ビューティフル・ワールド

※名無しの男子視点※
去年に引き続きたぶん気持ち悪いです





 200人以上部員がいるってのがどういうことなのか、部長の跡部はともかくとして、他のレギュラーの連中は全くもってわかっていない。と、俺は思う。
 あの宍戸なんかはいい例だ。上ばかりを見て走ったばかりに足をすくわれて、しかもいまだに上しか見ていない。何をしたんだか知らないがズタボロになるまでの特訓か何かの果てに、レギュラーの中でも実力者だったはずの滝をストレートで叩きのめした、跡部はその根性と実力を買って後押ししたということなんだろうが、あのド派手な復活劇は氷帝学園中等部の男子テニス部になかなか大きな波紋をもたらしていた──実のところ、宍戸を疎む部員は今でも少なくなかったのだ。あの一幕以来それまでの不遜な物言いはなりを潜め、自分にも他人にも厳しいものの情の深い男という一面まで見せるようになったけれど、だからと言って嫌な思いをさせられた記憶がなくなるわけじゃあない。なのに批難の声のひとつも(少なくとも表立っては)聞こえてこないのは、ただでさえレギュラーとしてでかい口を叩けるようなレベルだった宍戸が以前よりもさらに強くなったから、……つまり、勝てないからだ。徹底した実力主義に染められた俺たちは、わざわざ自分の弱さを再確認してみじめな気分になるような行動なんて、もはやする気にもなれないのだった。
 強い奴の性格に文句を言うなんて、愚の骨頂に他ならない。
 それでも宍戸を疎ましく思う部員がいる、というのをなぜ俺が感じられるかというと、これは至極簡単な話で、俺自身がそうだからだった。
 宍戸亮が嫌いだ。自分が手酷く踏みにじられるまで他人を踏みにじって生きてきたことを気づいてもいなかったその本質的な、根本的な傲慢さが、なのに人間性はといえば根っから嫌な奴というわけでもないという馬鹿らしさが、そういう、嫌いになるこちらが悪いとでも言うような二面性が、準レギュラーにすら2年かけてもなれない俺は、大嫌いなのだ。
 男子テニス部には215人の部員がいる。うちレギュラーが7人、のはずだが、今年は宍戸のことがあったのでどうやら特例措置的に8人となっている。準レギュラーが50人くらい。この数字はしょっちゅう変動する。でもまあ、ここまでで60人も行かない。公式戦に出られるチャンスがあるのは準レギュラーまでだ。残りの150人あまりは、細かいグループ分けこそされるものの、おおむね「その他平部員」と言っておけば差し障りのない存在である。単純に割れば、うち50人は三年生。二年も三年も基礎練と声出しに費やして、得るものはそこにいたって記録と記憶だけだ。それでもそんじょそこらの公立のテニス部員なんかよりは相対的には強いらしいが、そんなことは大したことじゃあない。俺が言いたいのはつまり、俺たちは、俺たちの三年間は、どうしようもなく、耐えがたいほどに無為なんだってことだ。


   ×


 滝は何か分厚い本を一心に読んでいた。引退してからこっち、いつも図書館にいるとは聞いていたが、頬杖をついてわずかに背中を丸め黙々とページを繰るその様は、この天井の高い書物の城に絵画じみてなじんでいて、ほんの一ヶ月前までは毎日汗と埃にまみれて外を駆け回っていた人間とはとても思えないほどだった。頬杖をついた右手のそでからのぞくリストバンド焼けだけが抗うようにくっきりとその存在を主張していたが、それを除けば滝は、馬鹿みたいにだだっ広い氷帝学園の図書館に、あまりにも似つかわしかった。
 そこかしこで交わされるひそやかな会話と、勉強している数人の作業音、カウンターで起こる機械的な音。滝がページを繰るのを、俺は向かいに座ってただ見ている。そのうち気づくかと思っていたのだが、どうやら集中すると周りの音が聞こえなくなるタイプらしい。はじめは話しかけられるのを待っているだけなのかとも思ったがちらりとも視線を上げないのでそういうことでもなさそうだった。手持ちぶさたに携帯を取り出せば図書館に入ってから軽く20分は経過している。引退前ならまだまだ、アップが終わった程度の時間帯だったろうか。メールフォルダを開いては閉じツイッターを開いては閉じ、カチカチといじくっていると、ふいに真正面から声がした。

「マナーモードにしてる?」

「……してる」
 滝が顔を上げていた。俺が低くそう返すと、鋭い眼尻が満足した風に下がり、そう、とうなずいてまた本に視線を戻す。俺は携帯をスラックスにしまって、滝の手元を見る。細かい字の小説。見てるだけで眠くなりそうだった。
「それ何」
「ジャン・クリストフ」
「どんなん?」
「難しいな。長い話だよ」
 ドイツの宮廷音楽家の子どもが、色々な経験をしながら作曲家として成長していく──って感じかな。難しいと言いながらさらりと要約して見せて、ついでのように「君は?」とたずねる。ささやくような声は低く、わずかにかすれていた。
「何が」
「借りないのかい」
「ああ、……いや」
 言葉を濁すと首をかしげる。それから、俺に用、と、たずねるというよりも確認するような調子で言うから、黙ってうなずいた。
「じゃあ出ようか。これ、戻してくるから少し待って」
 立ち上がってそう言った滝へとっさに「借りねえの」と聞けば、何度も読んでるし、家にもあるから、と返されて間抜けな声が出る。滝は横目で俺を見て、ふ、と笑って近くの本棚へ歩き出した。荷物をつかんでそれに続く。
「お前最近ずっとそれ読んでんの?」
「いや? その日の気分」
「なんでそんなのわざわざ図書館で読むんだよ」
「暇つぶしだよ。……長いからさ、放課後」
 滝はふと表情を曇らせた。長い指が整然と並ぶ本の背をたどり、ぽっかり空いていたすきまを開いて手にしていた本を滑り込ませる。指が離れた背表紙には『ロマン・ロラン全集T』とかすれた銀字が刻まれていた。すんなりとそこに収まったなつめ色のハードカバーを見るともなしに見て、答える。
「部活ねえから?」
「家に帰ってもすることがないんだよね」
 遊び回るような気分にもならないし、と話しながら図書館の出入り口へすたすたと歩き出し、一歩外へ出たところで、足を止めないまま滝は俺の顔を見た。口元がこわばるのが自分でわかる。それで、とうながすように言った滝に、言葉を投げる。
「……お前さ、……テニスやめんの?」


   ×


 あの日滝が宍戸に敗けた理由を、『滝に好意的に』解釈する連中は少なくなかった。たとえば、宍戸のためにわざと敗けたのだとか、あいつの努力をくんだのだとか。そういうたぐいのものならまだマシな方で、根も葉もない邪推も数えればきりがなく、跡部があいつを後押しした理由は実はこうなんだとか、監督に賄賂でも握らせたんじゃねえかとか(ばかばかしい話だ)、滝への好意というよりは宍戸への悪意を多分に含んだ噂が、しばらくは飛び交ってやまなかった。あの実力主義の跡部がそんなことを容認するはずがないってとこで大体は収束するのだが、滝本人の事情に関する推測はといえば、元々がそれなりの仲だったことも滝がそこそこの実力者であることも知られている分、否定されきらないままなのだった。なにしろあいつは──少なくともあの時点では──本来、レギュラー落ちなんかするはずじゃない存在だったのだから。
「……決めてない、けど」
 言いにくそうにそうつぶやいた滝は、どうして、と俺にたずねた。「なんとなく」と素直に答えれば苦いほほえみを浮かべる。
「君は?」
「わかんねーけど、たぶん続ける」
「そっか」
 滝はぼんやりとうなずいて、それだけかい、と首をかしげる。どうだろうか。返答に困って首の後ろをかき、いつの間にやら追いついていた滝の隣を歩く。そもそもどうしてこれを聞きたかったのか、今となってはよくわからなかった。少なくとも、滝がやめると言ったとして、それにどうこう言おうと思っているわけじゃなかったはずだ。やめると言っても続けると言っても、たぶんたださっきの滝みたいに、そっか、とか言うだけで。
 誰も彼もが挫折と共に選手を辞めるわけじゃない。テニスに限らず、たとえば高校まで情熱を注いでいた競技を大学や社会に進む段階で穏やかに手放すっていうのは世の中の大多数のパターンだろうし、それ以前に中学から高校で部活を変えるのだってよくある話だ。新天地とでもいえばいいのか、そうやって新しい舞台で開花する奴だっている。才能に苦悩し続ける奴もいれば、大して上手くならなくてもお構いなしに楽しみ続けられる奴もいる。それだって一種の才能だ。好きなものは好きだから、でやっていられるということ。身や心を削ることばかりが本気で好きだという証になるわけじゃないということを、勝敗がすべての競技世界に身を置いていると見失うことがある。俺たちは──『俺たち』は、そういう世界には生きていないから知っている。才能の有無や大小を、努力の量を、勝敗の数を常に自問しながら進んでいく世界には、生きていないから。
 これからその世界を外れていく奴も、俺たちの中からそちら側に踏み込んでいく奴も当然出てくるのだろう。そうして滝は今、その狭間に立っていて、口では決めていないと言ったけれどきっとおそらく、境界線の向こうへと行こうとしているのだ。それは宍戸が歯を食いしばって踏みとどまったデッドラインで、俺は永遠に超えることのないボーダーラインで、あいつらの世界と俺たちの世界とを、ただ公平に区切っている。
「どうかした?」
 突然足を止めた俺を振り返って、滝は不思議そうな顔をした。何も答えず足元を見つめ、想像する。目の前に引かれた線。滝と俺とを隔てる、一本の線。……お前さ。さっきとそっくり同じ呼びかけをして、一歩前へ踏み出す。ボーダーラインは、汚れひとつない床に溶けて消える。俺がそれを踏み越えることは、やはりないのだ。滝、お前さ。想定していたよりも低い声が出る。視線を上げると、滝は俺の言葉を待ち受けるようにまっすぐ俺を見つめ返した。
「宍戸のこと、恨んでないんだろ。なんか、取材で」
「……ああ。言ったね」
「一瞬でもさ、嫌いにならなかったのかよ、……なんなかったんだよな。なんかさ、わかるよ、俺、お前らのそういうとこ、ホント──」
 まとまらず、口をつぐんだ。むかつく、とも、嫌い、とも、言いがたかった。滝のことは嫌いじゃない。でも、どう感じているのかわからない。強いて言うならば、ただ、腹立たしい。唇を引き結んだ俺を見て、滝はわずかに目を細めた。笑みというには少し足りない、なにかたしかめるために目をすがめるような、そんな調子だった。そうして口を開いた。
「宍戸のことは、嫌いにはならなかったけど、でも」
 言葉を選ぶように、短く区切りながら。テニスは、と続け、目をみはった俺を、凪いだ瞳でやっぱり見返して、……「一瞬でも、」
「──ほんの一瞬でも、嫌いになったことがなかったか、って聞かれたら、あったかもしれないって答えるよ」
 滝はそう言って、今度こそほほえんでみせた。弧を描いたまぶたの奥に、窓から差し込んだ夕日をきらりと反射して、底冷えするような熱いひかりを孕んだ飴色の瞳が、見えた。

 ぞっとした。

 足の先から這い上がるように震えが起きて、知らず手を握りしめる。──知っている。知っていた。本当は、あの日からずっと、ちゃんと。わかっていた。そんなわけがない。そんなわけがないのだ。間借りなりにも強豪校の215人中7人に立っているあいつらは、跡部だけじゃなく宍戸だけじゃなく全員が全員、化け物みたいに高いプライドを持っていて、誰にも敗けてたまるかといつだって思っていて、滝だって例外であるはずがなかった。敗けてもいいなんてこいつが考えるわけがない。だってこいつは、滝萩之介という男は、二年の秋に三年が引退すると同時にレギュラーへ昇格して以来、宍戸に蹴落とされるまでその座に立ち続けていた男なのだから。『勝てる選手であること』が信頼されるための唯一にして絶対の条件であるこの氷帝学園のテニス部において、それを守ることができる男だったのだから。──そうだ、それに、あの日。あの試合の後、俺は見たのだ。

 うずくまっていた滝がぎこちなく体を起こしたのは、監督を追って宍戸が走り出し、それを更に追う形で鳳と跡部が居なくなってからだった。膝を軽く払ってコートの出口に向かい、フェンスに集まって試合を覗いていた部員たちがあわてて道を空けるのに一瞥もくれず、何も言わず、滝は少しだけ目を伏せて、それでもいっそ堂々と去って行った。悔しそうな表情すら見せなかった。プライドがそうさせたのだろうと思う。あおざめた頬がけれど引きつりもせず涼しい表情を保っているのを目の前で見て、馬鹿みたいだと思ったのをはっきりと覚えている。往生際悪く必死でしがみついた宍戸のほうがまだ理解できると、あいつに共感したのなんてその時が最初で最後だった。だって、敗北した時点でもうプライドなんて粉々のはずだ。だから宍戸だってあんなみっともない真似ができたのではなかったか。背筋を伸ばして立ち去る滝の背中を、騒然とする部員たちの中から見送って、そう、今と同じように、ぞっとした。そうだ。本当はそうだった。滝。化け物の、滝。子どもじみた意地や強がりでは片付かない。あいつにとって己はあくまで、強者であるに決まっている。うなだれてたまるか。足をひきずってなどやるものか。──それは血を吐くような矜持の証明だった。俺はこの目で見たのだ。宍戸は知らない。あいつは滝の、あの強さを知らない。これから先も一生、知ることはない。
 宍戸と滝はあの一件以降も変わらず仲が良かった。少なくとも、外側からはそう見えるように二人して振る舞っていた。大方、滝が態度を変えなかったから宍戸がそれに合わせるしかなかったんだろう。いくばくかの気まずさや罪悪感のようなものを、いくらあの宍戸でも抱かなかったとは考えにくい。二人の間には誰も知らない関係性と納得があるのだと、誰もが思っている。けれど、宍戸は。知らないのだ。死にもの狂いで涼しい顔をして見せた、あの日の滝を。──そんな奴に、滝の何がわかってるっていうんだ?
 どうしてなのかはわからない。でもずっと、ずっと、思ってやまなかった。俺は知っている。滝のことを。宍戸なんかより、よっぽど。はたから見ればきっと笑ってしまうような勘違いなのだろう。とんだ思い上がりだ。それでもそう思えて仕方なかったのだ。
 宍戸の努力を見ただろうと、公言してはばからなかった滝に、そうやってお綺麗な態度とってればいつか報われるとでも思ってんのかよ、と、言ってみたかった。そんな話じゃないってことくらい最初からわかっていた。だから言えなかった。でも、何か言いたかった。言ってやりたかった。滝に。潔く、強く、誇り高い、それでもたった一人の、敗北者である滝に。

「やめないよ、俺」
 滝は依然ほほえんでそう言った。俺を貫いたひかりは影をひそめて、からかうような、少しあきれたような、やわらかい瞳をしていた。急に何もかもを見透かされているような気分になって、俺は視線を逸らした。
「……知ってる」
 ふてくされたような響きになった返答に、滝はふっと息を漏らして笑った。そうして、たぶんね、と付け足した。やたらにはっきりとした声だった。
「やめないよ、やめなかったから」
 それがどういう意味であるのか、痛いほどわかっていた。わかっていた、滝は、どうしようもなくあちら側の人間なのだ。才能もなく努力もできない、十人並に通り一遍な練習をしておおむね満足して毎日日が暮れる前に家に帰るような平部員だった俺も、そんな俺でも、俺だって、たったひとつだけあいつらと変わらない部分があって、それがあるからこそ、いつだって悔しく思う。宿題を済ますのは忘れてもグリップテープを新調することは忘れないような、スニーカーはかかとをつぶしてしまってもテニスシューズの靴紐は几帳面に結び直すような、たったそれだけのことでも同じであるはずなのに、俺たちはこんなにも違う。
 滝は進んで行くのだ。たった一人の敗北者だった滝は。ボーダーラインの向こう側へ。才能と勝敗の世界へ。絶望的であっただろう敗北を、きっとすべての糧にして。だから。──だからずっと、そうか、俺は。

 俺は滝が羨ましかったのだと、その時初めて気がついた。
20151029/ビューティフル・ワールド(あとがき



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