小さなひとつの

※名無しの女子視点※
洒落にならないくらい気持ち悪いです





 滝君のことは、あまり知らない。
 わかっていることと言えば、少し前まで強豪らしいうちのテニス部のレギュラーだったとか、同じくテニス部でC組の宍戸君という人となんやかんやあったらしいだとか、あとは図書館に行くたび見かけることから本が好きなのだろうなということとか、そのくらいだ。クラスの離れている彼と、数学の時だけ同じ講座になって、どうやら数学は得意なようだ、ということも知った。そもそも、滝君のことが目に留まるようになったの自体数学の時間がきっかけだったのだけれど。
 ある時、指名されて黒板の問題を解きに行った滝君のチョークの音があんまり迷いのないものだったから不思議になって、それまで見てもいなかった黒板の方へ視線を上げたのだ。それと同時にパキンと何か砕けるような音がして、苦笑しながらかがんでティッシュにチョークの欠片を拾っていく彼の姿が目に入って、それから、それからだ、きっと。板書された解答は、チョークが折れたせいで一部が欠け落ちていたけれど、数学を不得手とする私から見るとびっくりしてしまうほど綺麗であった。それが、春。


   ×


 滝君の、斜め後ろの席。偶然手に入れたにしてはできすぎている位置で、窓の外へ視線を注ぐ滝君を黒板を見上げるふりをしながらそうっと見つめる。校庭ではどこかのクラスの体育が行われているらしい、遠く聞こえる喧噪と、滝君のほんの少し持ち上がった口角、細められた目。そんなようなものたちをぼんやりと認識してから視線を緩慢にスライドさせ黒板へと移し、時折ちらりと盗み見ながら意味を理解しきれていない数式をノートに流し込んでいく。数学は苦手だ。どうしても。何度目か、滝君に目をやる。そして、気づいた。
 滝君が眉を寄せている。
 瞬間、先生の声が遠ざかった。生徒が教科書をめくる音、多数のシャーペンが多数のノートを打つ音、だれかの貧乏ゆすり、そういうものが一息に意識の外に押し出されて、滝君の横顔にフォーカスしていく。校庭からの遠い歓声が耳へと届く。骨ばった手に握られたシャーペンが、小さく震えているのを、見た。
 ──やがて、滝君は窓から視線を剥がした。
 それにならうようにノートへ意識を戻し、ページの端に書き付けた日付を何とはなしに目でなぞる。9月になり二学期が始まった校内は、どこかで少しだけ気の抜けた雰囲気のような感じがしていた。けして夏休みぼけではなく、運動部の大会が一通り終わって、多くの部の三年生が引退したばかりだからだろう。男子テニス部も、もちろんそうだ。詳しくない私にはシステムがいまいち理解できなかったけれど、テニス部は関東大会で一度敗退したものの全国大会に出場していくつか勝利を納めた、らしい。記録上ではそれだけだった。とにかく、夏は終わっていた。
 全国大会に出場することが決まった時の校内の沸きようはまだ記憶に新しい。跡部君には、ファンか否かとか関係があるかとか、女子とか男子とか関係なく、人の心を動かしてしまう力がある。彼は大きな大きな光だ。希望によく似ていながらもっとひどく強引で、やさしくなくて、けれど誰のことも押しつぶさない光だ。その光の中で、あの日、滝君がいつものように微笑んでいたことも、私は覚えている。
 聞いた話では、全国大会で滝君はずっとレギュラーと行動を共にしていたらしい。彼はそこで夏を見届けることとなった。どこまで正確な話なのか、滝君が準レギュラーに落ちたことの顛末というのも噂には聞いているから、その時眉をひそめたのが、外で行われている体育がC・D組の合同クラスであることと関係しているのだろうということは見当がついた。夏は終わった。私とは何の関わりもない世界で。滝君が、外されてしまった世界で。そこにどんな感情が浮かび上がるのか、少しだけ考えて、さっぱり想像がつかずにすぐやめた。瞬間胸に感じた痛みが、ひどく、ひどく傲慢でおこがましいものに思われて、唇を噛む。
 理解しようがない。理解する余地がない。理解する権利がない。何も知らない、これからも知ることのない私には。

 唇の痛みが胸の痛みを超えた頃、震える手の上に涙がぱたりと落ちた。


   ×


「あ、」

 衣替えも済んで、ずいぶん寒くなった頃のことだ。
 カツン、と、滝君の短い声に連動するような短い音がして、目を上げる。足元でしたその音に身体を傾けると、私の机の足へ寄り添うように銀色のシャープペンが落ちていた。考えるまでもなく、腕を伸ばしてそれを拾い、後ろに身体をひねっている滝君へ差しのべた。
 滝君が柔らかく微笑む。
「ありがとう、──さん」
 囁かれたことばに、心臓が飛び跳ねる。
 名前を呼ばれたのははじめてだった。無性にのどが渇く。たったこれだけのことで。おかしく思われないようにそっと笑ってみせれば、手を差し出した滝君が、ゆっくりと、きっと私にそう見えただけなのだけれど、てのひらを開く。──私は、今度こそ、ごまかすこともできずに目をみはった。
 息が詰まった。
 爪の整えられた手は、しかし、ひっくり返せば肉刺だらけなのだった。『テニスプレイヤーの手』であるのだった。走馬灯のように、夏の終わりの情景が思い出される。横顔の、ひそめられた眉。小さく震えていたきれいな手。けしてきれいなだけではない、だからこそ美しい、あの手。きっとシャープペンを握るよりも、白墨を持つよりも、ラケットを握るのが一番似合うのだろう、かたい手。開かれたてのひらになんでもない顔をしてシャープペンを置きながら、私は泣き出してしまいたくなる。美しい。なんて美しいんだろう。そ知らぬ顔をして、この人は、こんなにも。
「テニス……」
「うん?」
「……好きなんだ、私」

 嘘だ。

 頑張ってるんだね、好きなんだね、頑張ってね、楽しい?
 どう続けても間違いな気がした。
 滝君がちらりと先生を見やってから、そうなんだ、と囁く。
「あんまり、やったことはないけど」
「見るのが?」
「……うん」
「やってみると良いよ」
「……、楽しい?」
 いささか以上の割合で、ためらいながらもたずねた。
 滝君は、ふっと息をもらすと、体を前に戻しながら目だけで私をとらえて、

「楽しいよ」

 楽しいよ、一番、と、──ひどく素直な声で言った。
 それきり滝君は振り返らなかった。そっか、と答えようとして、声になりきらずかすかな息だけが口の隙間から漏れる。けれど、別段かまわなかった。どうせ聞いていない。雑音がぐんと近くなって、視線が自然と黒板の数式に吸い込まれる。すっかり習慣として染みついた動作だった。私語していた分を取り戻そうとノートに目を落とした時、罫線がじわりとにじんで、涙が浮かんでいたことに気づく。目が熱い。胸が、熱い。けれど、今度は、涙が落ちることはなかった。それが無性におかしくて、小さく笑う。ああ、……。
 滝君は、──滝君は、数学が得意で爪が綺麗で、よく図書館に出没する、テニスが好きな、ひとだ。私はやっぱり、それ以上を知ることはないのだろう、と思った。それで充分だと思った。彼はそれだけで美しかったのだ。

 滝萩之介という男の子は、私の中に、永遠に消えることのない、いっとう美しい痛みを残した、ただひとりの人だった。
20141126/小さなひとつの(あとがき
恋とも愛とも言えない、
どこにでもある、小さなひとつの、痛みの話。



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