ──『何の為にテニスを取り戻すの?』
 突きつけられるように突然に脳裏をよぎった疑問に目をしばたたく。彼女の瞳を思い出した。その問いは。おそらく、きっと。こう聞きたかったのだと、思った。幸村、と口に出す。金色の橋で誓った日の姿を追憶する。

「……お前はなぜ、テニスをする?」
 幸村の目は彼の母親のそれとよく似ている。俺を捉えた藍色の目は澄みきって、不安げな色は欠片もない。彼はじきに彼の望み通り、ラケットとボールと、そして勝利をその手に取り戻すだろう。その時その目はどんな色をして何を映すのか、今の俺には考える暇もなく、部員と共に帰還を待つだけだ。待ちわびたその時を。王者を。神の子と呼ばれた姿を。

 幸村は笑う。どうしたの、真田まで、と、緩んだ口が動くのを見た。


「言っただろう、俺からテニスを取ったら、何も残りはしない」


 いつか。
 お前が再びコートに立ったら、いつか、聞ければ良い、と思った。

 テニスをするのは、楽しいかと。


20110923/真田君の場合
すでにアレな方向に振り切れてしまっている幸村と、 
信じているつもりで微妙に思考停止な真田 の退院間際 
立海Rと幸村君/End.
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