長い夢を見ていた。
時は恐らく明治の頃だろうか。手入れの行き届いた屋敷に少しの使う者と多くの使用人。
おれはその屋敷で専属の絵師を務めており、ほとんどそこの一人娘の画を描かされていた。
おれはきっと彼女のことが好きだったのだろう。病弱だった彼女が病に倒れ二度と目覚めなくなり解雇された後も、生涯彼女の画だけを描いていた。
どの彼女も額縁の中では美しく微笑んでおり、また、おれ自身がどれだけ年老いても当然のように彼女が老いることはなかった。










デスクの上には紙の山が鎮座しており一度地震に見回れば仕事への影響は計り知れないものになるだろう。
昼休憩を終えたばかりか普段より騒がしい部署の空気と印刷されたてのインクの匂い、それから紙の匂いが好きだった。
ローカル誌がそれなりに有名なだけのこじんまりとしたこの出版社に勤めようと思ったのは、こうやって適度に締め切りに追われ喧騒をBGMに、紙の山に身を沈めていたかったからだ。


「ええ!?絵を描くのをやめる!?」


そう、決して私用のスマホに向かって仕事中に叫び、いらぬ注目を集めるためではないのだ。
徹夜明けなのかうっすらと目の下に隈をこさえてこちらを睨む隣の先輩に軽く会釈をして背中を丸める。
ひそひそと内緒話でもするように声を落としてどういうことなのか言及しようとして、ハッと息を飲む。
もしもし、潮江さん。声に何ですかと深刻なこちらと違って明るい応えが返ってきた。


「もしかして彼女について何かわかったんですか?それでいきなりやめるだなんてことを」
「いいえ、いいえ。違います。ただ、もう待つだけはやめたんです。彼女にもしかしたら会えるかもしれないから絵を描き続けるなんて大義名分を用意して、彼女が存在しない現実を受け止めず架空の彼女に逃げることを」


何か言おうとして何も言えなかった。
彼の言葉を否定するには僕はあまりにも彼のことを知らなかった。そうしてまたこの想いを言葉にできるほど僕は大人ではなかったのだ。


「……どうしてこのことを僕に?」


辛うじて言えたのはそれだけだった。彼から彼女の話を聞かされたときその表情には後悔の念がありありと浮かんでおり、同時に僕なんかが聞いていい話ではなかったことを理解した。
僕のことなど忘れ去りたいはずなのにこうして連絡をしてくる。彼女への想いについて話してくれる。彼の心情が理解できないでいた。


「どうしてと言われても困るな。そうだな……笑ってくれても構いませんから」


そう言う彼の声から困ったように照れる彼の姿が脳裏に浮かび上がった。
電話の向こうからはバスの運転手の声が聞こえてくる。告げるバス停の名前はこの出版社から遠く離れたところであった。


「あなたから彼女の匂いがしたんです」


金木犀が好きな人でした。
それだけ言い残して通話はきられた。何故それを知っているのだろうと不思議に思うよりも一人の同期の姿が思い出される。
そういえばあいつも金木犀が好きだったな。


「伊作」


後ろから声をかけられ振り返る。隣にいた先輩の姿はいつの間にかなく、どうやら暫くの間呆としていたらしい。
スマホを引き出しの中にしまって愛想笑いを浮かべた。


「どうしたの留三郎。ノルマは?」
「とっくに終わってるよ。お前のほうはどうなんだ?いいネタが入ったって喜んでいたけど」
「あ……うん。それなんだけど編集長に頼んで別の特集に変えてもらったんだ」
「はあ!?何考えてるんだよ!締め切りまで時間もないぞ」
「ははは。僕の手には余る人だったんだよ」


その話はもう打ち切ろうとパソコンを立ち上げる。
新しい題材はもう決めてある。以前からやってみたいと思っていた題材だから十分な資料も集まっているし、後は徹夜覚悟で進めていけばなんとか間に合うはずだ。
そうやって自分を追い込むことで彼のことを忘れようとしている。どれだけ年を重ねても彼のように強くなれるとは思えなかった。
そこでふと金木犀のことを思い出した。同時にそういえば今日はあの人の姿が見えないなと思う。


「ねえ、留三郎。今日はいないんだね彼」
「ん?ああ、あいつか。それなら今朝早くに駆け込んできてな、わけも言わないで辞表おいていったぞ。自分の仕事は全部済ませてあったみたいなんだけどいきなりのことだったし編集長のお気に入りだったからな。カンカンに怒るどころか心配心配大心配。もしかして身内に何かあったんじゃ、危ないことに巻き込まれたんじゃって大騒ぎでよ」
「へえ、大変だったねえ」


後半のほうは聞き流していたのだが急に辞めたというのがどうにも気になった。
金木犀のこともあったしもしかしてと思ったのだが、ただの考えすぎだよなと頭(かぶり)を振る。
ネットに接続して潮江の名前を打ち込むが知っているよりも多くの情報はヒットしなかった。


「そういえばあいつ伊作の机の上にある資料見て血相変えていたな。確か、」
「……潮江文次郎」
「そうそう!あ、ほらこのシオエサンと絵の写真が一番上においてあってな」


そう言うと横のほうに寄せていた彼の資料の山から、彼のアップの写真と彼女の画を写したものを取り上げた。


「あれ……?このヒトあいつに似てね?いや、雰囲気とかは全然違うけどたまにあいつもこんな風に笑うよな」
「! 留三郎!!」
「おう!?な、何だ?」
「今日は僕腹痛が痛いから帰りますって伝えておいて!仕事は絶対間に合わせるから!」
「な、お前それ明らかに仮病じゃねえか!」
「頼んだよ留!」

引き出しからスマホを出してかばんの中に突っ込む。それから机上の資料を幾つかと留三郎から写真をひったくって、こけそうになりながらスタートダッシュをきった。
尚も何事かを叫んでいる留三郎を無視して電話帳の中から立花仙蔵の名前を探し出して電話をかける。
出版社を出てすぐに僕の前をバスが横切った。





らないまま大人になった




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