ノーバディノウズ

滝誕のはずが


「──6-4、3-6、7-5」

 呼吸を整えながら呟いて、雨が降り始めたコートに寝転がる滝に目を向ける。視線がかち合うと滝はにっこり笑った。らしくもなくまるで幼い子どものような印象を受けるその笑顔に呆れて、一言こぼす。
「満足したかよ」
 いつの間にか落としていた帽子を拾って砂を払いながらさりげない調子のつもりで問うたものの、台詞の額面に反してまだ息は上がったままだ。妙に詰まったような言葉遣いに内心悪態を吐きたい気分で顔をしかめた。すると測ったようなタイミングでさっきまでとは違う表情の笑い声が上がる。クスクスと口元に手を当てて、滝は目を細めた。「見栄っ張り」
「……悪かったな」
 すっきりした顔しやがって。苦々しく思いつつネットに手をかけて乗り越え、いまだに仰向けのままの滝へ手を差し出した。いつも几帳面に整えられている髪は砂やら砂利やらに塗れた地面へ散らされて雨で濡れ始めている。そんなことにも構わず、滝は俺を黙って見上げた。微かに弧を描いた唇が動く。謎めいた笑み。いつもの笑み。
 コロコロと表情を変えるのは、俺の反応を期待してのことだ。

「空が、さ」
「空?」
 す、と真っ直ぐに右手を差し上げる。宛を無くした手を静かに下げた俺は滝の行動に倣(なら)うように上を見上げた。降り続く、強くなってゆく雨に目をすがめる。「こうしていると広く見えて」──穏やかな声が耳に届いた。
「…背中とか汚れんだろ」
 いいのかよ、と言外にたずねる。いいんだよ、と答えが返ってくる。言葉が見つからず空を見上げたまま黙り込み、首が痛くなるほどの時間そうしていると、滝はやがて揺らいだ声で言った。「楽しかったよ」、「ありがとう」。一呼吸置いて、ため息をつくように続ける。「……勝ちたかったな」


『3セットマッチ、公式戦の形式で、一切容赦無し』

 そんな言葉を投げて寄越されたのは今日の部活の直前、二人残った部室でのことだ。出ようとした俺の背中へ不意に声をかけた滝は、俺が振り返ると試合がしたいといやに真剣な声で言ってきた。二つ返事で了承したのはほとんど断る理由がなかったからだが、そのときの滝の表情に少しばかり気圧されたというのも正直に言えばあった。
 練習後にコートに立ち対峙した滝は、やはりいつもとは──最後に試合した日とは違う表情で、ラケットを握っていたのだった。


 ……あの日。



   ×



 あの日、監督や俺達がいなくなった後、滝はすぐに立ち上がってコートを出たらしい。すれ違ったという奴の話では『疲れてはいるようだったけどいつも通りの涼しい表情で、何も言わずに』立ち去ったとか。次の朝、顔を合わせるなり俺の髪を見て目を見張った滝は、中途半端に開いた口かららしくもなく間の抜けた声を漏らした。「馬鹿じゃないか、宍戸」そう口早に言った声はまるで笑っているかのように滲んで聞こえ、しかし俺の目に滝の表情はひどく痛ましく写ったのだ。
 今思えばあれは表情を装うことすら忘れるほど驚愕した滅多にない瞬間だったのかもしれない。けれど、こぼされた言葉に俺が反応を返す間もなく滝は本当に笑顔になったし、いつもの茶化すような言葉を並べて俺を呆れさせてみせたのだ、まるで何一つ変わったことなどないかのように。
 くだらない応酬の末に俺の頭へ乱暴に手を置いた滝はふと真顔になったかと思うと、案外悪くないというようなことを呟くように言った。そうしてそのままぐしゃぐしゃと二・三度髪をかき混ぜる。俺が手を掴んでそれを止めれば掴まれた手もそのままにへらりと笑う、滝にしては珍しいようなその顔を見たときだしぬけに、あぁこいつに恥じないプレイヤーであろう、という思いが胸に着地した。至極自分勝手に思ったのだった。思い返せば驚くほど単純で、けれど俺は、きっとそのまま進んで来たのだ。


 ──勝ちたかったな、と再び、雨音にかき消されそうな低い声で滝が言う。そうしてゆっくりと立ち上がり、乱れた髪を気にも留めず俺の手を強く握ると囁くように瞼を伏せた。

「………俺もやっぱり、テニスが好きだよ、宍戸」

 自戒するようだった表情はしかし、そう言ったのちほんの少し緩む。俺は噛みしめるようにうなずいた。
 『勝ちたかった』のはいつの試合なのかきっといつまでも聞けはしないと、それでも進んでいいのだと、知っていた。大丈夫だ、と思った。


20121029/ノーバディノウズ ─だれも しらない
宍戸さんは愚直なひとだから。



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