病熱

※未来設定※



 宍戸が男子テニス部のアシスタントコーチという肩書きで氷帝学園中等部へ招かれたのは、滝が──つまり、宍戸もだが──29歳になる年のことだった。顧問職は未だ現役であったものの、後継を考えてのことだろう、監督としては一線を引き比較的若いコーチを別に立てていた榊が、一般のテニススクールで働いていた宍戸に声をかけたのだという。司書資格を持つ滝は大学卒業後中等部の図書館で事務員を務めていたので、同い年のOBがテニス部のコーチに就任するとなれば、噂は自然耳に入ってきた。

「先生が、彼を?」

 差し出された本をスキャンしながら目も上げずそう問うた滝に、榊は「ああ」とだけいらえをして、他には何とも言わなかった。
 たとえばテニススクールでの実績だとか、OBだからこその経験値だとか、宍戸を選んだことには髪の毛一本分の私情を挟む余地もなく正当な理由があるはずだった。図書館のカウンターで文脈も何もなく唐突によこされたたった二語の質問に、その意図を正確に読み取った上で返したのがそれだったのだから、つまり滝にはそれ以上は必要がないと判断されたのだ。滝は三冊の本をしっかりと揃えると返却期日を告げながら榊に手渡し、それから少しの間、宍戸亮というおそらくよく知っていると言っていい男のことを考えたけれど、14年、という数字が意味もなく脳を巡るばかりだった。
 付き合い自体は幼稚舎からのものだから、出会いから数えるならばもっと長いはずだった。それでも、滝が宍戸のことを考えようとすると、スタート地点はいつも中学三年になる。宍戸と自分との関係がある意味で決定的なものとなった年だったからだろう。
 ある意味で。
 それが良いとも悪いとも、滝には未だ判断しがたかった。

   ×

 滝と宍戸には、高等部に進んでから一度だけ、ダブルスのペアを組んでいた時期がある。提案したのは滝だ。入学したばかりの、まだテニス部に入ってすらいない──そう、ちょうど、入部届を出しに行く道すがらだった。つるんで歩いていたわけでもないのに見知った顔ぶれが揃った廊下を歩きながら、俺と組んでみないか、と、並んで歩く宍戸の方を見もせずに言った滝に、宍戸は露骨に戸惑った。なんで、という声が困惑のあまり不躾なほど低く響いたのを聞いて思わず笑ってしまってから、滝は、自分がその問いに対する適切な答えを持っていないことに気がついた。ただその時、そう望んだだけだったのだ。だから付け足した。
「鳳が、こっちに上がるまででいいよ。やってみたいだけなんだ。ただ、……」

 ……君のテニスの、そばにいたいんだ。

 今にして思えば、それはほとんど愛の告白だった。そうして、輪をかけてまずいことに、混じり気のない本心であった。滝の言葉をその心にどう受け取ったのか、本当のところは知りようもないが、滝の見た限りその時宍戸はただ、よくわからんという顔をしたままで、けれど少しだけ思案をするとうなずいた。いいぜ。……けど。
「やるからには、勝たねえとな」
「……もちろん」
 そう答えて立ち止まり滝が差し出した手を、さきほどまでとは対照的に、にやけてぱしりと叩く。照れた子どものような調子だった。握手を求めたつもりだったのだけれど、宍戸らしいなと思って滝は笑い、先を歩いていた忍足が「気ぃ早いわ二人して」と呆れた顔をして振り返る。
「侑士はオレと組むよな?」
「さあ、どうやろなあ」
「なーんだよ、この薄情者っ」
 岳人はその言葉とともに忍足の背中を強く叩くと、肩をすくめた忍足の横に並びながら滝と宍戸へ笑いかけた。
「負けないぜ!」
 大した意味などなかったろうに、そう言われたのがよほど効いたのか──煽られれば煽られるままに燃えるのがこの男だ、知ってのとおり──一瞬でも逡巡したことが嘘のようにやる気を出した宍戸は、それからきっちり一年間滝とダブルスパートナーとして励み、二人は地区予選ながら大会で成績を残すまでになった。
 そうして四月になる直前に解散を申し出た時、宍戸が予想外に渋ったものだから、滝はひどく驚くことになる。宍戸は自分の提案に付き合っただけであって、彼が一年間尽力したのはひとえに中途半端を許さない性分によるものであって──というのが滝の認識で、つまり、宍戸がこのペアに愛着を持つなんて、思ってもみなかったのだった。
 滝にしては珍しい、よくわからんという顔を見てなぜか少し傷付いたような表情をした宍戸が言う。
「お前、ドライすぎんだろ。仮にも一年パートナーだったんだぜ」
 もはや誰もが知っている、情に厚いこの男らしい言い分だったけれど、滝が返したのは「そんなこと言われてもね」という軽い調子の言葉だった。
「最初から一年って約束だったでしょ?」
 自身の主張を一刀両断する追撃に、宍戸はうぐ、とのどから音を出して口を閉じた。この男にはもとより本気で解散を阻止するつもりなどないのだと、滝はその時になって気がつく。愛着はあるが解散しないわけにはいかないので退路を絶ってほしいだなんて、無意識にしてもずいぶん始末の悪いことだ。別にいいけれど、と滝はため息をついて、言った。
「鳳は高等部に上がるんじゃないの」
 宍戸が悔しそうに──口惜しそうにうなずく。これでいいだろう、と滝は思った。これでいいんだろ。馬鹿な奴。
「……悪かった」
 まるでぶすくれた子どものような声に滝は知らず笑う。自分の駄々が駄々であることと、滝がそれに「付き合った」ことが、おそらくわかったのだろうと思った。
「まあ、次があったらまたよろしくってことで」
 そう言って宍戸の肩をノックするように人差し指の背で叩き、滝は会話を打ち切った。次なんて来ないことは知っていたし、経緯はどうあれ宍戸が己を望む機会などもう二度とないだろうこともよくわかっていた。大して惜しいとは感じなかった。本当は、きちんと嘆くべきことであるのかもしれなかった。けれど、実際中学時代「氷帝のゴールデンペア」とまで呼ばれていた件の二人は高校でもめざましい活躍を見せ、言ってしまえば滝もある程度その恩恵にあずかることになったのだし、結局それは悲しいことではなかったのだ。

「──へえ、体育大に行くのか」

 ウワッ、と、大きな声を上げて宍戸が仰け反る。
 予想通りの反応に、笑みをかたどった唇に人差し指を押し当てて見せれば、ささやき声で怒鳴るように──器用なものだと滝は思った──しゃべり出す。高校三年生の宍戸だ。
「覗くなよ!」
「偶然見えちゃった」
 しれっと答えて隣に座ると渋い顔をする、不思議なほど期待を裏切らない男である。たしかこの時は冬だったと思う。自習スペースに着くまでに通り過ぎた図書カウンターに、クリスマスのオーナメントが飾られていたことを覚えている。
「推薦は?」
「蹴った。お前もだろ」
「まあね」
 もう本気でテニスしようとか思わないし。
 ため息交じりの言葉に宍戸は何とも答えず手元の紙を見つめた。黒ペンで書いて提出との但し書きがついた、進路希望調査票。高三の冬に悩むようなものとも思えないが、シャープペンで書いては消したのだろう跡が一目でそれとわかるほどに残っていた。その上からボールペンで書かれている第三希望も第二希望も名の知れた体育大学だ。
「第一志望は?」
 滝が何の気なしに聞くと宍戸は「それが書けねえから困ってんだよ、今」とますます渋い表情になった。
「ふーん……?」
 二つくらいまで目星はついていて、どちらにしようか迷っているのだろうか。
 ──だとしたら第二希望まで埋まっているのは不自然だ。
 全く決まっていないということか?
 ──そんなあいまいな状態で第一志望だけを残してやり直しのきかないペンで書くことをするだろうか。
「……目標が高すぎて書く度胸が出ない?」
 まさかね、と首をかしげていると、「お前なあ!」と宍戸がまた大きな声を出した。
「聞こえるように言うなよ、そういうの」
「あれ、声に出てた」
「出てた!」
 宍戸は頭をかいて、ぶつぶつ文句をつぶやきながらペンを走らせ始めた。平生よりも幾分か乱雑な、男子高校生らしい角ばった大きい字で書かれた大学名を見て、滝は目を細める。
「……馬鹿な奴」
「馬鹿だよどうせ」
「君ならどこにだって行けるよ」
 宍戸は一拍置いて「は?」と言った。滝はくすりと笑って宍戸のひたいをトン、と指でついて、言う。
「俺の知ってる宍戸は、根性でなんでもやり遂げちゃうような馬鹿だ、って言ったんだよ」
 宍戸が怒ったような困ったような顔をして黙り込んだので、滝は大層気分がよかった。そういう風に覚えている。

  ×

 精悍な顔つきをした、実直そうな男だ。誰もがそう思うだろう。
「お前がいるっていうから」
 口を滑らせた誰かを責めるような言い方だった。滝は小さく笑う。別に文句は言ってないでしょう、と答えて、椅子にかけたまま男を見上げた。
「久しぶり、宍戸」
 ちっとも変わらないね、と告げると、28歳の宍戸亮は仕方なさそうに笑った。
「それはこっちのセリフだっつーの」
 日に焼けた目尻に細くしわが入っているのを見て、嘘をついたような気持ちになる。14年。あれから14年経ったのだ。中学三年生の勝気で傲慢で頑固な宍戸亮がそのまま現れたわけじゃない。滝の知らない日々を何年も経て、思いがけない形でこうして、もう一度現れた。
 宍戸亮。
 また人生が交わることになるだなんて、思ってもみなかった。
「……頑張ってよ、新米コーチ」
 見上げて微笑んでみせる。宍戸がまた笑って答える。言われなくても! 語気を強めて、無邪気に──そうか、嬉しいのか。拍子抜けしたようにそう思う。氷帝に帰って来たことも、テニス部に関われることも。恐らくは滝と再会したこともなのだろう。呆れるほど健全なノスタルジーだ。そしてその中に、滝も含まれているらしい──健全なノスタルジーの中に。
 この男のことを、滝は病のように想っている。滅多に思い出すことはない。宍戸の知らない滝の数年間の中に、宍戸の影はほとんどなかった。けれど治らない病のように、滝は、宍戸亮を想う。滝にはそれが良いとも悪いとも判断できない。今はまだ、なのか、このままいつまでも、なのか。宍戸が再び滝の前に現れたことが、何かを変えるのだろうか。それだってわからない。
 ──俺たちはたとえば、竹馬の友じゃない。
 滝は思わずため息をついた。これからはこんなことを繰り返し考える日々なのか。
「なんだよ、タメ息」
「いやあ、暑苦しい顔見てたらちょっと息が詰まっちゃった」
 病のような感情が、いつか消えてしまったなら、どんなに肩が軽くなるだろうか。

20171029/病熱
祝えよ



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