死なずの君よ

(遠野・君島 − 木手・丸井戦直後)



 201号室の前に立ち尽くして、丸井は迷っていた。
 ノックしようと上げた右手を一旦下ろし、ため息をごまかすように深呼吸する。一回。二回。……もう一度深く息を吸い、大丈夫だ、と唇を引き結んで再び右手を挙げたその時、内側からドアが開いてぎょっとする。とっさに反応する間もなく、茶色い髪がさらりと目の前で揺れた。
「……不二」
「ああ、やっぱり」
 そろそろ来るかなと思ってたんだ、ひるんで一歩あとずさった丸井へ不二はそっとそう言い、白石と連れ立って部屋を出た。白石が小さく笑って肩を叩いていく。なんだか屈辱的な気分になりながら開いたままの扉を今度こそ軽く叩いて、部屋の奥へと声を放った。
「──幸村君、入るぜ」

   ×

「……君か」
 たった今、親から電話があったよ。
 水色の携帯を手にベッドへ腰かけた幸村が、茶化すようにほほえんで言う。丸井はあいまいにうなずくと、うながされるまま向いのベッドに座った。「毒草図鑑」と書かれた分厚い本が枕元に置いてある。ここは白石のベッドなのだろう。ぼんやりとそう認識しながら、考えずに口を開く。
「……何だって?」
「うん?」
「電話」
「ああ……すぐに帰ってこいってさ」
 え、と思わず声を上げると、幸村は苦笑して携帯に目を落とした。どういうつてか知らないがどうやら本当に病院の方から幸村の家族に連絡が行っていたらしい。明日にでも渡米しようと言い出しかねない両親を、ひとまず合宿が終わるまではとどうにか説き伏せたところなのだという。喜んでたんだな、とつぶやけば、それはもう、と困ったような笑顔のまま返される。
「願ってもない機会なんだから」
「……幸村君は?」
「俺?」
 幸村が目を上げる。うなずくと、その目にちらりと当惑の影が差したのを見て、丸井は畳みかけるように続けた。

「──今日の試合、どう思った」

「どう……か」
 幸村は少し眉をひそめて、丸井と目を合わせる。そうしてしばらく見つめたあと、口を開いた。
「……強いて言うなら、勝つべきだったな」
「……そう、だな」
『らしい』言葉に思わず笑うと、幸村はそれに応えるように一瞬口元を緩めた。
「スポーツマンとしてどうとか、そんな話は聞きたくないだろう?」
「……まあ、そりゃ」
「実際、許されることではないんだろうね。けれど」
 幸村はふと、視線を窓へ向けた。カーテンもガラスも、その向こうの景色さえも超えた、どこか遠くへ目をやっているように思えた。
「俺にとっては、これは必要なものだろう。だから俺にはどうこう言えないよ。……それに、忘れかけていたんだ、自分がどれだけ不安定な場所に立っていたか。……それも思い出せた」
 そう言って、丸井を見すえる。息をのんだ。どうしてか瞬間ひどく冷めた目をした幸村の顔を見ていられなくなってうつむけば、その手の中の携帯が目に入って、ああ、そうか、と思う。
 勝つためでも何でもなかった。だから立海の理念に反していた。それどころか誰の理念にも沿う行動ではなかったろう(本当のところ、『幸村のため』ですらなかったように思う)、それでも、後悔なんてできなかったし、間違っていると思えなかったのだ。だからここに来たのだった。言い訳も、許しも、答えも要らない。ただ、何か一つ。言葉があればと思って。
 他のことはどうでもいい。何もかも。どうでもいい。ただ、幸村が、必要だと言った。『願ってもない機会』、当然だろう、完治させることができるならそれ以上などあり得ないのだ。

 ──不安定な場所。

 ふと、思考がその単語に行き当たる。術後のリハビリ期間は、見舞いには行かないようきつく言われていた。だから、幸村がどんな苦痛を乗り越えてきたのか、ほとんどの部員は知らない。ただ、復帰した幸村は少しもブランクを感じさせない動きでボールを打ち、涼しい顔で勝利し、動きの鈍い部員を叱ったのだ。涼しい顔で。凪いだ瞳で。不安定な足場に在りながら。
 幸村がどうしてそんな風にあろうとしたのか、何が彼をそこに導いたのか、今はどこか変わったのか──丸井には知りようもない。いつか誰かが望んだ場所に彼が帰ってきたのかどうかもわからない。ただ、幸村はあの頃どこかずっと果ての方、その淵のようなところに立っていて、死を見つめ死に見つめられ、それでも死ぬことのないままその淵を離れたのだとだけ思っていた。そう、思っていた。
「そっか」
 そう答えて笑って見せた時、丸井は不意に悟った。──神様は、

 神様は死なない、
 彼は、死ななければならなかったのだ。

「……悪かったな。俺、帰るわ」
「ああ、また明日」
 幸村が微笑む。またな、と同じように返して立ち上がり、戸に向かった丸井の背後で、ああ、そういえば、と声が上がった。
「ん?」
 緩慢に振り返ると、幸村は先ほどとは違う感触の笑顔を浮かべて、少し迷うような目をした。丸井が言葉をうながすように首をかしげて見せると、やっと口を開く。

「……楽しかったかい?」

 なんだか照れくさそうにそうたずねた幸村に、丸井は思わず笑った。
「まさか」
「……じゃあ、やっぱり、駄目だな」
 幸村は、いたずらっぽくそう言う。そうだな、と答え、丸井は不意に泣きそうな気持ちになって、幸村へずいと手を差し出した。幸村がぽかんとその手を見つめる。
「何だい」
「……握ってくんね?」
 何も考えないまま口を動かしたが、不思議に言葉は詰まることなく続いた。な、思いっきり。
 幸村は不思議そうに丸井を見上げる。しばらくそのままじっとしていると、わかった、と言って、少し冷たい手が重なる。──そして、
「〜〜〜〜〜ッ!!!」
 想像のはるか上を行く痛みに、声にならない悲鳴を上げて、丸井はうずくまった。幸村は何も言わない。けれど、笑っているのだろうと思った。力が緩む。ああ、と思う、今度こそ涙が出そうになっているのを懸命にこらえながら、丸井の体温が移ってぬるくなった手をそっと見上げると、一時期とは比べるべくもなくしっかりとした手首が視界に入って、丸井は唇を引き結んだ。──ああ。
 生きている。こんなにも強く。生きているのだ。……顔を上げて涙目のまま笑って見せる。当然その先には、幸村がいる。涙をごまかすように首を振って、丸井は考えても考えても答えの出ない問いを振り払った。善し悪しなんて知ったことじゃない。丸井の手を強く握るこの力を守るためならば、この先も、自分だけではない、チームの誰もが、どんなことだってしてみせるだろう。
 どんなことだって。
 また明日、と当たり前のように言える、ただそれだけの日々を死なせないために。





(また明日という一言だけで泣きたくなるほど安心した頃から、
 俺達は変わってしまっているのだろうか。)
20141028/死なずの君よ(あとがき)(※20150103:改稿)
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